現在、この項目の一部の版または全体について、削除の手続きに従って、削除が提案されています。
Шаблон:Copyrights Шаблон:世界遺産概要表
ショチカルコ(Xochicalco)は、メキシコ・シティの南西約70km、 モレーロス州の州都 クエルナバカ市の南西約25kmに位置する古典期終末期から後古典期初頭(700年頃~1000年頃)に築かれた要塞都市[1]遺跡。海抜1500m前後の三つに連なった丘の上に立地する。
ショチカルコの名前の由来はナワトル語で「花の家のある場所」を意味し、花を表すXochi(tl)と家を表すcal(i)と場所にあることを意味する接尾辞である-coでできた語であるが、最近の研究でショチカルコが繁栄した当時は、「鳥が捕らわれた場所」[2]というような意味の名前であると考えられ、同じ文字は同時期のカカシュトラでもみられ商人を表す文字を描く一方で他の土地の名前を描く基壇[3]があって、ショチカルコとカカシュトラの両者に商取引のような関係があったことを示している。
ショチカルコには、先古典期の終末すなわち紀元前200年ごろからの居住が見られるが、本格的な発展期を迎えたのはテオティワカンの滅亡後で、650年頃から急速に発展し、メキシコ中央高原で最も影響力を持つセンターに成長した。
ショチカルコが建設された場所の中央を占めるのは、セロ・ショチカルコとして知られる山であってその山頂には公共建造物があり、その周囲にはテラスと一般住民の居住区が広がっている。地形をたくみに利用して比高差130mの丘陵を中腹から幾重にも階段状に整地して、そのテラスの側面に噴き石を行い、塁壁が入れ子状に連なって壁や空堀として効果的な防御としている。そういったテラスの段差は3mから高いところで5mに達する場所もある。
セロ・ショチカルコとその周辺の丘陵がこの時期の主要なセンターが発展する場所の一つとして選ばれたのは、丘の周りに予想される外部からの攻撃を防ぐために堀や溝や城壁を築くのに都合のよい自然の要害であったことに起因していると考えられる。細心の設計のもとに城壁を築いて土を動かしたり積み重ねたりなどの造成を行い、「城壁」部分は石灰層で被われさまざまな多彩色のモチーフが描かれた。ショチカルコの城壁は丘全体に巡らされショチカルコ自体を遠方から観察した場合に一つの巨大なピラミッドのようにみせている。
ショチカルコの中核部へつながる通路はごくわずかであり守るのに適した構造になっていた。ショチカルコの本体のある丘の頂上は漆喰で塗り堅められた中央広場があり主神殿である「羽毛の蛇(すなわちケツァルコアトル)の神殿」をはじめ多くの神殿、蒸気風呂や三つの球戯場、円形の祭壇や独立して建てられた石碑[4]がある。ショチカルコには、膨大な量の石彫があり、古典期終末期の社会的政治的宗教的な構造について推測する良好な資料となっている。とくに文字が刻まれた石碑は、マヤのように王の姿や名前と歴史が刻まれていると考えられている。象形文字はサポテカやマヤにもみられるような点と棒を用いた数表記、トルテカやミシュテカ、後にはアステカで使われるようになる動物や独特な表現で象形的に事物を表した日付けの文字などが刻まれている。
ショチカルコの編年はエドワルド・ノゲーラ(Nogera,E.)、ケネス・ハース(Hirth,K)、アン・サイファース(A.Cyphers)によって行われた調査で先古典期から後古典期にわたる居住によって推定されるが、最近の調査、すなわち1984~86年及び1991~94年にショチカルコ丘陵で行われた調査でショチカルコの居住は放射性炭素年代測定により古典期の終末に属することがあきらかになった。 Шаблон:-
650年から900年の古典期終末期のメキシコではプエブラ・トラスカラ盆地のカカシュトラとトルーカ盆地のテオテナンゴ、そしてコヨトラテルコ相の衰退したテオティワカンがあった。
ショチカルコは、テオティワカンの圧倒的な支配が崩壊することによって起こった比較的長期にわたる政治的空白によってもたらされた目まぐるしい変化の時代に台頭した。こうした政治的社会的経済的不安定化によって下克上の風潮が生み出され、戦略的な立地を確保しその周辺を維持しょうとする集団があちこちに現れ始める。ショチカルコはそのような戦略的な地形に建てられた都市であった。前述したように比高差130mの丘陵を中腹から幾重にも階段状に整地して、そのテラスの側面に噴き石を行い、塁壁が入れ子状に連なって壁や空堀としているのはそういった時代の状況を反映している。
このようにセロ・ショチカルコには十重二十重に防御的な構造が施されているにもかかわらずさらに周囲半径1000m以内にショチカルコの勢力範囲を示すかのような6ヶ所の前哨基地がある。平時にもこのような施設があったということはショチカルコの住民が防衛とか統治にからんで役割分担とか組織化とかされていたことをうかがわせる意味で重要である。それらの防御施設のうち三つは小さな臨時のとりでか要塞化した防衛拠点として紛争が起こったときに使われたのかもしれない。あるいはショチカルコの周囲にあるこのような防衛施設の配置はいくつかの社会的に独立した共同体が共同戦線的に協力しあったことを示していると思われる。ショチカルコが地域的な連合体のなかにある支配的な地位にある共同体として組織化されていたことを反映しているのかもしれない。
古典期終末期にショチカルコでは政治的社会的な構造に重大な変化が起こっていたと考えられ、政治的に祭祀センター同士の抗争という点だけでなく社会的な内部構造にも軍国主義の風潮が進行していった。言い換えれば、軍事的な征服活動と貢納を要求する帝国的な体制、戦士階級[5]が出現し、人身御供の儀式も現れたことである。土器や建造物の遺構を分析するとモレーロス州西部の大部分はショチカルコの政治的経済的支配下にあったことが示唆される。
戦士階級の存在についてはカカシュトラの壁画からうかがうことができる。ショチカルコの公共建造物に戦士階級の人々がひんぱんに描かれることや居住区に戦争で獲得した捕虜の骨が発見されることは古典期終末期のメキシコ中央高原のいたるところにいたがショチカルコにも戦士階級の人々がいたことを示している。
ショチカルコの中央広場には、タルー・タブレロ様式の伝統を持つ基壇を用いて建設された小さな神殿である「羽毛のヘビ(すなわちケツァルコアトル)の神殿」がある。テオティワカンと異なるのは、垂直壁のタブレロ部分の幅がせまく上方に傾斜した庇状の構造があることである。手すりないし欄干が付いた階段が西面に設けられ、基壇の上の部分には神殿の痕跡があったことを認めることができる。
現在でこそかなり剥落しているが、当時は神殿本体の外面とタルー・タブレロの基壇部分にびっしりとレリーフが刻まれていた。そのレリーフの内容には文字、日付(年代)、特定な人物などの貴重な情報が刻まれている。神殿の正面は西側を向いており、基壇の一段目の四面にはそれぞれ様式化されて両端に頭を持つ羽毛のあるヘビの浮き彫りが合計で8体刻まれている。羽毛のヘビの神殿の正面に刻まれたヘビと階段の両脇に円形を描くように刻まれたヘビとはそれぞれ異なった表現になっている。左側はホワン・パラシオス(Juan Palacios)によってよく知られた暦の配列が刻まれているとされる。右側はショチカルコの王の一人である可能性がある「二つの球戯場を動かし背負う者」の文字など多様なモチーフが刻まれる。他には「10の日光」という年の名前と「9のトカゲの日」の日付を表す文字がみられ、おそらく羽毛のヘビの神殿の建設が始まったか完成した時期について述べていると思われる。
羽毛のヘビは、水を表す貝の文様で飾られ、ヘビの頭部では、口を開いて二股にわかれた舌を出している。南北の面に刻まれたヘビの胴体が波打つようにうねってできた隙間には胡坐をかいた神官と思われる人物と象形文字が刻まれている。この神殿のタルー部分に刻まれたヘビがうねった波の部分にマヤ的な様式の座った人物と文字が見られる。羽毛のヘビの神殿の西側に刻まれた一群の文字はメソアメリカの二種類の暦であって支配者間の政略結婚か政治的同盟を記録している可能性がある。それぞれの人物は耳飾りや首飾りのほか羽毛のヘビを想起させるような大きな頭飾りをつけている。そして口の部分からはいわゆる「言葉の渦」が羽毛で飾られるようにして描かれている。そのような人物はヘビがうねってできたカーブの上下のどちらかの部分に刻まれ「9のトカゲの日」の文字が見られる。その文字は「新しい火」の儀式と解釈される螺旋状に渦巻く煙の中から現れている。
羽毛のヘビの神殿のタブレロ部分には、30ヶ所以上のショチカルコに貢納した都市の名称が記録されている。このことはショチカルコの三つの石碑に刻まれた征服や貢納の記録とともに古典期終末期にある種の征服王朝を作り出した軍国主義の位置付けにも注目させる。また、典型的な長い袋を持った神官と思われる人物が刻まれる。神官たちは三角形の被りものをつけ彼らの正面には言葉を表す文字が刻まれる。そういった文字の中には彼らのそれぞれの出身地が表わされていると考えられる。文字の下には四つに分割された円を食べている下顎の骨が表現されている。その文字は日食を表すという説もあれば貢納が行われていることを象徴しているという説もある。
羽毛のヘビの神殿の基壇の上にある神殿本体部分には、地名、日付、動物などのレリーフの刻まれ、18人の盾を持って座った戦士、三つの矢、一つの投槍器といった軍事力を表現したレリーフが刻まれている。
羽毛のヘビの神殿にも、メソアメリカに独特の建物の基礎の内部により古い建物を包み込むように造る構造が確認されている。二期にわたる古い時期の建物があって、建築的に興味深い装飾が施されている。今日では三期にわたって建て替えがなされた記念碑的な意味を持った建造物であったことが分かっている。羽毛のヘビの神殿の最古の段階は二つの柱に支えられた屋根の付いた空間を持った建物である。底面は中庭とほぼ一致している。二期目は正面に二つの柱と壁を持っていて増築された建物から成っている。最初の二段階の建物は壊されておらず、むしろ羽毛のヘビの神殿に覆われている。
羽毛のヘビの神殿の近くには9世紀後半の心臓を取り出すための人身御供にされて首を斬られた人物の石彫がある。この石彫は心臓を取り出すために胸部を切り裂かれたうえに首から上がない人物で、おそらくこの人物の首はツォンパントリー[6]に並べるために斬首されたことを示していると考えられる。この生贄にされた人物像の肩の部分には紋章のようなものがありこの人物が戦争で捕らえられた捕虜であることを示しているのかもしれない。直接人身御供については描いていないがこの記念碑はショチカルコの人々が後のアステカ文化の世界観にみられるように時を更新したり宇宙が不安であるという考え方を持っていたことを示している。また神殿の近くにこのような人身御供に関する石彫があることは人身御供の儀式が古典期終末期において政治的宗教的に重要だったことを示している。
ショチカルコの石彫にはメキシコ中央高原の最も初期に現れた三人の王の名が記録されている。それらの王たちの名は王の姿、名前、王の誕生や死亡、即位、軍事的な征服活動といった王の業績について刻んだ石碑の銘文のなかに見いだすことができる。古典期終末期まではメキシコ中央高原において石碑に銘文を刻むという行為は普通に見られるものではなく、サポテカやマヤなどの他地域からの模倣であろうと思われる。ショチカルコでは象形文字や絵画的モチーフ、建築様式をサポテカやミシュテカ、メキシコ湾岸やはるか遠く離れたマヤ地域を含んだ多くの異なる地域や民族から採り入れて折衷的な美術スタイルをつくっている。このような折衷主義は新しい支配階層の台頭に伴って彼らが彼ら自身の地位や統治権、正当性を表現するための手段の一部として芸術的なスタイルに求め始めた時期に一致する。外国の芸術的な表現を採り入れることによって新しい支配階層自身を外国の権威ある集団との結びつきを主張できる。次に伝統的な芸術スタイルを体現する過去の大センターであるテオティワカン起源のものを意図的に拒絶、廃棄することによって、独自性を主張したと考えられる。
ショチカルコでほかに重要な構築物に球戯場がある。三つの球戯場が露出しているが四つ目もあったと考えられている。球戯場はメソアメリカの宇宙観が示す四つの方位、天体の動き、夜と昼、善と悪、黒と赤などの正反対のものの対立と関係している。三つの球戯場は二つのTを組み合わせるかIの字をしている。しかし脇に設けられた基壇の形から考えると厳密には様々な形をしているのがわかる。
北の球戯場はそのようなものをもたない。東の球戯場は普通は二つあるボールを通す輪が一つしかない。南の球戯場は最も大きく、球戯場の上の方にある歩道を通って直接入れるようになっている。そして多数の観覧者を収容するのに充分なスペースが確保されている。これらの建造物を造る材料を確保するためショチカルコの人々は石切場へ行くための大きなトンネルを造った。そのようなトンネルの中には他の用途に転用するために改造されたものもある。そのうちの一つの丸天井のある部屋はショチカルコの住民たちが管状に石を並べて造った天文台であって、太陽の運行を観察できるように造ったと考えられる六角形の孔が開けられている。この天文台はその六角形の孔を通して4月30日から8月13日までの105日間日光が射すという特徴がある。すなわち残りの260日間は日光が射さないのである。ショチカルコで太陽が天頂を通るのは5月14日及び15日と7月28日及び29日である。この4日間は日光が垂直に射し込んでくる。このような天体現象は暦と直接関係がある。365日暦ではアステカの暦でいうxihuitl(シウィトル)と呼ばれ、神聖暦ないし儀式暦である260日暦ではtonalpohualli(トナルポワリ)と呼ばれるものであって16世紀の資料では詳しく知ることができる。365日暦と260日暦の組み合わせの回転、いわゆるカレンダー・ラウンドが一周すると365日暦と260日暦は同じ日になり「新しい火」という名で知られる儀式が執り行われる。ショチカルコには「新しい火」の儀式が行われたことを示す最古の文字がある。その文字にはもともと1トチトリ(うさぎ)を表す文字で後にアステカの暦で2アカトル(葦)の年に変わった。
ショチカルコはほかの先コロンブス期のセンター、例えばテオティワカン、トゥーラ、テノチティトランなどと比べると、都市としては中規模であり、その人口は一万人から五万人ほどであったと考えられる。斜面部分の人口密度は1ha当たり80人から120人の間くらいである。人口の大部分は小さなアパート状のに居住区画に2~10人くらいの核家族のような単位で暮らしていたと考えられる。
これらの区画に暮らす個人は親族だったり扶養されていたり結婚していたりしていた。そういった家族がさらに大きな範囲の親族と一緒に暮らしているかしている人々のうちの一人であったと思われる。整然と長方形に区画された構造が入れ子状に基壇を形作っておりそれが幾段にも重なってセロ・ショチカルコの斜面を横切るように並んでいる。発掘調査によって公共的な意味を持つ中庭を囲んだ区画に住む個々人が食料を貯蔵し、準備し分け合っていたことが明らかになった。中庭を囲んだいくつかの部屋からなる一つの家屋のうち一つの小さな部屋や住居の近くにある岩盤を切り込んでできた岩陰や小さなほら穴に食物やそのほかの必需品が収められた。セロ・ショチカルコの都市的な構造をなす建築物を調査してみて分かるのは都市の内部がいくつにも区分されていることである。これはおそらく12から15くらいの小さな行政区か血縁か職業か身分か民族かはわからないがそういったことで区分するための小さな区画に区分されていたことを示唆しているように思われる。これらの居住区は100人から300人くらいの規模であったと考えられスペイン征服時の都市にみられたカルプリとかチナミトルに当てはまるようなものであったと考えられる。ショチカルコは肥沃なミアカトラン・コアテテルコ盆地と乾燥したやせた土地との境界点に位置していた。荒涼としたやせた高原はモレーロス州クェンテペクの北方まで広がっていた。ショチカルコで数多くのメタテ(すり皿)とマノ(すり棒)が炭化したトウモロコシと共伴して発見されることはショチカルコに古典期終末期に住んだ人々は伝統的なメソアメリカの生業形態を受け継いだ人々であったことを示している。居住区から発見される廃棄物としての動物遺存体は家畜化された七面鳥や野生のシカなどが主な動物タンパク源として消費、すなわち食べられていたことを示す。
ショチカルコには、5カ所の黒曜石の工房が確認され発掘調査が行われた。そこで作られた黒曜石製品はショチカルコで供給されたのみならず周辺地域にももたらされた。黒曜石の工房のうち四つは内部に設けられているか近くに居住区を控えていた。残り一つはセロ・ショチカルコの南側部分の小さなプラザの中にあって、交易で商品を供給するために機能していたと思われる。在地産の土器や石器の大部分はショチカルコの中核部分で造られたのではなく石材や粘土が近くにある工房で生産されたものが使われていると考えられる。ショチカルコがモレーロス州周辺でいかに重要なセンターだったかは長距離交易によってでなければもたらされない製品が多量に発見されることからうかがえる。交易品には大西洋や太平洋産の貝製品、メキシコ湾岸からもたらされた球戯に用いる道具類、プエブラ州産の大理石製容器、ミチョアカン州やイダルゴ州産の黒曜石製品、ゲレロ州やオアハカ州産の石彫やひすい製の石偶、メキシコ州やゲレロ州産の外来土器などが含まれる。モレーロス州西部というショチカルコの立地は太平洋岸からバルサス川を遡ってメキシコ中央部にいたる交易路を制御するのに都合が良かったと考えられる。ショチカルコは同時代にメソアメリカに存在し活動していた集団と強い関係があった。そのことはショチカルコから出土するさまざまな地域、ときおり遠距離の地域から持ち込まれる遺物からうかがうことができる。例えば貝は太平洋岸やメキシコ湾岸産であり、黒曜石はミチョアカン州からのものである。トルコ石はメキシコ北部から土器やその様式はマヤ地域からのものがみられ、暦の文字はオアハカ州からのものがみられる。それ以外にも多くの要素がみられ分析、研究の途上にある。
900年前後にセロ・ショチカルコの山頂にある公共建造物は焼かれて略奪を受けた。層位的な発掘調査によって古典期終末期の住居の床面が発見され、斜面にあった居住区も破壊され、突然放棄されたことが明らかになった。おそらく、地域的な暴動ないし反乱もしくは軍事的な征服を受けて壊滅的な破局を迎え突如として放棄されたと考えられている。
初めてショチカルコのことが記録されたのは、1777年に探検家のAntonio Alzateによってであった。その後、アレクサンダー・フォン・フンボルト(Alexander von Humboldt)が1810年に図版を盛り込んだ刊行物を刊行している。メキシコ皇帝マクシミリアンがこの遺跡を訪れている。その後、レオポルド・バドレス(Leopoldo Batres)によって羽毛のヘビの神殿が初めて発掘調査された。バドレスは1909年に保存工事を行い彼のおかげで建物の外面が保存され今日でも見ることができる。ショチカルコの遺構プランの平面を図化するプロジェクトが行われた際にセロ・ショチカルコの古典期終末期の都市中核部と斜面の遺構の遺存状態が良好であることが判明した。このことはショチカルコの周囲が農業を行うのに適した土地から外れていたことで古典期終末期に放棄されて以来ごくわずかな人々しか住まなかったことを示していた。後古典期も植民地時代を経過してもほとんど荒らされなかったことで1922年に遺跡の保存地区に指定されてからも遺跡の保護が容易になった。
1940年代から60年代にかけてメキシコ政府の研究機関や多くの考古学者によって発掘調査や建造物の復元が行われている。1999年にユネスコの世界遺産に登録された。
最近では、日本の京都外国語大学の大井邦明教授が、さまざまな言語集団があつまったという伝説上のタモアンチャンというのはショチカルコのことであって、ショチカルコの勢力こそがテオティワカンを倒したと主張している[7]。状況証拠として「羽毛のヘビの神殿」のレリーフや象形文字が前項で記述したように折衷的な形態であること、『クワウティトラン年代記』にある歴史が始まったとされる「一のウサギの年」を刻んだ石碑があることなどを挙げている。しかし、大井教授がショチカルコ文化の特徴のひとつと位置づけているコヨトラテルコ式土器については、ケネス・ハースとA.サイファースによるとショチカルコの土器は、コヨトラテルコ式ともテオティワカンの終末期のメテペック式とも異なる独自のものであると述べている[8]。