ワスカル(Huáscar。ウアスカル)は、ペルー海軍が保有した装甲艦。南米の太平洋戦争でチリ海軍が鹵獲して編入し、現在も記念艦として保存している。
1864年にペルーが、イギリスのレイアード・ブラザース(Laird Brothers)造船所に発注して建造した装甲艦である。当時、ペルーを含む南米諸国とスペインの間ではチンチャ諸島戦争(en:Chincha Islands War)が勃発し、海軍力増強の必要があった。
装甲艦のうち、本格的な帆走と砲塔を有する砲塔艦と呼ばれる形式のものである。もっとも、しばしばモニター艦にも分類され、ペルー海軍の公式サイトでもMonitorと表記されている[1]。砲塔はコールズ式砲塔1基を船体中央付近に装備していた。帆装はブリガンティン式である。
1865年10月に進水、翌月に就役した。艦名はインカ帝国皇帝ワスカルにちなみ、ペルー海軍の同名艦としては2代目である。
チンチャ諸島戦争末期の1866年にペルーに到着したが、活躍の機会はなかった。
1877年に起きた反乱事件で、反乱軍に占拠された。ワスカルは反乱軍将兵の操縦で、イギリス艦隊と交戦した。この際にイギリス艦隊のフリゲート艦シャーから、史上初の魚雷攻撃を受けたが、命中は免れた。その後、ワスカルは政府軍に投降し、復帰した。
ペルー・ボリビア連合軍とチリの間の太平洋戦争では、ミゲル・グラウ提督の指揮の下でペルー海軍の主力艦として活躍し、1879年5月21日のイキケの海戦で衝角によりチリ海軍のコルベットエスメラルダを撃沈した。さらに、通商破壊を行って成果を挙げた。しかし、同年10月8日に起きたアンガモスの海戦でチリ艦隊に破れ、鹵獲された。
ワスカルを鹵獲したチリ海軍は、すぐさま整備して自国の艦隊に編入した。1880年2月27日にはペルーのアリカ港を攻撃し、ペルー海軍のモニター艦マンコ・カパックなどと交戦して港に封じ込めた。そのまま同年6月のアリカ陥落までマンコ・カパックの脱出を許さず、自沈に追い込んだ。ただし、ワスカルも艦長が戦死した。
1885年から1887年まで改装工事を受けた。汽缶やスクリューの換装など大規模なもので、砲塔の動力化も行われた。
1891年のチリ内戦では、反乱を起こした議会軍に使用された。議会軍の勝利まで、陸上への艦砲射撃などの活動をした。
1897年に機関部で爆発事故が発生し、一旦は除籍となった。その後、1917年から1930年まで、潜水艦の係留母艦任務に使われた。
1930年代に修復工事が行われ、1934年に記念艦として現役復帰した。1951年から1952年にかけて、1878年時点の状態への復元工事が行われた。1971年から1972年にもドック入りしての大規模な整備が行われ、船体の全面改修や機関の再生産品との換装がされた。その後もタルカウアノ(Talcahuano)に係留展示されている。