ノヴォデヴィチ女子修道院(ロシア語:Шаблон:Lang)は、モスクワにある正教会の修道院の中でも、有名な女子修道院の1つである。2004年にUNESCOの世界遺産に登録された。
1524年に、ノヴォデヴィチ女子修道院は創建された。ヴァシーリー3世(在位1505年-1533年)の命によって、建設が開始されたこの修道院は、1514年に、スモレンスクがモスクワ大公国に併合されたことを記念して建てられた。女子修道院は、モスクワ川の湾曲部における要塞の役割を果たしていた。これは、他の修道院も同じような役割を持っていた。創建の際に、3,000ルーブルと2つの村が修道院に与えられた。イヴァン4世の時代には、さらに複数の村が寄進されている。
この修道院は、ロシア王家やボヤール(10世紀から17世紀にかけての貴族のことを指す)出身の貴婦人たちを多くかくまったことで有名である。彼女たちは、ヴェールの着用が義務付けられた。修道院に避難してきた女性で著名な者では、フョードル1世の妻であるイリーナ(彼女は、兄弟であるボリス・ゴドゥノフがツァーリとなるまで、この修道院に避難していた)、ピョートル1世の姉妹であるソフィア・アレクセーエヴナ、そして、ピョートルの最初の妻であるエヴドキヤである。
1610年から11年にかけて、アレクサンデル・ゴシュースキが指揮するポーランド軍に、一旦、修道院は、占領されたこともある。その後、修道院はロシアの手に戻り、1616年には、修道院を護衛するために、100人の護衛兵が配備された。1618年には、350人まで増強され、17世紀末までには、36の村を保有する大地主にまで成長した。
17世紀の半ばには、ウクライナやベラルーシのほかの修道院から多くの修道女がノヴォデヴィチ女子修道院に移ってきた。1721年には、古儀式派を殺害した老修道女の複数名が女子修道院に避難してきたこともある。
1724年、女子修道院は陸軍のための病院を併設すると同時に、孤児院も建設された。1763年には女子修道院には84名の修道女、35名の修道女見習い、78名の病人がいたことが記録されている。毎年、帝国は、修道院に対して1,500ルーブルの現金とパンを支給し、さらに、孤児のために別に680ルーブルの現金とパンを支給している。
1812年、ナポレオンの軍隊が修道院を攻撃しようとしたが、修道院は破壊の手から免れることができた。レフ・トルストイの『戦争と平和』には、主人公のピエール(ピョートル)伯爵は修道院で処刑される予定であったし、『アンナ・カレーニナ』では主人公格のコンスタンティンは、将来の妻となるキティと修道院の側の池でアイススケートしているところを見初めている。確かに、修道院の側の池は19世紀の間、モスクワにおいて、もっとも有名なスケートリンクであったし、トルストイもハモーヴニクに居住していた時は、修道院の側で、アイススケートを楽しんでいた。
1871年、フィラートイェフ兄弟が孤児のために寄付をし、また、2軒の貧窮者収容施設が建設された。1900年代初頭には、大聖堂(スモレンスキー聖堂)は建築家で建築物の保存で活躍したイヴァン・マシュコフによって、調査が行われ、修復作業が行われた。1917年のロシア革命勃発時には、51名の修道女と53名の修道女見習いが修道院にいたことが分かっている。
1922年、ボリシェヴィキ政権は修道院の閉鎖を決定し(大聖堂の閉鎖は1929年)、女性解放博物館に転用された。1926年までには、修道院は歴史と芸術のための博物館への改築が始まり、1934年には国立歴史博物館となった。修道院内部の多くの建物が、アパートに建て替えられた。
1943年、ヨシフ・スターリンがロシア正教会に対して保護政策を採る姿勢を見せ、修道院内に、モスクワ神学専門学校を開設した。翌年には、スラヴ・ギリシャ・ラテン・アカデミーに改組された。1945年、ソビエト政権は、信者のために、大聖堂の返還を決定した。1980年以降、en:Krutitsyとコロムナの府主教の住居はノヴォデヴィチに置かれた。1994年、修道院に修道女が戻ってきた。現在では、彼女たちを管掌しているのは、Krutitsyとコロムナの主教である。
この修道院の最も重要な建造物は、1524年から1525年にかけて建設されたスモレンスキー聖堂である。6本の柱と5つのドーム屋根によって構成されている。ロシア建築に特有の中央の切妻屋根は、イヴァン4世の時代に建設された。
スモレンスキー聖堂以外にも、この修道院には複数の教会が残っている。多くが1680年代に建設されている。白と赤で色塗られた外壁、鐘楼、2つの門の上に建設された教会(門の上の生神女庇護教会と門の上の救世主顕栄教会)、修道院の食堂と住居は全て、モスクワ・バロックの様式に則って建設された。
他のモスクワの修道院と同様に、ノヴォデヴィチ修道院にも墓地が併設されている。このノヴォデヴィチ墓地は、修道院の外側で、修道院の南側の外壁に隣接している。1898年に造営が始まったこの墓地にはロシアにまつわる著名な人物が多数埋葬されている。
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