ウィーン国立歌劇場(ウィーンこくりつかげきじょう、ドイツ語:Wiener Staatsoper ヴィーナー シュターツオーパー、ドイツ語の原音から「ヴィーン~」とも→ ヴ(Vの日本語表記)参照)はオーストリアのウィーンにある歌劇場。1920年まではウィーン宮廷歌劇場と呼ばれていた。レパートリーシステムをとる。
ウィーンがドイツから北イタリアにまたがる神聖ローマ帝国の首都であったため、ドイツ・オペラのみならずイタリア・オペラにとっても中心地であったことと、専属オーケストラであるウィーン国立歌劇場管弦楽団が、世界最高のオーケストラであるウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の母体であることからもわかるように、世界最高の歌劇場である。
劇場はウィーンの中心部、ケルントナー通りとリング通りの交点に面して建てられている。ネオ・ロマンティック様式の建屋は建築家エドゥアルト・ファン・デア・ニュル(意匠)とアウグスト・シカート・フォン・シカーズブルク(構造)によるもの。
建設当時はひどく批判されたが、1869年5月25日にヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』の上演でこけら落しを行った。その後は総監督でもあった作曲家リヒャルト・シュトラウスのナクソス島のアリアドネ(1916年10月4日)や影の無い女(1919年10月10日)の世界初演が行われている。
第二次世界大戦中の1945年3月12日、連合軍の爆撃により舞台が破壊され、建物は火災に見舞われた。モーリツ・フォン・シュヴァイエのフレスコ画のあるホワイエと正面階段、連廊、それに喫茶室は焼失を免れたが、120作のオペラ上演のための舞台装置と大小道具のほぼ全て、15万着もの衣装が失われた。このため国立歌劇場はウィーン・フォルクスオーパー(1945年5月1日から6月14日まで)およびアン・デア・ウィーン劇場(1945年6月18日から1955年8月31日まで)を仮の拠点とした。また、従来ウィーンの上演と連携したプロダクションを上演していたザルツブルク音楽祭は、これにより独自のプロダクションを作るようになった。
再建した客席数2,200名の劇場は、再び総監督に就任したカール・ベームの指揮によるベートーヴェンの『フィデリオ』によって1955年11月5日に再開した。
作曲家グスタフ・マーラー(1860-1911)もこの歌劇場で活躍した数多くの高名な指揮者の一人である。マーラーはアナ・バール・ミルデンブルク(1872-1947)、セルマ・クルツ(1874-1933)、レオ・スレザーク(1873-1946)ら新しい世代の歌手を積極的に登用し、また舞台デザイナーを雇用して伝統的で豪華な舞台装置をモダニズムやユーゲントシュティール風の様式の簡素なものに置き換えた。さらに上演中に客席の照明を落とす慣行を作ったのもマーラーである。これは当初は聴衆の不評を買ったものの、後継者らはこの改革をそのまま続けた。また今では慣習化しているが、『フィデリオ』のフィナーレでの舞台転換の時間をかせぐために、レオノーレ序曲第三番を挿入するアイデアもマーラーによるものである。また、それまでオペレッタを上演することがなかったウィーン宮廷歌劇場でヨハン・シュトラウス2世のオペレッタ「こうもり」を正式にレパートリーとした(1897年)。さらに、ウィーン宮廷歌劇場で上演するバレエ曲(「灰かぶり姫」というシンデレラ物語)をヨハン・シュトラウス2世に委嘱したが、これは完成しなかった。(「ヨハン・シュトラウス~ワルツ王と落日のウィーン」小宮正安 中央公論新社)
そのほかの高名な指揮者としては、ハンス・リヒター、フェリックス・ヴァインガルトナー、リヒャルト・シュトラウス、クレメンス・クラウス、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、ブルーノ・ワルター、ヘルベルト・フォン・カラヤン、ロリン・マゼール、クラウディオ・アバド、リッカルド・ムーティらがいる。
ウィーン国立歌劇場はイタリアやその他の外国語作品も契約歌手によるドイツ語による上演を行ってきたが、カラヤンは客演歌手を招き原語上演する方針を導入した。これは、やはり訳詞上演が慣例化していたドイツその他の国の大歌劇場にも波及した。
歌劇場ではオペラやバレエの上演のほか、何十年にもわたって上流階級によるオペラ座舞踏会にも使用されてきた。