アトス山(ギリシャ語:Шаблон:Lang)はギリシャ語で Шаблон:Lang、または英語で"Holy Mountain"とも呼称される、ギリシャ北部の中央マケドニアにある山、半島。古典ギリシア語では、半島は Шаблон:Lang と呼ばれた。
「聖山の修道院による自治国家」として知られ、ギリシア共和国領内において正教会の修道院によって大幅な自治が行われており、いわば「宗教共和国」ともいえる存在となっている。アトス山の修道院はコンスタンディヌーポリ全地総主教庁の管轄下にあるが、暦は修正ユリウス暦を使用する全地総主教庁と異なりユリウス暦を使用している。
アトス山はギリシャ人が「聖なる山」と呼ぶ聖域である。ハルキディキ半島の最も東の「足」にあたるこの半島は、標高2033mに達するアトス山と、そこから連なる峻険な稜線によって形成され、海岸はほとんどが崖か岩場から成り立っている。ペルシャ戦争でアケメネス朝の遠征軍が遭難したことでも知られる。半島の幅は8kmから12km、長さは約40kmで、面積は385平方キロメートル程度。緑も深く、中世からの自然がほとんど手つかずのまま残っている。
かなり早くからキリスト教の修道僧が住み着いていたらしいが、文献にアトス山の記述が現れるのは9世紀以降のことである。伝承によれば、生神女マリアが旅の途中で嵐に遭ってアトスの海岸に避難したとき、その美しさに心惹かれ、自らの土地としたとされている。現在では20もの修道院を擁する東方正教の一大中心地であり、バチカンと同じく宗教中心地として自治を行っているが、アトス山はより厳格な瞑想と祈りの場であるため、バチカンのような経済的活動は行っていない。
ギリシャ本土と陸路でつながっているものの、ウラノポリスから船か徒歩によってのみ「入国」が可能である。訪問者の数と滞在期間は限定されており、アトス山に入る前に入国許可証を得ることを要求されるが、許可分配手続において正教徒は優先される。ギリシア国籍以外の者は入山を1日8名を上限としており、入国手続きはテッサロニキにある事務所で行うことが可能である。また、1406年以降、女人禁制となっているので、女性は入国できない。アトス山の居住は、18歳を過ぎた男性の正教徒のみが許可される。そのほか、修道士ではないが宗教的な護衛者がおり、政庁カリエスで修道士でない人々を補助する。現在の人口は約2,250である。
ヘロドトスとストラボンによると、アトス山には当時から人が住み着いており、いくつかの都市があったことが述べられている。しかし、これらの都市の位置は特定できておらず、修道士がこの土地に住み始めた8世紀末から9世紀初頭にはすでに放棄されていたらしい。最初に住み始めた修道士については、当時のアトス山の状況を記録した文献がなく、その詳細は不明である。
9世紀中期まで、アトス山には修道僧の草庵が散在するにすぎなかったが、862年、テッサロニキのエフスィミオスが、アトス山で活動する修道士の集団(ラヴラ)の長となり、修道院設立の先鞭をつけた。870年頃には、アトス半島の付け根にあたるイエリッソスに、ヨアンニス・コロヴォスが最初の共同居住型の修道院を建設している。その後、961年に聖アタナシウスが東ローマ皇帝ニケフォロス2世フォカスから勅許を得て、アトス山の麓にメギスティ・ラヴラ修道院を建設すると、アトス山は修道院の建設が活発に行われるようになった。1001年には46の修道院を数えるほどになり、多くの修道院が半島の外に荘園を抱える大領主の様相を呈していた。
のイコン(メギスティ・ラヴラ修道院)]]
1204年、第4回十字軍によってラテン帝国が成立したことにより、テッサロニキ王国に組み込まれたアトス半島は、ほとんどの修道院が荘園を没収されてしまった。東ローマ帝国が再興されるとこれらの荘園は返還されたが、ミカエル8世パレオロゴスが画策した1274年の東西教会の統一に反対したため迫害を受け、さらに1305年には、オスマン軍に対抗するためにアンドロニコス2世パレオロゴスが雇ったカタルーニャ、アラゴンの混成傭兵がトラキアからマケドニアを略奪し、修道院もこの標的となって荒廃した。また、14世紀中期には、オスマン軍の略奪行為もしばしば行われることがあったため、一部の修道士はアトスを離れ、他の地域に修道院を設立している。1356年に設立されたメテオラもそのひとつである。
しかし皮肉にも、東ローマ帝国の影響力が著しく衰えたために、かえってブルガリア帝国やセルビア王国、モルダヴィア、ルーマニアなどの東欧諸国からテッサロニキ周辺部、ストリモン川流域の荘園の寄進が行われるようになり、修道院は再び活力を得ることになった。グレゴリオス・パラマスによって提唱される静寂主義の中心地となり、帝国内で大きな宗教論争を引き起こす。1382年になると、アトス山はオスマン帝国の勢力下に入り、1453年には東ローマ帝国が滅亡。修道院は免税特権と半島以外の荘園を失うことになるが、オスマン帝国は修道院共同体の宗教活動と自治を認め、19世紀に至るまで、東欧諸国の寄進も行われ続けた。
アトス山修道院が最大の危機を迎えるのは20世紀になってからである。1923年、希土戦争の終結によってローザンヌ条約が締結され、トルコ、ギリシャ間で住民交換が行われた。ギリシャ政府は移住した住民の居住地を確保するため、アトス山の土地を大幅に没収した。さらに、1944年に枢軸国であったブルガリア王国がソビエト連邦の侵攻を受けた際、アトス山修道院は共産主義からの弾圧を受け、ほぼ壊滅状態に陥った。現在は、ヨーロッパ各地からの支援によって宗教的な重要性を保ちつつ存続しているが、EUから女性の入国を禁止していることについて非難を受けているШаблон:要出典。
アトス山の行政上の主席は、修道院のなかでも最も大きな5つの修道院、ラヴラ、ヴァトペディ、イヴィロン、ヒランダルから交代で選出される。 アトス山の修道院建築群については、まだ詳しい調査が行われておらず、その変遷はあまり明確ではないが、おそらくカリエスにあるプロタトンが最も古い建築物で、中期ビザンティンの典型的な平面である内接十字型教会堂である。10世紀から11世紀にはこの聖堂で長老会議が行われ、第一人者(プロトス)が選出された。この教会堂以外の主聖堂は、ほとんど三葉型を原型とするもので、メギスティ・ラヴラ修道院の中央聖堂を規範としている。961年よりも少し後の時代に建設されたメギスティ・ラヴラの中央聖堂は、中央にドームを頂き、3方に半円形の張り出しを持つが、至聖所のアプスに関してはリティと呼ばれる奥行きの深いものになっており、何らかの儀式のために形成された。アトス山の宗教的権威によって、この形式の教会堂は東ローマ帝国が滅びた後も、正教圏に広く普及した。