シルキュイ・ドゥ・スパ=フランコルシャン(Circuit de Spa-Francorchamps)は、ベルギーにあるサーキット。スパとフランコルシャンにまたがっていることから、この名称が名付けられている。
1924年に第一回のスパ24時間レースが開催される。ヨーロッパグランプリは1925年に開催。F1ベルギーGPを始めとする各種の大きなイベントが開催される。1990年まで、WGPのベルギーGPも開催された。
レースが開催されるようになった当時は全長14km以上ある長い公道コースだったが、スピードが出過ぎるために開催を中止しコースを改修、現在のコースの原型は1978年に造られた。サーキットはレース専用の部分(Les Combes - Stavelot間)と公道(Stavelot - Les Combes間)が混在していたが、常にレースが開催できるように公道部分にバイパスが作られ、現在は完全なレース専用のクローズドサーキットである。難易度の高い高速コーナーが多く、コースに対し高い評価を与えるドライバーは多い。
2003年にはEU圏のたばこ広告禁止により、F1が開催中止となったが、2004年には復活を果たし、その際、バスストップシケインが改修された。2006年はピットレーン周辺の問題からF1が開催されなかったが、バスストップシケインとピットレーン施設を改修した2007年に再開された。
2008年のグランプリウィークには、同年他界したベルギー出身のレーサーで自動車ジャーナリスト、ポール・フレールの功績を称えてStavelotがPaul Frère Cornerと改名され、コース脇に記念碑が建てられた。
ベルギーの首都ブリュッセルの東南東に位置する。北緯50度26分14秒東経5度58分17秒
サーキットが山の中にあり、またコース長が長いことから、天候が目まぐるしく変わったり、雨の降っている地点と降っていない地点が混在することがある。この天候はスパ・ウェザーと呼ばれ、レース展開を左右する要素のひとつでもある。
1992年には、ベネトン・フォードのミハエル・シューマッハがこの雨による混乱の中、絶妙のタイミングでタイヤ交換戦略を成功させ、当時最強のウィリアムズ勢を逆転してのF1初優勝を果たしている。さらに、1995年には、雨により予選16位に沈んだシューマッハが、同じく雨により混乱したレースを大逆転で制している。
1998年の決勝は降雨の中、スタート直後の多重クラッシュで幕を開け、完走わずか8台のサバイバルレースとなった。まずはスタート後の1コーナーからオー・ルージュに向かうストレートでマクラーレンのデビッド・クルサードが突如スピンした(フェラーリのエディ・アーバインが接触した説もあり)ことを皮切りに多重クラッシュが起こり、水煙の中13台のマシンがストップした。このクラッシュで大きなけが人は出なかったがレースは中断し、約1時間後に再スタートした。しかし、水煙で視界不良のコンディションは変わらず、あちこちで接触やスピンが起きた。フェラーリのミハエル・シューマッハはトップを走行していたが、周回遅れのクルサードへ追突してリタイヤした。この事故後、シューマッハはマクラーレンのピットに訪れ、クルサードがシューマッハ自身を殺そうとした、と激しく抗議した。結局、クルサードがブレーキを掛けていないことがデータに記録されていたため、FIA(国際自動車連盟)審議委員会はクルサードにペナルティを下さなかった。レース結果は、2位を走っていたデイモン・ヒルが、ラルフ・シューマッハとの1-2フィニッシュでジョーダンに初優勝をもたらしている。
シューマッハの不注意としてこの事故の話題は収束していたが、2003年ヨーロッパGPでデビッド・クルサードがフェルナンド・アロンソにブレーキテストを行われリタイヤした。レース後、クルサードはアロンソのドライビングの危険性を訴えたが、その際、1998年のスパでのシューマッハとの事故について、経験と知識が足りなかったために、激しい水しぶきの中でシューマッハの目前でアクセルを戻したことを明らかにし、スパの事故での自らの非を告白した。
F1用コントロールラインを過ぎるとすぐに訪れるのが右ヘアピンラ・ソース(La Source)。コントロールラインからコーナーまでの距離が短く、右に鋭角に切れ込むヘアピン状のコーナーであるため、決勝スタート直後に度々ここでクラッシュが起こる。以前はコーナーの立ち上がりのアウト側に縁石があったが、ナイジェル・マンセルがさらにその外側を走るラインを見つけた。その後ほとんどのドライバーが彼のラインをトレースするようになったためその縁石は取り除かれたが、2007年の改修により再び縁石が設けられた。以前の縁石の配置ではコース外に出ても縁石を踏まずにコースに復帰できたが、2007年の改修ではコースに復帰するためには必ず縁石を越えなくてはならないように縁石を配置したため、コースをはみ出して大回りすることはタイムロスにしかならないようになった。
これを過ぎると、左、右、左と上りながら小刻みに曲がる世界のサーキット屈指の名物セクションオー・ルージュ(Eau Rouge、フランス語で赤い水の意)-ラディオンの区間となる。300km/h近いスピードで駆け抜けるこのセクションは、ドライバー視点からは壁のように見えるといい、現在世界中に存在するサーキットの中で、最も度胸が試されるコーナーのひとつと言われている。イモラ・サーキットでアイルトン・セナらが事故死しF1の安全性が問われていた1994年には、オー・ルージュは危険性低下を目的としてタイヤバリアを敷設したシケイン状のコーナーになったが不評だったため、翌年からランオフエリアを広げることで元の形に戻された。なお、オー・ルージュ(赤い水)とはコーナーの近くを流れる川の名である。日本の温泉地にも時より見られるもので、川の水に鉄分を多く含み、赤く見えることに関係している。
オー・ルージュの出口にある左コーナー、ラディオンを越えると、ケメル・ストレート(Kemmel)に入る。長いストレートである事と、オー・ルージュの抜け方によって最高速度が大きく変わる事から、オーバーテイクが頻繁に行われる。2000年、ここでミカ・ハッキネンが周回遅れのリカルド・ゾンタを挟んでシューマッハをオーバーテイクしたことがある。このシーンは各メディアで「20世紀最高のオーバーテイク」と言われるほどスリリングで驚異的なものであった。
上りのコースはレ・コーム(Les Combes)を超えると下りのコースとなる。マルメディ(Malmedy)、リバージュ(Rivage)、プーオン(Pouhon)、レ・ファーニュ(Les Fagnes)、ポール・フレール・コーナー(Paul Frère Corner)を抜けると、ストレートの後に超高速左コーナーブランシモン(Blanchimont)が待っている。ここはヨーロッパのサーキットの中で最も通過速度が高く、オー・ルージュと並んで度胸の試されるコーナーである。1992年にリジェのエリック・コマスが予選中に大クラッシュした他、2001年にはルチアーノ・ブルティとエディ・アーバインがここで接触し高速でタイヤバリアに激突、赤旗中断となる事故が起こった。
ブランシモンを抜けるとバスストップ・シケイン(Bus Stop かつての公道部分でバス停があった[])。ポール・フレールからここまで全開で走行してくるため、ここもオーバーテイクポイントである。このシケインを抜けると、ラ・ソースへ続くストレートに出る。