システィーナ礼拝堂(しすてぃーなれいはいどう、Cappella Sistina)はサン・ピエトロ大聖堂に隣接し、バチカン宮殿内に建てられた礼拝堂。ミケランジェロが描いた創世記などの大天井画、最後の審判の壁画で有名。教皇を選出するコンクラーヴェの会場としても知られている。
シクストゥス4世の発願により教皇礼拝堂として1475年に建設が始まる。1481年に建物が完成後、ボッティチェリら初期ルネサンスの画家がモーゼ、イエス・キリストをテーマに壁画を描き、1483年8月、シクストゥスによる聖別が行われ、聖母被昇天に捧げられた。当初、天井には天空が描かれていた。なお、礼拝堂の名はシスト(シクストゥス)に因む。内部の奥行き40.25m、幅13.41m、高さ20.73mで、これは「列王記」6章にあるソロモン王の神殿の比率(60:20:30)に合わせているという。
シクストゥス4世の甥にあたるユリウス2世は1506年、ミケランジェロに天井画の制作を命じた。この注文は彫刻家を自任するミケランジェロにとって必ずしも本意とするところではなかったが、1508年にフレスコ画の制作を開始した。堂内に足場を組み、横になりながらの制作で、助手の手際が気にいらず結局一人で作業を続けていった。1512年に完成し、ミケランジェロの代表作のひとつに数えられる。天井部中央の旧約聖書『創世記』の9場面、天地創造、楽園追放、大洪水などが、祭壇から後陣にかけて配列される。ただしその配列は必ずしも創世記の時系列とは一致しない。四隅には旧約聖書の場面が描かれ、これにはネオプラトニスムからミケランジェロが摂取した四大の思想など、古代ギリシア自然哲学の影響も指摘される。また創世記の場面を取り囲むようにして、キリストの先祖であるユダの王たち、また旧約と古典古代の巫女たちが描かれる。
この天井画はその制作途中を覗き見たラファエロにも強い影響を与え、彼が当時描いていたバチカン宮殿・署名の間の壁画「アテナイの学堂」のタッチには、ミケランジェロの影響の跡が指摘される。
およそ20年後クレメンス7世は、祭壇の背面に壁画を描くようミケランジェロに依頼する。クレメンス死後、パウルス3世の代に製作が始まり、1535年から1541年にかけて「マタイの福音書」に示される最後の審判をテーマにしたフレスコ画が描かれた。大きく四つの階層に分かれており、上から、天使たちの群像、イエス・キリストを中心とした天国、地獄に引きずり落とされる人々、地獄が描かれている。地獄の有様を描くにあたって、ミケランジェロはダンテの叙事詩『神曲』地獄篇から霊感を得た。ミケランジェロの作品は見るものを戦慄させる出来栄えであったが、一方では裸体が多数描かれていることを嫌悪するものもいた。パウルス3世の死後、裸体の陰部を隠す腰巻が書き足されたのである。
システィーナ礼拝堂は典礼の場であり、蝋燭の煤などによる天井画や壁画の劣化が指摘されていた。しかし近年日本テレビの支援によって1981年から1994年までに修復作業が行われた。天井画・壁画は洗浄され製作当時の鮮やかな色彩が蘇った(腰巻も一部を除き元に戻された)。