|IB_Name=Saba
サバ島の旗 |
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(旗) |
</dd>モットー : Remis Velisque (ラテン語)
With oars and sails (英語)
(櫂と帆〔力の限りの意〕)国歌 :"Saba you rise from the
ocean"サバ島の位置
公用語 | オランダ語、英語 |
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主都 | ボトム(The Bottom) |
国王 | ベアトリクス |
知事 | Jonathan Johnson |
面積 - 総面積 - 水域 |
13 km² ごく僅か |
人口 - 総人口(2004年) - 人口密度 |
1,424人 104人/km² |
通貨 | アンティル・ギルダー (ANG) |
時間帯 | UTC -4 |
ccTLD | .an |
国際電話番号 | +599 |
</dd></dl> サバ島 (Saba、発音:/ˈseɪbə/ )は、カリブ海の小アンティル諸島北部にあるオランダ領の火山島。行政上はオランダ領アンティルに属する。
実際の発音に近づけた表記をすれば、セイバ島となる。
サバ島近隣の島々 サバ島は、小アンティル諸島北部のリーワード諸島に属する。オランダ領のいわゆるSSS諸島の一つで、シント・マールテン島の南西、シント・ユースタティウス島の北西にある。
サバ島はシーナリー山(877m) (Mount Scenery) を中心に形成された、急峻な火山島である。島の外周はほとんどが断崖絶壁となっている。陸地面積は13 km²で、これはオランダ領アンティルの島の中では最も小さい。主要な集落であるボトム(Bottom)は、島の南西寄り内陸部、標高260mあまりの火山原に位置する。
人口は約1400人。ボトムのほかに、ウィンドワードサイド (Windwardside) 、ヘルズゲート (Hell's Gate, Saba) 、セントジョーンズ (St. Johns, Netherlands Antilles) などの集落がある。
サバ島はオランダの自治領オランダ領アンティルに属する。投票では、この枠組から離脱し、単独の自治領を構成することを望む意見が多数を占めた。オランダ領アンティルは将来的に解体される方向にあるが、日程等は遅延している。
シーナリー山から東南の眺望。ウィンドワードサイドの集落が見える サバ島にはカリブ族もしくはアワラク・インディアンが居た痕跡があった。島の名 saba は、アワラク・インディアンの言葉(アワラク語)で「岩」を意味する siba が語源だと信じられている。
1493年11月13日、クリストファー・コロンブスにより「発見」されたが、コロンブスはこの断崖に囲まれた島へ上陸しなかった。
その後、1595年に海賊のフランシス・ドレイクが、1620年に2人のオランダ人がサバ島に上陸している。
1632年、難破したイギリス人が島に上陸した。救助されたとき、彼らは無人島を見つけたと主張している。1635年にフランスがサバ島の領有を主張した。1640年にはオランダ領シント・ユースタティウス島の総督が島をオランダ西インド会社の植民地とするために、オランダ人をサバ島に送り込んだ。1664年、海賊ヘンリー・モーガンの一族であるトーマス・モーガンによって島は占拠され、オランダ人たちはシント・マールテン島に追放された。以後、この島は、イギリス・フランス・オランダの激しい争奪の対象となり、持ち主をめまぐるしく変えた。
1600年代、この島はジャマイカの海賊たちにとって格好の隠れ家となった。この島を拠点としたサバ海賊で最も有名な人物は、「死人に口なし」 Dead Men Tell No Tales という言葉を残したハイラム・ビークス(Hiram Beakes)である。こうした「好ましからぬ」人々はイギリスによる取り締まられ、まっとうな航海や交易が重要になっていった。17~18世紀、この島の主要な産業は砂糖とラム酒の製造であり、のちにはロブスターをはじめとする漁業も行われるようになった。
1816年、正式にオランダの領土となり、以後オランダが統治している。19世紀半ばには島にレース編みの技術がもたらされ、女たちがつくるサバ・レースは島の重要な輸出品になった。
1954年にオランダ領アンティルの一部になり、オランダ領アンティルの政府から独自の自治権を与えられている。
島の大部分は森林地帯である。シダ類や湿気の多い土のある森に覆われ、マンゴーの木が多く見られる。
島の「マウンテン・マホガニー」(Mountain Mahogany)の木は、1960年代のハリケーンで大きな打撃を受けた。マウンテン・マホガニーと呼ばれるのは、ツバキ科の木(Freziera undulata)であり、普通のマホガニーとは関係がない。また、標高が低い地域にはセンダン科の Swietenia mahagoni (一般的なマホガニーの近縁種)が分布している。これら島のマホガニーは、絶滅が危惧されている。
標高の高い場所にあるサバ島の森は、霧やコケが景観を演出しており、訪問者によって「エルフの森」(Elfin Forest)と形容されている。森林保護地区が設定された際には「エルフィンフォレスト保護地」と命名された。サバ島には植物や野生動物が織り成す多様な生態系があり、これらを守るためにサバ保護基金(Saba Conservation Foundation)が活動している。
島の4.3km南西にはサバ・バンクがある。水面下に沈んだ環礁で豊かな生態系があり、とくにロブスターの漁場として知られる。
島を貫く1本の道路があり、単に「道」The Road という名で呼ばれている。かつて島に道路を建設することは不可能と見られていたが、Josephus Lambert Hassel は通信教育によって土木建設技術を習得し、地元住民とともに1938年に工事に着手した。5年後の1943年、島の南側にある入り江フォート・ベイから主要集落ボトムまでの道が完成した。村に最初の自動車が到着したのは1947年である。1951年にはウィンドワードサイドやセント・ジョーンズまで道が通じ、1958年に全線が完成した。道路は右側通行である。
1963年には、島の北東部に、400mの仮設滑走路を持つファンチョ・E・ヨラウスクィン飛行場(Juancho E Yrausquin Airport)が開設された。この飛行場は世界で最も短い滑走路を持つ商業空港として知られる。シント・マールテン島およびシント・ユースタティウス島に、ウィンドワード・アイランズ航空の定期便がある。
フォート・ベイの埠頭は1972年に改修工事が完成し、観光客が島へアクセスすることが容易になった。シント・マールテン島からフェリーの便がある。
ボトムから島の西側の投錨地ラッダー・ベイに降りる道は20世紀末に作られた。800段の石段である。
フォート・ベイの埠頭
船上から見るフォート・ベイの港
ファンチョ・E・ヨラウスクィン飛行場
農業は主に自給自足でイモ類などを栽培している。
サバ・レース(「スパニッシュ・ワーク」Spanish Work とも呼ばれる)は、島の特産手芸品であり、主要輸出品である。1870年代、ベネズエラのカラカスの修道院に留学した Mary Gertrude Hassell Johnson がレース編みの技術を習得し、島に持ち帰って広めた。
観光もサバ島の重要な産業の一つである。近年はエコツーリズムで知られており、スキューバダイビングやハイキングが人気である。島周辺の海域はサバ国立海洋公園 (Saba National Marine Park) に指定されている。しかし観光客は年間2万5000人程度であり、日帰りで訪れる者がほとんどなので、収入は限られている。
サバ医科大学の学生が支払う授業料が島の重要な収入源になっている。
公式な通貨はアンティル・ギルダーだが、アメリカ・ドルは島のどこででも通用する。
ボトムの町。写真右下の大きな建物はサバ医科大学。 2004年に行われたオランダ領アンティルの国勢調査によると人口は1424人。また、海外に多くの移民を送り出している。
島民の家系をさかのぼると、わずか数家族にたどり着く。島民はさまざまな民族の血を引いており、この島を領有したオランダ人や、イングランドのチャールズ1世によってカリブ海に追放されたアイルランド人・スコットランド人、ジャマイカから来た海賊、島での労働のために移入された黒人奴隷などがその祖先である。限られた姓が島じゅうで使われており、とくに多い姓は Hassell と Johnson である。
宗教はキリスト教で、カトリックが最も多く、メソジスト系(プロテスタント系)のコミュニティもある。このほか、聖公会やセブンスデー・アドベンチスト教会、イスラム教、ユダヤ教の信者もいる。
公用語はオランダ語と英語。オランダ領であるが、島で話される第一の言語は英語である。これは19世紀以来、島の学校教育で英語とオランダ語が教えられたことの影響である。このほか、パピアメント語も話される。
サバ島には、サバ医科大学 (Saba University School of Medicine) がある。1986年、サバ政庁とアメリカの医療教育グループの協力によって設立されたこの大学は、講義がある時期には学生・教員などの300人ほどが島の人口増をもたらす。A.M.エドワーズ医療センターは、島の住民に医療サービスを行っている。
急峻な地形で農業に制約があるために、伝統的にサバ島の人々は海へ向かい、水夫・航海者として生計を立てた。航海の伝統からアメリカ海軍によい職を求めることもまれではなかった。アメリカ海軍に入るために出生証明書の偽造も行われたこともしばしばあるという。1941年、真珠湾攻撃の際に戦死して海軍名誉勲章を授与されたエドウィン・J・ヒル兵曹長 (Edwin J. Hill) は、家族の証言によればサバ島の生まれである。
an:Isla de Saba ar:سابا bg:Саба br:Saba ca:Illa de Saba cs:Saba
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(isola) ko:사바 섬 li:Saba lmo:Saba (Antil Ulandes) lv:Saba nl:Saba
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pt:Saba ro:Saba ru:Саба (остров) simple:Saba sr:Саба sv:Saba (ö)
tl:Saba tr:Saba (ada) zh:薩巴島