ケルフィリー城(ケルフィリーじょう、Caerphilly Castle)は、イギリスのウェールズ南部、ケルフィリーの中心にある城郭。城郭の規模はウェールズ最大で、イギリス全体ではウィンザー城についで2位である。二重の塀に囲まれ、大規模な水濠に囲まれた盤石の守備を誇る要塞として知られる。現在は民間の文化遺産保護財団が管理している。
ケルフィリー城がある天然の土手の先端は、ダムを作るために湖が開削されており、堅固な湖の防壁として機能している。ダムは城の両面の守備を固め、またケルフィリーの街への城門としての役割も持っている。
城の主要な建物がある中央の島の敷地は、城門から城内の庭、塔に至るまで堅い壁で包囲されている。
さらに西の島へ向かって石で舗装された掘割が開削されているが、護岸工事は未完成のままである。他、城の北の方面にも堀が開削されている。
北に土手と堀を築くために、ダム工事の最終段階で湖は拡張され、新たな湖が形成された。西へ通じる堀は、ダムの中心にある詰所の完成によって西への通路が提供された。
城の最も広い部分は1268年から4年かけて築造された。以降、城の北にあるダムを除き、ほんの僅かな修正が加えられた。城を囲む堀の面積は30約エーカー(120,000㎡)であり、その規模はヨーロッパ最大級である。
13世紀に建造されたウェールズの城の多くはエドワード1世の厳重な管理の下で築城されたが、ケルフィリー城はそれらの城とは異なり、当時ケルフィリー一帯の領主であったノルマン人のギルバート・ド・クレアによって建造された。築城の目的はルウェリン・アプ・グリフィズ公による南方への侵攻を防ぐためであった。
グロスター伯とグリフィズ公の紛争はしばしば起こり、イングランド王ヘンリー3世の介入を受ける事となった。そして彼が派遣した司祭によって一時期城は管理されていたが、グロスター伯はすぐに所有権を奪回し、没するまで城を支配した。
グロスター伯ギルバートの死後はエドワード2世の寵臣ヒュー・デスペンサーが保有したが、後にヒューは失脚しケルフィリー城にも軍勢が差し向けられることとなる。この際、ヒューの部下達は篭城戦を展開し、数ヶ月間攻撃を耐え凌いだ。
15世紀以降は牢獄として使用され、やがて使用されなくなると次代が流れるごとに風化、荒廃して廃墟となった。1766年、初代スチュアート公爵の尽力によって修復工事が着工され、かつての威容を取り戻した。1930年代には周辺の市街地も整備され、1950年、イギリス政府の所有するところとなった。
現在では観光地となっており、二つの橋の間には商店がある他、多彩なアトラクションが催されている。城のホールでは結婚式を開催することも許可されており、ホールには100人以上を収容できる。城の北と南に広がる湖では釣りをすることもできる。
清教徒革命の際、敵の砲撃によって爆破された塔が十度の角度に3メートルも傾いた。傾いた塔は現存しており、観光スポットとなっている。またケルフィリー城には、夜な夜な騎士の亡霊が出没すると言う奇談がある。