イリオス

イリオス(古代ギリシア語イオニア方言形:Ἴλιος, Īlios イーリオス)は、ギリシア神話に登場する都市。イリオン(イオニア方言形:Ἴλιον, Īliov イーリオン)、トロイア(アッティカ方言形:Τροία, Troia トロイア、イオニア方言形:Τροίη, Troiē トロイエー、ドーリス方言形:Τρωία, Trōia トローイア)、トロイ(英語:Troy)、トロヤ(古典ラテン語:Troja トロイヤ)などとも呼ばれる。現在のトルコ北西部、ダーダネルス海峡以南にあったとされる。

一般的に、ハインリッヒ・シュリーマンによって発掘された遺跡がイリオスに比定されている。神話ではかなりの規模を持った都市国家であるが、現在発掘によって確認される遺跡は城塞以上のものではない。ギリシア神話においては、アガメムノンを頭とするアカイア軍に滅ぼされたとされ、そのあらましは『イーリアス』をはじめとする叙事詩環に描かれている。

伝説上のイリオス

イリオスの建設

かつてイリオスのある地域は、スカマンドロス河とニュンペーのイダイアの子であるテウクロス(テラモンの子テウクロスとは別)が王として治めており、テウクロイと呼ばれていた。そこへアトラスの娘エレクトラにゼウスが生ませた子であるダルダノスがサモトラケ島からやってきた。ダルダノスはテウクロスの客となり、彼の娘バティエイアと領地の一部をもらった。彼はそこにダルダノスという都市を築き、テウクロス王の死後、テウクロイの一帯はダルダニアと呼ばれるようになった。

ダルダノスの後はエリクトニオスが相続した。エリクトニオスの後はトロスが継いだ。トロスは、自分の名にちなんでダルダニアの地をトロイアと呼ぶことにした。

トロスはスカマンドロス河の娘カリロエーと結婚し、クレオパトラー(もちろんプトレマイオス朝の女王クレオパトラ7世とは違う)、イーロス、アッサラコス、ガニュメデスをもうけた。ガニュメデスが気に入ったゼウスは、鷲に変身してガニュメデスをさらい、オリュンポスの給仕係とした。そして、その代償に馬を与えた。なお、アッサラコスの子がカピュスで、カピュスの子がアンキセス。アンキセスの子がローマの元となった都市を築いた英雄アイネイアスである。

トロスの子イロスはプリュギアで、その地の王が主催した競技会の相撲の部に優勝。賞品として50人の少年と50人の少女を得た。また王は彼に斑の牛をあたえ、「その牛が横になったところに都市を築けという神託が下ったから、その通りにしなさい」といった。イロスが牛の後についていくと、牛はアテという丘で横になった。そこでイロスはそこに都市を築き、イリオスと名づけた。イロスはアドラストス(テーバイ攻めの七将の一人のアドラストスとは違う)の娘エウリュディケと結婚し、ラオメドンをもうけた。イロスの後はラオメドンが継いだ。ラオメドンの子供には、娘のヘシオネ、息子ティトノス、ボダルケスなどが生まれたという。

アポロンとポセイドンによる城壁の建築

あるときアポロンとポセイドンはゼウスに対する反乱をくわだてた。このためゼウスの怒りを買い、人間の姿に身をやつし、イリオス王ラオメドンのためにイリオスの城壁を築くという罰を受けた(一説によると、城壁を築いたのはポセイドンだけで、アポロンは羊飼いの役目をしていたという)。 城壁完成の後にアポロンとポセイドンが報酬を貰おうとすると、ラオメドンはそれを拒絶した。アポロンとポセイドンは怒り、アポロンは疫病で、ポセイドンは海の怪物でイリオスを悩ませた。

その後、怪物にラオメドンの娘ヘシオネをささげれば、災いから逃れることができるという神託が下った。そこで、海から来る怪物に見えるように、海岸近くの岩にヘシオネを縛り付けた。それを見たヘラクレスは、ガニュメデスの代償にゼウスが与えた馬をくれるなら、怪物を倒してヘシオネを救おうと申し出た。ラオメドンが請合ったので、ヘラクレスは怪物を倒してヘシオネを救った。ヘラクレスが報酬の馬を貰おうとすると、ラオメドンは拒絶した。ヘラクレスは、いずれイリオスを攻め落としに来るぞ、と捨て台詞を残して去っていった。

ヘラクレスによるイリオス攻め

ヘラクレスは参加者を募ってイリオス攻めを行った。18艘の船による軍勢の中にはペレウス(アキレウスの父)やテラモン(大アイアス、テウクロスの父)もいた。軍勢は船をおりてイリオスを目指した。イリオス王ラオメドンはヘラクレスらの留守に船を襲ったが、逆にヘラクレスたちに包囲され、捕虜となった。

ヘラクレスたちはイリオスを包囲し、テラモンがイリオスへの一番乗りを果たした。ヘラクレスは自分よりも優れた者の存在が許せなかったので、テラモンを殺そうとした。テラモンは機転をきかせて石を集めるふりをした。不思議に思ったヘラクレスがテラモンに尋ねると、テラモンは勝利者ヘラクレスにささげる祭壇を築いているのだ、といった。ヘラクレスは喜び、ラオメドンの娘ヘシオネを彼に与えた。

戦いの後、ヘラクレスはヘシオネに捕虜のうちから一人だけ連れて行くことを許した。ヘシオネはラオメドンの息子ボダルケスを選んだ。ヘラクレスがボダルケスの購いを求めると、ヘシオネは代償としてベールを差し出した。このことから、ボダルケスはプリアモス(ギリシャ語の「買う」はプリアマイ)と呼ばれることとなった。この時ボダルケス以外のラオメドンの息子はすべて殺された。

トロイア戦争

詳細は「トロイア戦争」を参照

イリオスは、プリアモス王の時にギリシア勢に攻め込まれ、滅亡することとなった。

この戦争の発端はゼウスの思慮によるもので、人口調節のためとも神の名声を高めるためとも伝えられる。プリアモス王の后ヘカベは、息子パリス(アレクサンドロス)を生むとき「自分が燃える木を生み、それが燃え広がってイリオスが焼け落ちる」という夢を見た。この夢の通り、パリスはイリオスにとって災厄の種となった。パリスは、ヘラ、アテナ、アフロディテの三女神の美の競合、いわゆるパリスの審判によりアフロディテからスパルタ王メネラオスの妻ヘレネを奪って妻とすることを約された。彼はスパルタからヘレネを奪ったため、メネラオスは直ちにトロイアにヘレネを帰すよう求めた。しかし交渉は決裂、メネラオスは兄アガメムノンをとともにトロイア攻略を画策した。

アガメムノンを総大将としたアカイア軍(ギリシア勢)はイリオスに上陸、プリアモス王の王子ヘクトルを事実上の総大将としたイリオス軍と衝突した。多大な犠牲を出しながら戦争は10年間続き、アカイア軍の間には次第に厭戦気分が蔓延しはじめた。しかし、アカイア軍の将オデュッセウスは一計を案じ(一説には女神アテナが考えて)、エペイオスに木馬を造らせた。この、トロイアの木馬の詭計によってイリオスは一夜のうちに陥落した。陥落したイリオスから逃げ出すことができたのは、アイネイアスなど少数の者たちだけだった。

イリオス遺跡

トロイの古代遺跡
(トルコ)

トロイの古代遺跡
英名 Archaeological Site of Troy
仏名 Site archéologique de Troie
登録区分 文化遺産
登録基準 文化遺産(2),(3),(6)
登録年 1998年
拡張年  
備考  
公式サイト ユネスコ本部(英語)
地図
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シュリーマンによる発掘

ハインリッヒ・シュリーマンによって発掘が行われるまで、イリアスは神話上の架空都市にすぎないというのが一般的な概念であった。

このような常識に対し、シュリーマンは自著『古代への情熱』で、幼いころにイリアスの子供向けの物語を読み、イリアスは実際に起きた出来事をもとにした物語だと考えたと述べている。彼はトロイアを発掘することを決意し、発掘の資金を集めるために商人になったとしているが、これは自伝であり、後に発掘されたいわゆる「アガメムノンのマスク」に偽装を施した疑いも指摘されているので、著作自体の信憑性を疑う意見もある。古代ギリシア語を理解することができるなどの脚色もあり、著書については事実関係を慎重に吟味しなければならない。

1868年、彼はトロイアのあった場所としてダーダネルス海峡西端のチャナッカレ近郊にあるヒッサリクの丘に見当をつけた。アキレウスがヘクトールを追い回すことができるような場所、近くにイリアスに書かれた川(スカマンドロス河)があるような場所が他にないというのが彼の説明である。

1870年、シュリーマンは、私財を投じてトロイアの発掘を開始。シュリーマンの狙いは正しく、彼は曲輪に囲まれた遺跡を発掘した。ヒッサリクの丘の遺構は複数の層から成っており、シュリーマンは火災の跡があった第II層をトロイアだとした。しかし、後の研究の結果、この層はトロイア戦争があったとされる時代よりも前の時代のものであった。

シュリーマンの発掘が学会で認められるには時間がかかった。当時の常識に反している上に、シュリーマンがまったくの素人だったからである。確かにシュリーマンは素人で、彼の間違った推定と発掘により、遺跡の考古学的価値は取り返しのつかないほど傷ついてしまった。操ることができたというホメーロス時代の古代ギリシア語も、実は間違いだらけの怪しいものだったようだ。しかし、当時は現代的な意味での考古学は未整備な状況であり、他の多くの先駆的偉業が荒削りであることを考え合わせると、やはりシュリーマンの発掘による功績は大きいといわなければならない。

  • 1882年からドイツの考古学者ウィルヘルム・デルプフェルトが発掘に参加。
  • 8年後の1890年、トロイ第7a市、メガロン(ギリシャ建築の宮殿)跡を発掘、第7層がホメロスのトロイと判定した。
  • 1896年2月26日、シュリーマン死去、デルプフェルトは仕事を続ける。
  • 1893年〜94年、デルプフェルトは第7市の要塞を発掘、ホメーロス『イーリアス』のトロイを確証した。

イリオス遺跡の構成

現在までの調査によると、イリオスの遺跡は9層から成り、シュリーマンが『イーリアス』当時のトロイアのものだとした第II層Gは、紀元前2500年から紀元前2200年のものだということがわかった。第I層、すなわち最初の集落は紀元前3000年頃に始まっており、初期青銅器時代に分類される。第II層は、エーゲ海交易によって栄えたと考えられており、トロイア文化ともいうべき独自の文化を持っていた。城壁は切石の下部構造を持ち、入り口は城壁を跨ぐ塔によって防衛されている。しかし、その後の第III層から第V層は繰り返し破壊の憂き目を見ており、発展的状況は認められない。

紀元前1800年から紀元前1300年に至る第VI層において、イリオスは再び活発に活動を始めている。『イーリアス』の時代とされるものは紀元前1200年ころの第VII層Aだったが、これはシュリーマンの発掘によっておおきく削られてしまったため、ほとんど何も残っていない。この時期に規模は拡張されているが、それでも曲輪の直径は140m程度で、都市機能はかなり矮小であると言える。従って、イリオス遺跡は都市というよりは城塞である(ただし、周辺一帯の大規模な発掘によっては、曲輪の外側に都市機能が認められる可能性はある)。第VII層Aはすぐに崩壊し、後に貧弱な第VII層Bが続いていた。その後に第VIII層、第IX層が続くが、これらはギリシア人・ローマ人による町の遺構である。

トロイア戦争の時代を、ヘロドトスは紀元前1250年、エラトステネスは紀元前1184年、Dourisは紀元前1334年と推定した。トロイア戦争時代と推定される第VII層の発掘では、陶磁器の様式から、紀元前1275年から紀元前1240年と推定されている。

シュリーマンの発掘した遺跡がトロイア戦争の舞台として登場する古代都市イリオスであるか否かは議論のわかれるところである。ホメロスの『イーリアス』には複数の都市に関する伝承が混合している可能性が指摘されており、その複数の都市の中に、シュリーマンが発掘したこのトロイア遺跡が含まれているということについては概ね合意が得られていると言える。しかし、ホメロスの『イーリアス』それ自体に考古学的事実と符合しない部分があり、また、最も重要な証拠となるべき第VII層の大部分がシュリーマンの発掘によって消失しているので、イリオス遺跡が伝説上のトロイアであるという決定的な証拠はない。ホメロスの伝承が全く架空の伝承とする立場もないわけではない。

とは言え、この遺跡の発掘が考古学の発展に与えた影響は大きく、そういった意味からも1998年、世界遺産に登録された。

ヒッタイトの記録によるイリオスとトロイア

紀元前13世紀中ごろのヒッタイト王トゥドハリヤ4世時代のヒッタイト語史料に、アナトリア半島西岸アスワ地方の町としてタルウィサが登場する。これはギリシア語史料のトロイアに相当する可能性が示唆されている。また、同史料にウィルサ王アラクサンドゥスが登場する。これもそれぞれギリシア語史料のイリオスとアレクサンドロスに相当する可能性が示唆されている。

トゥトゥハリヤ4世の治世はヒッサリク遺跡の第VII層Aの時代と一致しており、パリスの別名がアレクサンドロスであったことが知られている。このため、この史料の記録はギリシア史料によるトロイア戦争となんらかの関係があるのではないかと推測されている。

20世紀の発掘調査

  • 1932年〜38年 シンシナティ大学の考古学班が発掘を再開。
  • 1938年 第二次世界大戦の為に中断。
  • 1950年 シンシナティ大学の調査結果発表、46層位が確認された。
  • 1990年 シンシナティ大学、ドイツ・トルコの考古学者と共に発掘・整備。

世界遺産

登録基準

この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた。

  • (2) ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
  • (3) 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。
  • (6) 顕著で普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰または芸術的、文学的作品と、直接にまたは明白に関連するもの(この基準は他の基準と組み合わせて用いるのが望ましいと世界遺産委員会は考えている)。

関連項目

  • トロイア戦争
  • イーリアス
  • オデュッセイア
  • ハインリッヒ・シュリーマン

参考文献

  • Henry George Liddell, Robert Scott, Greek-English Lexicon, new edition, Oxford Univ Pr.
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ヒントとヒント
Elja Daae
2014年4月19日
We loved the walkway (many stairs so stroller not a great idea). There are great explanations in Turkish, English and German. Climbing The horse was a big hit with the kids!
Elja Daae
2014年4月19日
New entrance and parking is almost ready, the old one is a little walk (especially with kids). The site is beautiful. Part is accessibele by stroller but the wooden walkway is not (many stairs).
MTK
2012年12月1日
It may be disappointing for the first time visitor. 9 different layers of ruins dated 3000BC to 6th century AD. Mind bugling legendary city and Unesco Heritage site!
Serhan Kantarci
2014年10月6日
Historical sifhtseeings including places mentioned in illiada & Homeros. In Greek myth, Legendary Achillies fought here against Trojans and died.
Suthata Suthmahatayangkun
2012年12月30日
The souvenir here are over price but definitely one of a kind . Don't trust your tour guide because stuff out there are extremely hideous.
Turist Ömer
2013年7月30日
Audio guide almanızı kesinlikle tavsiye ederim. Take an audio guide, not an adwise necessity!
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Людмила Петрова そして、57,483より多くの人々がここにいました
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