クレーターレイク国立公園(くれえたあれいくこくりつこうえん、Crater Lake National Park)は、オレゴン州南部に位置する米国の国立公園である。主な目玉はクレーターレイクである。
1902年5月22日に米国で5番目の国立公園として設立された。 公園はクレーターレイクのカルデラ湖を取り囲んでいる。そのカルデラ湖は、活動停止後にマザマ山と呼ばれている破壊された火山の残骸の中にある。 湖は最深597 m(1,958フィート)、米国で最も深い湖で、世界で7番目の深さである。 カルデラ湖の周縁部は、2,100から2,400 m(7,000から8,000フィート)の高さにある。 湖自体の平均標高は1,883 m(6,178フィート)である。 公園の面積は741 km²(286平方マイル)。 クレーターレイクは、流入・流出河川を持たない。 湖水は通常は極めて青く澄んでいる。年間訪問者数は、平均400,000人強である(2006年は、例年より少なく388,972人であった)。
詳細はマザマ山参照。 火山活動は、ファンデフカプレートが北アメリカプレートの下に潜り込む際のオレゴン州の沖合いでの沈み込みによって引き起こされる(プレートテクトニクス参照)。 この動きによって引き起こされる熱と圧縮が、火山の多い山脈を生み出した。これらの山は全体でカスケード山脈と呼ばれている。 山脈中の大きな火山群はハイ・カスケーズ (High Cascades) と呼ばれている。 しかし、山脈中には他にも多くの火山がある。ただ、それらのほとんどはずっと小さい。
約400,000年前、マザマ山はハイ・カスケーズの他の山々と同様に層状の楯状火山として誕生した。 長期にわたり、溶岩流と火砕流が交互に重なりあい、マザマ山は、高さ約3,400 m(11,000 フィート)に達するまでとなった。
若い成層火山が大きくなるにつれ、多くの小さな火山や噴火口が公園内や現在の公園の境界線のちょうど外側にできた。それらのうち主たるものはスコリア丘であった。 初期のスコリア丘はなくなってしまった—スコリア丘は簡単に侵食される—が、公園内には少なくとも13のずっと新しいスコリア丘があり、少なくともその他に11前後のスコリア丘が公園の外にあり、スコリア丘独特の外観を維持している。 これらの小さな火山や火口がマザマ山のマグマ溜まり及び火山系に寄生するものであったのか、オレゴン・カスケード火山活動に関係するものであったのかについては、議論が続いている。
休止期間の後、マザマ山は再び活動を始めた。 そして、紀元前4860年頃、マザマ山は大噴火により崩壊し、760から1,100 m(2,500から3,500フィート)の高さを失った。 噴火により巨大なカルデラが形成された。これは後に深い青い湖で満たされ、今日クレーターレイクとして知られている。
マザマ山を崩壊させた噴火の時期に、クレーターレイクを含む広い範囲にわたって噴出物が降り積もり、火山灰は、東は現在イエローストーン国立公園となっている地域の北西隅まで、南はネバダ州中央部まで、北はブリティッシュ・コロンビア州南部まで堆積した。 1980年5月18日のセント・ヘレンズ山の噴火の150倍以上の火山灰が生み出された。
この大噴火によってできた公園の注目に値する目玉は、
数千年を経た今日でも、この地域は過剰な多孔性(水が素早くしみ込むということを意味する)と主としてレゴリスから成るやせた土壌のため、植物がほとんどみられない。
おそらく数年の後、熱いガスが表面に移動し、ゆっくりと灰と軽石を一緒に固め、噴気孔を通って逃げた。 その後、侵食が周囲の緩んだ灰や軽石を取り去り、高い尖峰が残った。
その他の公園の目玉:
更新世末以前のいつかの時点でスコット山での火山の噴火は明らかに止まった。スコット山の北西斜面に残された大きな圏谷は、氷河期以降の火山活動によって変えられずに残っている。
クレーター・ピークのように玄武岩と安山岩の溶岩流でできているが、クレーター・ピークと異なり、2つのスコリア丘がある。
地元のインディアンは、マザマ山の崩壊を目撃し、伝説の中でその出来事を後世に伝えてきた。 クラマスの人々のある古い言い伝えは、今日の科学研究から明らかになった地質学上の知見とよく似ている。 言い伝えによると、2人の酋長、地の世界のラオと天の世界のスケルが戦い、結局ラオの家、マザマ山が破壊された。 戦いは、マザマ山の噴火とクレーターレイクの成り立ちを証言するものである。
湖を訪れた最初の欧米人として知られているのは、金鉱を探す3人組、すなわち、ジョン・ウェズリー・ヒルマン (John Wesley Hillman) 、ヘンリー・クリッペル (Henry Klippel) 、アイザック・スキーターズ (Issac Skeeters) で、彼らは、1853年6月12日、失われた鉱山を探している途中で、長い傾斜した山に偶然ぶつかった。 湖の感動的な青に打たれ、インディゴ色の湖を「ディープ・ブルー・レイク(濃青湖)」 ("Deep Blue Lake") と名付けた。そして、彼らが初めて湖を見た縁の南西側の場所は、後にディスカバリー・ポイント (Discovery Point) として知られるようになった。 しかし、当時入植者の頭には金の方が重要であったため、この発見は間もなく忘れ去られた。 地元民は「クレーターレイク」 (Crater Lake) という名を好み、提案された名前は人気を失った。しかし「クレーター」は誤った名前である。というのは、湖盆地は実際はカルデラ、すなわち陥没により形成される火山地形であり、掘削により形成されるものではないからである。
ウィリアム・グラッドストーン・スティール (William Gladstone Steel) は、クレーターレイクにおける国立公園の設立と管理に人生と財産を捧げた。 彼が湖に夢中になり始めたのは1870年のことである。。 彼は、公園への承認を得ようと努力し、科学的な支援材料を提供する湖の調査に参加した。 湖の際立った多くの特徴に名前をつけた。名付けられた中には、ウィザード島 (Wizard Island) 、ラオ岩 (Llao Rock) 、スケル・ヘッド (Skell Head) がある。
地質学者クラレンス・ダットン (Clarence Dutton) の助力を得て、スティールは、1886年、湖の調査のため米国地質調査所の探検隊を組織した。 一行は、山の急な坂を「クリートウッド」(Cleetwood) という0.5 t の調査用ボートを持ち運び、湖に下ろした。 「クリートウッド」の船尾から、一巻きのピアノ線の端のパイプ により、168箇所で湖の深さが測定された。 彼らの調査結果では最深部の深さは1,996 フィートであったが、これは最新の公式な深さ、1,932 フィート(1953年、ソナーによる測定結果)に非常に近い。 同時に、地形学者はその地を調査し、専門家の手になる初めてのクレーターレイク地域の地図を作成した。
探検から得られたデータと、スティール等のロビー活動に一部基づいて、クレーターレイク国立公園は、1902年5月22日、セオドア・ルーズベルト大統領によって設立された。 スティールの関与により、クレーターレイク・ロッジが1915年にオープンし、リム・ドライブが1918年に完成した。
]] その後、来園を容易にするため、公園までの道路が建設された。 1929年版の「オー・レンジャー」O Ranger! は、当時の交通の便と設備を次のように描写した。 Шаблон:Cquote
公園内には多くのハイキング用の歩道があり、いくつかのキャンプ場がある。 魚の大きさ、種類、数に制限を受けることなく、許可なしで釣りができる。 クレーターレイクには固有の魚種はいないと考えられているが、1888年に導入が始まり1941年まで放流が続けられた。 ヒメマス (Oncorhynchus nerka) と ニジマス (Oncorhynchus mykiss) が、自然に繁殖している。 湖での水泳は許可されている。また、夏期は毎日ボート・ツアーが実施されており、湖の中のスコリア丘、ウィザード島に停まる。 湖へは、湖の北にある険しい歩道、クリートウッド歩道 (Cleatwood Trail) を通ることになる。
カルデラの縁にある展望台には、リム・ドライブを通って自動車で簡単に行ける。 しかし、最も見晴らしが良い場所は、2,721 m(8,929 フィート)のスコット山からのものである。 そこに行くためには、リム・ドライブの起点から 4 km(2.5 マイル)のかなり急な道のりを歩かなければならない。 快晴の日にはスコット山頂からの視界は160 km(100 マイル)を超え、カルデラ全体を一望できる。 また、同じ場所から北に冠雪したハイ・カスケーズの火山群が、東にコロンビア川台地が、西にウェスタン・カスケーズ (Western Cascades) とそのさらに遠方にクラマス山脈 (Klamath Mountains) が見える。
夏はクレーターレイクの目玉すべてに行くことができる。一方、秋冬春の間は公園の雪は深く、道路は人気のあるリム・ドライブ(この道路は一般的には7月から10月まで通行可能)も含めて閉鎖される。