ワーラーナシー(Varanasi、वाराणसी)はインドの都市。ウッタル・プラデーシュ州に属する。ワーラーナシー県の県都。人口は約116万人(2004年)。ヴァーラーナスィー、バラナシとも表記する。かつては英領植民地時代に制定された英語表記のBenaresの誤読により「ベナレス」とも日本語で称された。これは現地語での別名「バナーラス」(बनारस)に由来する名称である。また古くは「カーシー国」(काशी)とも称された。ヒンドゥー教・仏教の聖地として重要な都市。位置は北緯25度20分東経83度0分。
ガンガー(ガンジス川)沿いに位置する都市。この街の近くで、ヴァルナー川とアッスィー川がガンガーに注ぐ。ワーラーナシーという街の呼称は、「ヴァルナーとアッスィーに挟まれた街」から由来するという見解が有力である。絹のサリー生産が代表的産業。近隣の都市としては、約50キロ南西のミルザープル、120キロ西のイラーハーバード(アラーハーバード)などが挙げられる。街の郊外には、釈迦が初めて説法を行ったサールナート(鹿野苑)がある。
インドの叙事詩『マハーバーラタ』にもその存在は記されている。前6世紀から5世紀頃、この地にあったカーシー国の首都として栄えた。その後、コーサラ国、マガダ国などに支配された。前4世紀、インド初の統一王朝となるマウリヤ朝が成立するとその支配下におかれ、以後も歴代王朝に支配された。ラージプート時代の混乱が続く中、ワーラーナシーはイスラーム勢力に征服されることになった。まず12世紀末、アフガーニスターンのゴール朝に征服された。その後のデリー・スルタン朝時代においても、トゥグルク朝やロディー朝による破壊を受けた。
16世紀に成立したムガル帝国のもとでは、3代皇帝アクバルが宗教寛容策を採ったことで知られるように、イスラーム教徒、ヒンドゥー教徒の共存が図られたため、ベナレスの再建が進んだ。しかし、17世紀に厳格なスンナ派である6代皇帝アウラングゼーブが即位すると、再び聖像崇拝禁止の方針がとられ、街の多くの宗教施設が破壊された。そのため、現存している建物の多くは、18世紀以降に建てられたものである。
1725年にムガル皇帝に徴税権を認められたマナサ・ラーム(ヒンドゥー教徒)のもとで、徐々に街の復興が進んでいき、息子のバルワン・シンはワーラーナシー藩王国を建てた。しかし、18世紀後半よりイギリス東インド会社の進出が本格化し、イギリスの統治下におかれた。ベナレスという呼称は、このイギリス統治時代のものである。
ワーラーナシーのガンガー近くで死んだ者は、輪廻から解脱できると考えられている。そのため、この地でひたすら死を待つ人々もいる。マニカルニカー(「宝石の耳飾り」の意)・ガートは、南北6キロガンジスの岸辺のほぼ中央に位置し、火葬場としての役割を果たしており、死者はここでガンガーに浸されたのちにガートで荼毘に付され、遺灰はガンガーへ流される。金が無い人、赤ん坊、妊婦、蛇に噛まれて死んだ人はそのまま流される。町にはハリシュチャンドラ・ガートと呼ばれる、もう1つの火葬場があり、2つの火葬場はドームという同じ一族が取り仕切っており、働く人々も共通であり、交代勤務で働いている。ワーラーナシーは別名「大いなる火葬場」とも呼ばれており、年中煙の絶えることはない。
バナーラス・ヒンドゥー大学 (Banaras Hindu University,BHU) は、約1万人の生徒数を誇る。哲学やサンスクリットなどインドの民族文化研究などが盛ん。キャンパス内にはビルラー寺院、インド美術館などがある。ビルラー寺院は、近代ヒンドゥー教寺院の代表的な建造物として知られる。美術館では彫刻、細密画などが展示されている。
主な観光地は下記の通り。
バラナシ近辺には鉄道の駅が4つある。それぞれ、
と呼ばれている。このうち長距離列車が発着するのはバラナシ・ジャンクション駅とムガル・サラーイ駅である。バラナシ・ジャンクション駅では2006年3月にテロリストによる爆破事件があった。アーグラーまで特急で8-12時間、デリーまで特急で約9-12時間、コルカタまでは約13時間、ムンバイまでは約28時間。