ポチョムキンの階段(ポチョムキンのかいだん、ウクライナ語: Потьомкінські сходи, Pot’omkins’ki Skhоdy, ロシア語: Потёмкинская лестница, Potyomkinskaya lestnitsa. 英語: The Potemkin Stairs )は、ウクライナのオデッサにある、巨大な階段である。この階段は海の方角からオデッサ市街地の玄関口と考えられ、オデッサの象徴として知られる。
現在、公式には「プリモスキー(Primorsky)の階段」として知られる 。これらは元来「ブルヴァルド(Boulevard)の階段」、「巨大階段」 、あるいは「リシュリュー(Richelieu)の階段」として知られていた。
最上段のステップは12.5mの幅であり、最下段のステップは21.7m幅である。階段は27mの落差で、距離は142mである。しかしそれはもっと広い規模の錯視を与えている。
階段は錯視を作り出すためにデザインされている。階段を見下ろす人には踊り場だけ見えて階段は不可視である。しかし階段を見上げる人には、階段だけ見えて、踊り場は不可視である。 階段は上より下のほうが広いので、二次的な錯視は偽の視点を作り出している。階段を見上げると階段が実際より長いように見せ、階段を見下ろすと階段をそれほど長いようには見せない。
ステップの高台に位置するオデッサは、その下の湾に向かって直接通じる必要があった。階段が建設される前、曲がりくねった道と粗末な木造の階段だけが湾へのアクセスであった 。
1825年にフランシスコ・ボッフォ、サンクト・ペテルブルクの建築家アフラアアム1世・メルニコフとポッテによって元来の200段の階段がデザインされた。階段の建設費用は80万ルーブルであった。
1837年に、「怪物のような階段」を建設する決定がなされ、1837年から1841年までの間に建設された。英国の技術者ジョン・アップトンが階段を建設した。アップトンは偽造罪で保釈中に英国から逃亡していた。建設の材料にイタリアのトリエステ(当時はオーストリア帝国領)の緑灰色の砂岩が船で輸送されてきた。
階段はセルゲイ・エイゼンシュテインの1925年のサイレント映画『戦艦ポチョムキン』で有名になった。作品の中の架空の場面によれば、1905年の7月14日に、兵士たちが階段にいる人々に発砲したのである。ジャーナリストのコルネイ・チュコフスキーによれば、かれは事件当時オデッサにいたのだが、コサック兵が階段の上にいたかどうか、人々で階段がいっぱいになっていたか、発砲が実際に行われたかは不明であるという。
エイゼンシュテインの映画にいて、実際にあらゆる都市で発生した戦慄すべき出来事はこの階段において凝縮されたのである。同様のメソッドは後世の写真家に使用され、芸術家のアレクセイ・チタレンコは「影の都市」のシリーズで、サンクト・ペテルブルクの地下鉄の駅の近くの階段にいる、どん底の人々からなる群衆を、人間の悲劇の象徴の一つとして使用している 。
ロジャー・イーバートが書いた映画批判にはこう記されている。
“ | 皇帝派たちによるオデッサの階段の虐殺は、事実ではなかったことが、このシーンの説得力を減少させた…エイゼンシュテインがこのシーンをあまりに素晴らしいものにしたために、今日ではオデッサの階段の流血がまるで本当に起きたかのように頻繁に言及されるのは皮肉なことである | ” |
淀川長治は『戦艦ポチョムキン』の解説でこう述べている。
“ | 後にこの階段は、どれだけパロディーで使われたかわかりませんね。エイゼンシュテインは本当に映画、良くつくりました。立派でした | ” |
浸食による階段の破壊にともない、1933年には砂岩が南ブーフ川地域のローズ・グレーの花崗岩に取り換えられた。さらに踊り場がアスファルトで覆われた。港が拡張されたとき、階段のうち8段が砂の下に失われ、階段の数は192段、踊り場は10となり縮小された。
階段の左側には、1906年に、人々を徒歩の代わりに輸送するためにケーブルカーが建設された[]。建設から50年後の1970年代、ケーブルカーはエスカレーターに取り換えられた。エスカレーターは1990年代に故障し、修理する費用はなかったが[]、それも2004年に新しいケーブルカーに取り換えられた。
ロシア革命後の1955年に「プリモスキーの階段」は、映画『戦艦ポチョムキン』公開50周年を記念して「ポチョムキンの階段」と再命名された。
ウクライナ独立後、ポチョムキンの階段は、オデッサの多くの通りと同様に、元来の名前「プリモスキーの階段」に戻った。しかしほとんどのオデッサ市民は今もこの階段のソビエト時代の名前を知っており、この階段に言及するときは「ポチョムキンの階段」と呼ぶ。
階段の頂上には、リシュリュー公アルマン・エマニュエル・ド・ヴィニュロー・デュ・プレシを描いたモニュメントが立っている。彼はフランスの貴族であり、1803年にオデッサ初代知事になった。ロシアの彫刻家イワン・ペトロヴィチ・モルトス(1754–1835年)はこの古代ローマのトーガとクラッドをまとった姿をデザインした。彫像はイェフィモフによってブロンズに鋳造され、1826年に発表された。オデッサに最初に建立されたモニュメントである。