セントラル・パーク(Central park)はニューヨークのマンハッタンにある都市公園。南北4km、東西0.8kmの広さがある。周囲の摩天楼で働き暮らすマンハッタンの人々のオアシスとなっており、映画やテレビの舞台としても度々登場するため世界的にも知られるようになった。
セントラル・パークは北はセントラル・パーク・ノース、東は五番街、西はセントラル・パーク・ウエスト、南はセントラル・パーク・サウスの各通りに囲まれている。東側中央にはメトロポリタン美術館、西には道をはさんでアメリカ自然史博物館がある。
この公園はフレデリック・ロー・オルムステッドとCalvert Vauxによって設計された。公園内はまるで自然の中にいるように錯覚する風景だが、高度に計算された人工的なものである。公園内にはいくつかの湖、2つのアイススケートリンク、各種スポーツ用の芝生のエリア、自然保護区、そしてそれらを結ぶ遊歩道などがある。道路は景観を崩さないために人工的に窪地に作られている。これはダイナマイトで岩盤を破壊して作ったものである。
公園内は自動車での通行が禁止されており、週末は公園を囲む9.7kmの道はジョギングをする人々、サイクリングやインラインスケートを楽しむ人々などで賑わう。また、ここはニューヨークシティマラソンのゴール地点にもなっている。渡り鳥たちのオアシスにもなっており、バードウォッチングも盛んに行われている。夏には園内のデラコート劇場で有名な映画スターによるステージが行われる。
マンハッタン島の都会的景色・喧噪の中のオアシスとしての働きを果たしており、公園に面してその景色が視野に入るアパートメント・コンドミニアムは、近隣の中でも高く評価される物件となる。
セントラル・パークはアメリカで景観を考慮して設計された最初の公園である。当時、膨張したニューヨークに大きな都市公園が必要であると、詩人William Cullen Bryantやアメリカ初のランドスケープ・アーキテクト(造園家、造景家)とされるAlexander Jackson Downingによってその必要性が唱えられており、ロンドンのハイドパークやパリのブローニュの森のような屋外でのんびり過ごせる場所が多くのニューヨーカーにも望まれてもいた。それを受け、1853年にニューヨークの立法府によりこの地が公園用地として指定されることとなる。当時ここに住んでいたアフリカ系、アイルランド系住民、約1600名は立ち退きの憂き目にあった。
州は公園の開発の監督のため委員会を設置し、1857年に設計コンテストを実施した。その結果、作家のフレデリック・ロー・オルムステッドとCalvert Vauxの「緑の芝生計画」が選ばれた。建設のピークには20000人の労働者が雇われることとなった。
1870年代、ニューヨーク市の住民の大多数が住んでいたロウワーマンハッタンには、公園と呼ぶに値する場所はほとんどなかった。1876年にほぼ現在の形に完成したセントラル・パークはずっとアップタウンにあり、その緑の恩恵を一番必要としていた住民には手の届かない場所だった。文人、医師にして教育家のオリヴァー・ウェンデル・ホームズがニューヨーク市を訪問した際にこの公園を絶賛したものの、五番街の23丁目からアップタウンに行くのに、交通費が4ドル(当時)もかかったのに不満を漏らしたとされている。実のところ「多くの人にとって、公園は100マイル離れた場所にあるのと同じで、年に一度の遠足でも遠すぎる」と言われていた。
ニューヨークという不夜城の中にあってオアシスの役割を果たしてきた公園ではあるが、1930年台頃よりここに住み付くホームレスたちが増加し、また、暴力やレイプなどの夜間の治安悪化が問題となっていった。これを危惧したニューヨーク警察がここを重点地区にと指定、現在は比較的安全になっている。2004年にはのべ2500万人もの人々が訪れたが、ここで起こった犯罪は100件未満であったとのことである。
園内には多数の彫刻がある。設計者のオムステッドは彫刻の乱立を嫌ったが、結果は良い方向に向かっている。最初に建てられた彫刻は作家の像や詩にちなむもので、文学歩道と呼ばれるようになった。
彫刻で最も古いものとしては、エジプトの「クレオパトラの針」と呼ばれる長さ21m、重さ200tのオベリスクで、エジプト総督から贈呈された。実際は古代エジプト王トトメス3世が建てた彫刻で、クレオパトラの時代より古いものである。その他、大きなキノコに座り、他の登場人物たちと戯れる不思議の国のアリスの像などもある。