サン=ドニ大聖堂(仏語:Basilique de Saint-Denis もしくは単に Basilique Saint-Denis)は、歴代フランス君主の埋葬地となった教会堂。パリ北側の郊外に位置するサン=ドニにある。
イングランドにおけるウェストミンスター寺院同様、フランス王のほとんどがこのバシリカに埋葬されている。なお、現在この教会堂は大聖堂(カトリックにおける司教座聖堂を意味する語)と呼ばれているが、この教会堂に司教座が置かれたのは1966年であり、それ以前はこの教会堂は大聖堂ではなく、バシリカ(ローマ教皇から特に重要な教会堂と認められ、特別な地位を与えられた教会堂)であった。
この教会堂の由来として広く知られているのは、フランスの守護聖人である聖ドニ(サン・ドニ)の逸話である。伝説によると聖ドニはモンマルトルで斬首されたが、首を刎ねられてもすぐには絶命せず、自分の首を持ってパリ郊外のこの地まで歩き、そこで倒れて絶命したとされる。以後そこがサン=ドニと呼ばれることとなり、教会堂が建てられたのが、現在のサン=ドニ大聖堂の始まりである。またフランク王国のダゴベルト1世(628年 - 637年統治)は、ベネディクト派の修道院サン=ドニ修道院を創立した。
教会堂建造を指揮したのはエリギウスという職人とされる。
サン=ドニ大聖堂は建築学的にも画期的な建物である。回廊は、ゴシック建築初期の主な建築のうち、後陣(chevet)もしくは東端が唯一現存している。
今日我々が目にするサン=ドニのゴシック構造は、大修道院長のシュジェール(1081年 - 1155年)によって1136年頃に始まり、わずか4年の建築期間を経たのち、1144年6月11日に奉献された。
しかし、現存する建築の大部分は、大修道院長ウード・クレマン(任期:1228年 - 1245年)の指揮により、1231年に着工されたものである。このウード・クレマン時代に改築造営された部分は、レイヨナン様式の最初期の例として美術史上きわめて重要な役割を果たしている。内陣の周歩廊祭室にある「アレゴリーの窓」(「聖パウロの寓喩」)のステンドグラスは逸品として名高い。
サン=ドニはフランスの王と王族が何世紀にもわたって埋葬されてきた場所であり、これによりしばしば「フランス王家の墓所」と呼ばれる。10世紀から1789年までのフランス王は、3人を除いて皆ここに埋葬されている。
修道院教会には、死者をかたどった墓のよい例がいくつかある。王や王妃の墓の多くは上に像が彫られているが、フランス革命期、当局の命令により墓は労働者によって開けられている。 遺体は取り出されて、近くの大きな穴2つに埋められた。考古学者アレクサンドル・ルノワールは、フランス記念博物館のため当局にかけあって多くの重要記念物を救った。
ギロチンにかけられたルイ16世、王妃マリー・アントワネット、王妹エリザベートの遺体はサン=ドニには埋葬されなかった。彼らの遺体はマドレーヌ寺院の境内に埋葬され、酸化カルシウムで覆われていた。病気で死んだ王太子ルイ(17世)の遺体は、パリのタンプル近くの教会の無縁墓地に埋葬された。
ナポレオン・ボナパルトが教会を1806年に再開させたが、王の遺体は埋められた穴に残されたままだった。ナポレオンがエルバ島に流されると、王政復古がなされた。彼らは、ルイ16世とマリー・アントワネットの遺骸を捜すよう命じた。わずかな遺骸、おそらく王のものと思われる骨、女性のガーターベルトを含んだ灰色の物質が1815年1月21日に発見され、サン=ドニに運ばれて地下室(crypt)に埋葬された。1817年には、他のすべての遺体が入った穴が開けられたが、どれが誰の骨かを識別することは不可能だった。それらの遺体はサン=ドニ地下室の納骨堂(ossuary)に置かれ、前に大理石板が2枚置かれ、何代ものフランス王朝の王族の名前が、教会に記録された順に何百人も連ねられている。
ルイ18世は1824年に死亡し、納骨堂の中央、ルイ16世とマリー・アントワネットの墓の側に埋葬されている。1815年から1830年の間に死んだ王族の棺は、地下納骨堂(vault)にも置かれている。ノートルダム大聖堂で有名な建築家ル・デュクの監督のもと、フランス記念博物館に持ち込まれた作品が教会に戻された。サン・ポンの修道院に埋葬され、革命時も無事であったルイ17世の墓はサン=ドニに移され、地下室に埋葬された。2004年には王太子、つまりルイ17世だった少年のミイラ化した心臓が地下室の壁に封印された。
496年以降にフランスを統治した王は、3人を除いて全員がサン=ドニのバシリカに埋葬されている。 代表的な人物は以下: