モンテカルロ市街地コース(モンテカルロしがいちコース、Circuit de Monaco)は、モナコ公国のモンテカルロにある市街地コースで、F1モナコグランプリが開催される。
F1モナコGPはインディ500、ル・マン24時間レースと並ぶ世界3大レースの1つであり、コートダジュールの海岸沿いをガードレールをかすめて走り抜けるモンテカルロ市街地コース(3,340m)を舞台に行なわれる。モナコ王室の協力を得て、1929年に開催された国際レースを起源とする伝統の市街地レースである。F1にもチャンピオンシップがスタートした1950年から名を連ねており、いくどかの中断をはさみ、2008年で66度目、F1GPとしては56度目の開催となる。
2003年にはプールサイドシケインの出口からラスカスまでのレイアウトが変更され、路面もかなりの部分で再舗装が行なわれた。
直線はほとんどなく道幅も狭く、ガードレールに視界をさえぎられるテクニカル・コース。コースにはトンネル区間が存在する。
勝者を選ぶドライバーズ・サーキットとして名高く、5連勝を含む通算6勝のF1記録を樹立したアイルトン・セナや、通算5勝のミハエル・シューマッハ、同じく通算5勝のグラハム・ヒルなどは、敬意を込めてモナコ・マイスターと称されることがある。一方で番狂わせも多く、過去に9名のドライバーがF1初優勝をこのコースで飾っている。
1920年代、誕生したばかりのモナコ自動車クラブが国際的に認めてもらうために、自動車クラブ会長のAnthony Noghes(アントニー・ノゲ。英語読みの「アントニー・ノウズ」として最終コーナーの名称としてその名を残す)は国際自動車公認クラブ協会(AIACR 現在のFIA=国際自動車連盟の前身)に加盟を申請した。すでに1919年からラリー・モンテカルロを開催しており、問題なく加盟できると考えていた。しかし、ラリーで使用しているコースのほとんどは隣国のフランス国内で行われている。モナコ単独ではイベントを開催できない、と拒否された。
そこでアントニーは、モナコとモナコ自動車クラブの威信のために国内で国際レースを開催することを決めた。ルイ・シロンとルイ2世の協力を得て、国全体をサーキットにし、1929年に第一回モナコGPを開催した。しかしルイ・シロンはインディ500に出場するのを優先したため出場しなかった(後に第三回大会には出場し優勝している)。
イベントは成功に終わり、モナコ自動車クラブは国際クラブとして認められた。 コースは基本的に今ある姿とほとんど変わっていない。(当時はプールが存在しなかったためプールサイドシケインが存在しなかったことと、ラスカスがガスワークスと呼ばれるヘアピンだったことが大きく異なるくらいである。) 1973年に従来のコースを横切る格好でプールが新設されたことにより両コーナーが誕生している。 スタートは1972年まで現在のプールがある場所で行われた。
2007年1月には世界ラリー選手権(WRC)第1戦ラリー・モンテカルロの最終SSであるスーパーSSがモナコ市街地コースの一部を使って開かれた。コースはヨットハーバー内とメインストリートをヘアピンカーブで繋ぐ「モナコサーキット」。1周1.4kmのコースを2周し、2台同時にスタートするがスタート地点を離すことで基本的には単独走行となった。またタイヤはドライターマック(舗装路)用タイヤではなく、グリップ力の低下するスノータイヤを用いなければならないという特例を設けたことで、意図的にスピードレンジを下げ、コーナーでの派手なドリフトが起きやすくするなどの工夫が見られた。
2009年にはツール・ド・フランスのグランデパールに選ばれ、スタートライン付近からスタートし、カジノ前から一旦コースを外れポルティエからF1コースに戻り、トンネルを抜けてプールサイドでゴールという15.5km、標高差200mのコースで開催された。また2日目のスタートにも選ばれ、カジノ広場でセレモニーを行い、トンネル~ロウズ・ヘアピンをオフィシャルカー先導のもと逆走し、郊外の正式スタートポイントまでのパレードランコースとして用いた。
このサーキットでは、過去に2件の死亡事故が起こっている。