ロイヤル・オペラ・ハウス (Royal Opera House) はロンドンのコヴェント・ガーデンに存在する歌劇場。単にコヴェント・ガーデンと称してこの歌劇場を指すこともある。ロイヤル・オペラ、ロイヤル・バレエ団そしてロイヤル・オペラ・ハウス・オーケストラの本拠地として使用されている。
現在存在する建築物は第三代目にあたる。ファサードと玄関、聴衆席は1856年に作られたものが残っているが、それ以外の部分については1990年代に改装されたものである。合計2,174人の聴衆を収容できる4階建ての円形観客席を有し、舞台の幅は12.20m、高さ14.80mである。観客席部分はイギリスの指定建造物となっている。
ロイヤル・オペラ・ハウスの始まりは17世紀にイングランド国王チャールズ2世がサー・ウィリアム・ダベナントに渡した特許状に由来する。これにより当時1つの劇団しか無かったロンドンにおいてダベナントは新しい団体を運営することを認められた。この特許状は20世紀の初めまで歌劇場が所有していたが、第一次世界大戦終結後にアメリカ合衆国の大学図書館へ売却されている。
1728年に俳優兼マネージャーであったジョン・リッチは劇作家ジョン・ゲイの作品『乞食オペラ』を上演した。このオペラは大きな成功を収め、これにより得た資金を元に歌劇場の建設が決定、エドワード・シェファードの設計による初代のシアター・ロイヤル (Theatre Royal) が建設され、1732年12月7日に一回目の公演が行われた。
数百年の間シアター・ロイヤルはオペラ以外の公演も行う劇場として機能している。これはチャールズ2世により認可された特許状が、ロンドンにおける演劇全般を開催する独占権を与えていた為である。
本格的な音楽作品としてはゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルのオペラ作品が初めて上演された。1735年から1759年の死去まで、ヘンデルの作品は毎シーズン上演されており、彼もコヴェント・ガーデンでの上演を前提としてオペラを作成していた。彼がジョン・リッチへと譲ったオルガンは舞台の最も目立つ位置に据えられていた。残念なことに1808年に発生した火事によってこのオルガンを含め多くの物品は失われてしまった。
歌劇場の再建は同年の12月に開始された。ロバート・スマークにより設計が行われた建物は1809年9月18日に第一回公演が行われ、『マクベス』の上演に続いて『The Quaker』と題される作品が披露された。再建費用を捻出するために代金が値上げされていたが、作品があまりにお粗末であった為に観客は杖を鳴らし、野次り、果てには踊りだす者さえ出る始末であった。旧料金騒動 (Old Price Riots) はその後二ヶ月あまり続き、運営者は根負けして値下げを余儀なくされた。
この頃ロンドンにおける娯楽は多様化していた。オペラとバレエはその中心であったが、決してそれだけではなかった。1843年には劇場法 (Theatres Act) が成立し、特許状による独占が廃止された。オペラ、バレエともにヘイマーケットのハー・マジェスティーズ・シアターに人気が集まっていたが、1846年に指揮者のマイケル・コスタが経営者との対立によってコヴェント・ガーデンへと移籍すると、多くの団員が彼に従ってハー・マジェスティーズを去った。その後観客席の改装が行われ、ロイヤル・イタリアン・オペラと改称した歌劇場は1847年4月6日にジョアキーノ・ロッシーニの『セミラーミデ』の上演によって再開された。
1856年3月5日に劇場は再び火事に襲われた。翌年エドワード・ミドルトン・バリーの設計により崩壊した部分の再建が開始され、1858年5月15日にジャーコモ・マイアーベーア作の『ユグノー』 (Les Huguenots) の上演によって再開された。歌劇場は1892年にロイヤル・オペラ・ハウスへと名称を変更した。フランス語およびドイツ語作品の上演も増え、毎年夏と冬にオペラおよびバレエの公演が行われた。
第一次世界大戦中には建設省 (Ministry of Works) によって接収され、家具の保管場所として利用された。第二次世界大戦中はダンスホールとして用いられている。戦後そのままダンスホールとして利用する計画が持ち上がったが、長期にわたる折衝のすえ歌劇場として再建することが決まり、音楽関連の出版会社であるブージー&ホークスが建物の賃貸契約を結んだ。
デイヴィッド・ウェブスターが総監督に、さらにはサドラーズ・ウェルズ・バレエが常設のバレエ団として招かれた。そして運営団体としてコヴェント・ガーデン・オペラ・トラストが設置された。
ロイヤル・オペラ・ハウスは1946年2月20日にオリヴァー・メッセルの手による『眠れる森の美女』の上演により再開された。ウェブスターは音楽監督のカール・ランクルとともに常設団体の設置を進めた。同年12月ヘンリー・パーセル作のバレエ『妖精の女王』が上演された。年が変わり翌年1月14日コヴェント・ガーデン・オペラ・カンパニーによる初演作品ジョルジュ・ビゼーの『カルメン』が披露された。
1960年代に円形客席部分の拡張など小規模の改装が実施されていたが、根本的な大改装が必要であるとの意見が次第に強まっていた。1975年労働党政府は長期間におよぶ改装工事に使用するため隣接する土地を歌劇場へ与えた。1995年には資金のめどが付き、翌1996年から2000年までの4年間を用いて大規模な改装工事に取りかかった。
観客席以外の大部分および歌劇場に隣接する建物を取り壊し、全ての部分を大きく拡大させることが計画された。新しい歌劇場は以前の倍にもおよぶ容積を有している。
新歌劇場は以前と同様の馬蹄型観客席を有しているが、技術設備、リハーサル用設備、オフィス、教育用施設など新しい機能が盛り込まれた。地下にはリンブリー・シアターと呼ばれる新しい劇場が設けられた。歌劇場に隣接しコヴェント・ガーデン・マーケットとして利用されていた旧フローラル・ホールも歌劇場の一部として取り込まれた。現時点ではヨーロッパにおける最も近代的な設備を誇る歌劇場となっている。