フィニステレ岬(-みさき、スペイン語: Cabo Finisterre)または地元のガリシア語でフィステーラ岬(ガリシア語: Cabo Fisterra)は、スペイン北西部ガリシア地方の、西に大西洋を望む岩がちの半島。
フィニステレ岬はスペインの西端であると思われることが多いが、フィニステレ岬は北緯42度53分・西経9度16分に位置し、約5km北西にはア・ナベ岬があり、およそ20km北のやや西にはトウリニャン岬のプンタ・ラクシアル(Punta Laxial)が位置している。スペインのこの地域はヨーロッパ大陸の最西端でもない。その称号はポルトガルのロカ岬のものであり、ここよりおよそ16.5km西にある。フィニステレ岬と、ビスケー湾を挟んだ位置にあるフランスのフィニステール県(ブルターニュ半島)の名前はラテン語の「Finisterrae」に由来し、「陸地の終わり」を意味している。
フィニステレ岬にある山をモンテ・ファチョといい、高さは海抜238メートルである。山頂には有名な灯台が置かれている。近くの海辺にはフィステーラの町がある。
フィニステレ岬には、オ・レストロ、アルネラ、マル・デ・フォラ、ランゴステイラ、リベイラ、コルベイロといった風光明媚な浜辺がある。浜辺の多くは、「マーレ・テネブロスム(Mare Tenebrosum)」(「暗い海」:中世における大西洋の呼び名)に落ち込んでいる急峻な崖によって区切られている。
この地域には宗教的な伝説に彩られた岩がいくつか存在する。例えば「聖なる石」、「ワイン染めの石」、「石の椅子」などであり、ケルトの老女神オルカベラの墓石と呼ばれるものもその一つである。
フィニステレ岬は、「聖ヤコブの道」(サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路)の多くの巡礼者の最終的な目的地ともなっている。サンティアゴ・デ・コンポステーラから90kmの距離にあるフィニステレ岬では、巡礼者が彼らの旅の終わりに、服またはブーツを燃やすことが近年の習慣となっている。
フィニステレへの巡礼の起源は定かではない。しかし、それは紀元前から信じられていたと思われる、「世界の果て」としてのフィニステレの位置と関係している。その伝統は中世にも受け継がれ、サンティアゴ・デ・コンポステーラからフィニステレまでの道沿いに、巡礼者の必要を満たすための病院も作られた。
一部の巡礼者はさらにムシーア(Muxía)足を伸ばす。それは歩いて1日の行程である。
北部ヨーロッパから地中海へのルート上の突出した陸標であることから、フィニステレ岬の海戦と呼ばれる戦いが付近で何度か行われてきた。またこの地の海岸は、数多くの船が難破したことから、地元では「コスタ・ダ・モルテ(Costa da Morte)」すなわち「死の海岸」と呼ばれている。1870年にはイギリス海軍の甲鉄艦「キャプテン」が遭難し、約500名の死者を出した。
また、大英帝国の植民地統治に関する法律(1764年砂糖法(Sugar Act)の1766年改正法など)では、特定の商品を、フィニステレ岬の緯度を超えて植民地間で輸送することを禁じていた。例えばサトウキビをジャマイカから直接ノヴァスコシアに運ぶことはできなかった。法律は、そのような場合にはまずサトウキビはジャマイカからイングランドまで運ばれることを求めており、その後、ノヴァスコシアに再輸出されることになっていた。