コインブラの旧大聖堂(Sé Velha de Coimbra)は、ポルトガル・コインブラにある、同国で最も重要なロマネスク様式の建築物の一つ。旧大聖堂は、1139年のオーリッケの戦いのわずか後、ポルトゥカーレ伯アフォンソ・エンリケスが初代ポルトガル王アフォンソ1世として即位し、彼が首都と定めたコインブラに建設された。初代コインブラ伯で、モサラベであったシスナンド・ダヴィデスはこの大聖堂に葬られた。
コインブラ(古代ローマ時代はアエミニウム)は、隣のコニンブリガが468年にスエビ族に侵略され、一部町が破壊された後に、5世紀からキリスト教司教座となった。この頃の大聖堂がどのように旧大聖堂へ引き継がれたのか定かでない。1139年、オーリッケの戦いの後、アフォンソ1世は新たな大聖堂建設への資金提供を決め、かつての支配者ムーア人に知らしめようとした。この大事業に対する決定的な衝動は司教ミゲル・サロマォンにより与えられたもので、彼は事業への助けを惜しまなかった。1185年、2代目の王サンシュ1世がこの大聖堂で戴冠し、建設事業は先進国の証であることを内外に示した。基本的な建物の建設は1310年代で終わり、回廊工事はアフォンソ2世治下の1218年に始められた。
ロマネスク様式の大聖堂建設計画は、当時リスボン大聖堂建設を指揮し、コインブラを定期的に訪れていたフランス人建築家ロベール(ロベール親方とも呼ばれた)のおかげである。のち仕事はソエイロ親方から、ポルト周辺の教会建設に携わったフランス人のベルナール親方に引き継がれた。
16世紀、多くの物が大聖堂に付け加えられた。礼拝堂では、本堂の壁と柱がタイルで覆われた。記念碑ポルタ・エスペシオーサがファサード北側に建てられた。アプスの南側礼拝堂はルネサンス様式で建てられた。基礎建築とロマネスク様式の建物構造は、どちらも無傷のままではない。1772年、ポンバル侯によるイエズス会追放の数年後、司教座は古い中世の大聖堂からマニエリスムのイエズス会派教会、コインブラの新大聖堂へ移された。
コインブラの旧大聖堂は、レコンキスタ時代からほぼそのまま現在まで残るロマネスク建築の一つである。ポルト大聖堂、ブラガ大聖堂、リスボン大聖堂など他都市のものは後世に再度手が入れられている。
外から眺めると、旧大聖堂は狭い窓と銃眼付き胸壁をもち高さがあるため、小さな要塞に似た姿である。これは、ムーア人と交戦中の時代に建てられたことを意味している。西ファサードの中ほどに塔に似た入り口のある建物がある。入り口も窓もどっしりとした、アラビア風・ロマネスク前派の影響を受けたモチーフで飾られている。大聖堂は丘を下る場所に建てられているため、ファサードは角の厚い控え壁で補強されている。
北ファサードは、ポルタ・エスペシオーサというルネサンス様式の入り口を形成していることから、目を引かれる。3つの同じ階の入り口は1530年代にフランス人彫刻家ジャン・ド・ルーアンにより建てられた。東側から一つは、3つの輝かしい礼拝堂を持つ半円形のアプスを見ることができ、メインと北側礼拝堂は南側礼拝堂がルネサンス様式で再建された時代もロマネスク様式のままであった。交差廊を越え、いくつかのバロック要素を持つロマネスク様式のドームがある。
聖堂内は2つの側廊、小さな交差廊のある入り口を持つ。東側アプスには3つの礼拝堂がある。入り口は半円筒天井に覆われている。入り口には広々としたトリフォリウムのある上階がある。内部の全ての円柱には柱頭装飾が施されており、主に野菜、動物、幾何学紋様のモチーフである。ランタン塔の窓と西ファサードの大きな窓は、大聖堂内に自然光を取り入れる光源である。
アフォンソ2世治下の13世紀初頭に建てられた回廊は、ロマネスクからゴシック様式への過渡期の仕事である。各自ゴシック様式の特徴を持つ、中庭に面したアーチは、ロマネスク様式のやり方で2つのアーチを取り囲む。
最も目立つロマネスク様式の外観は、380年頃と推測される、おびただしい柱頭の彫刻である。これらはポルトガルでロマネスク彫刻の最も重要な相対的効果とされている。ロマネスク前様式やかつてのアラブの影響を受けた、野菜、幾何学紋様のモチーフが主である。人を暗示させる模様はなく、聖書の一部分を表すものもない。人物像の彫刻が欠落しているのは、12世紀にコインブラへ移住してきたモサラベ(アラブ領に住んでいたキリスト教徒)が、大聖堂工事に関わっていたことを示しているといわれる。モサラベの芸術家たちは、イスラム教の禁忌である偶像崇拝を避け、人間の姿を芸術に用いなかったのである。
13世紀から14世紀にかけてのゴシック芸術時代、側廊添いに横たわる像を墓碑に持つ多くの墓があった。そのいくつかの浸食が激しい。最も目立つのは、ディニス1世妃イサベルと、14世紀にポルトガルへやってきたビザンツ人の貴婦人ヴァタサ(Vataça または Betaça)の墓である。彼女の墓には、ビザンティン帝国の象徴である『双頭の鷲』が飾られている。
15世紀から16世紀、ジョルジェ・デ・アルメイダ司教が、大がかりな装飾計画の後援者となった。側廊の円柱と壁は、アラビア風の彩色幾何学紋様のセビーリャ製タイルで覆われた。のちほとんどが取り除かれたが、現在も入り口左の壁に特に多く残されている。その他重要な付け足しは、礼拝堂内にある、大きな木製の祭壇背後の棚で、1498年から1502年にかけフランドル人芸術家オリヴィエル・デ・ガンドとジャン・ディプレによって彫られた。祭壇棚は、聖母マリアとキリストの生涯を描いた、ゴシックのフランボワイヤン様式で、ロマネスク様式の礼拝堂内ほとんどを占めている。
北礼拝堂(サン・ペドロ礼拝堂)は、フランス人彫刻家ニコラウ・シャンテレネによるルネサンス様式の祭壇を持つ。南礼拝堂は、全体をルネサンス様式で再建され、キリストと12使徒を描いた壮麗な祭壇棚を含む。祭壇はジャン・ド・ルーアンの手による物で、1566年頃に完成した。1530年代、このジャン・ド・ルーアンが北ファサードのポルタ・エスペシオーサを建てた。
交差廊にはゴシック=ルネサンス様式の洗礼用聖水盆がある。これはサン・ジョアン・デ・アルメイダ教会から持ち込まれた。もとのマヌエル様式の聖水盆はコインブラ大聖堂ゆかりの物で、今はコインブラの新大聖堂内にある。