マイダネク(独・波: Majdanek、正式にはルブリン強制収容所)は、ナチス・ドイツが第二次世界大戦中に設置した強制収容所の一つ。ポーランド、ルブリン郊外に位置する。アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所に次ぐ大規模収容所。
親衛隊(SS)がつけた正式な名称はルブリン強制収容所であったが、周辺住民たちは、この収容所を近隣の村マイダンの名前をとって「マイダネク」と呼び習わしていた。戦後はこの名前で有名となった。ソ連軍が同地を占領するまで間の36カ月にユダヤ人やロマなどおよそ79,000人もの人々が殺されている。
ルブリンから南方2キロの所のヴィスワ川とブーク川に挟まれた場所に存在していた。北東にソビボル強制収容所、南東にベウジェツ強制収容所が存在した。
親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーの命を受けたルブリン地区の親衛隊・警察高級指導者オディロ・グロボクニクにより1941年秋から建設工事が開始された。建設作業は1942年5月まで急ピッチで進められて、その後は少しずつ拡張作業が行われ、最終的には1942年冬に完成を見た。
1942年5月頃にマイダネクは広さ273ヘクタールに達している。他の強制収容所と同様に厳重な警備態勢が敷かれていた。高さ4メートルの木の柱を一定間隔で立ててその間を有刺鉄線で結びつけてフェンスとし、一定間隔に機関銃を備え付けた監視塔を設けていた。親衛隊員が看守であり、警察犬として200頭のシェパードも飼われていた。収容所建設作業が開始されてから間もなく最初の囚人移送があり、1942年5月の頃にすでに収容者4万人になっていたとみられる。1943年夏にはハインリヒ・ヒムラーがマイダネクの視察に訪れている。
マイダネクにはガス車1台と6つのガス室が設置されていた。ガス殺にはチクロンBと一酸化炭素が併用されていた。1度につき2000人近くガス殺することが可能であった。ガス室は1942年10月から1943年秋にかけて本格的に稼働していた。マイダネクはアウシュヴィッツと同様、強制収容所と絶滅収容所の側面を兼ね備えた収容所であった。まだ働ける者は働かせる一方、飢餓や看守の暴力で衰弱した者、チフスに罹った者、そしてナチスにとって死んだ方が好都合な者などはガス室へ送られたのであった。現在このガス室は一般に公開され、天井に沈着する青々としたチクロンBを今でも眺める事が出来る。
他の強制収容所と同様にドイツの戦況が深刻化するにつれ、食糧が不足して常時餓死者が発生するようになった。生きている囚人も骨と皮だけになるか、飢餓による鼓腸を起こして異常に太って見えるか、どちらかの状態になっていった。
死体は当初埋められていたが、ソ連軍の接近に伴い、証拠隠滅のために死体が掘り起こされては改めて焼却された。生存者は別の収容所へ移送され、1944年7月23日にソ連軍がここに到着した際にはわずかな囚人しか残されていなかった。施設の多くも焼却されるか爆破されていったが、ただ焼却炉だけは爆破しきれずそのまま残っていた。
1944年8月12日のソ連の通信員ローマン・カルマンの報告によると解放時のマイダネクはこのような状態であったという。
「私はマイダネクで今まで見たことのないおぞましい光景を見た。ヒトラーの悪名高き絶滅収容所である。ここで50万人以上の男女、子供が殺された。これは強制収容所などではない。殺人工場だ。ソ連軍が入った時、収容所は生ける屍になった収容者が1000人程度が残されているだけだった。生きてここを出られた者はほとんどいなかったのである。連日のように何千人もの人が送り込まれてきて残忍に殺されていったのだ。ここのガス室には人々が限界まで詰め込まれたため、死亡したあとも死体は直立したままであった。私は自分の目で見たにもかかわらずいまだに信じられない。だがこれは事実なのだ。」
ソ連から送られてきたこれらの報告を受けてイギリスの新聞『イラストレイティッド・ロンドン・ニュース』は1944年10月にマイダネクの収容者の写真を掲載するとともに次のように報道した。
「余りに残虐な写真を掲載したことについて理由を述べたいと思う。本紙の読者は、ドイツ人が犯したこの残虐な犯罪について信じられないかもしれない。われわれの報道がプロパガンダと思うかもしれない。そうした懸念から写真掲載の必要があると考えたのである。これらの写真こそが60人から100万人の人々がマイダネクで組織的に殺戮された動かぬ証拠である。掲載した写真だけでも残虐だがマイダネクの惨状はさらに残虐だったのである。」