ハウステンボス(ラテン文字表記:Huis Ten Bosch)は、長崎県佐世保市にある、オランダの街並みを再現して作られた日本最大級のテーマパークである。現在はオランダのみならず、ヨーロッパ全体をテーマにしている。ドラマ・映画・CMなどのロケ地としても使われる。佐世保市の町名(地番)にもなっており、ハウステンボスの所在地の住所は「佐世保市ハウステンボス町1-1」である。
「ハウステンボス」(Huis Ten Bosch)は、オランダ語で「森の家」。オランダのベアトリクス女王が住むハウステンボス宮殿(Paleis Huis ten Bosch)を再現した事から名付けられた。オランダ語の慣用例に基づいた「Huis Ten Bosch」のカナ転写は「ハウス・テン・ボシュ」である。
大村湾に面した佐世保市針尾の早岐瀬戸に接する部分に位置し、開発面積は152ヘクタール(46万1干坪)で東京ディズニーリゾート(ディズニーランド+ディズニーシー)とほぼ同規模。単独テーマパークとして連続した敷地面積では、群を抜いて日本最大である。
テーマパークの一形態ではあるが、ひとつの街として造るというコンセプトに基づいているため、舞台裏と呼べる部分がない。そのため店舗への搬入や、ホテルのリネン類のためのサービス車両は全てハウステンボスの街中を走ったり建物脇に堂々と停車している。これによってハウステンボスの街並みに現実感が備わるとともに、こうした車両を、クラッシックデザインを導入したり、原色系に統一したテーマカラーで彩ることで、街並みのアクセントとして積極的に機能させている。
開園当初の構内車両には、日産自動車や富士重工業が開発したオリジナルのクラシック架装が施してあるほか、トヨタ・クラシックなどのクラシックデザインの車両なども使われている。
なお、開業までの詳細な経緯は、創業者である神近義邦の著書「ハウステンボスの挑戦」(講談社、1994年1月、ISBN 4062064073)に記述されている。
現在のハウステンボス敷地の大部分は、江戸時代に干拓された水田地跡である。太平洋戦争時に軍に接収されたのち、ごく短期間、広島県江田島の兵学校分校が置かれた。大戦終結後に厚生省佐世保引揚援護局が置かれ、針尾島西部の浦頭港に着いた船舶から上陸した引揚者は、ここまで徒歩で移動し、休息救護を受けた歴史がある。ここで休息後、もよりの国鉄南風崎駅から故郷への帰宅の途についた。引揚援護局閉鎖後は陸上自衛隊針尾駐屯地を経て長崎県に払い下げられた。針尾工業団地として造成され、長崎オランダ村に売却。現在のハウステンボスに至る。
オランダ400年の国づくりに学びながら、現在の時代を先取りする環境都市と生活ストーリーを作り、「人と自然が共存する新しい街」『自然の息づかいを肌で感じることのできる新しい空間』を目指してつくられた。ユトレヒト地区を最古の市街部に見立て、ビネンスタッド、入園口方向へと都市が広がった構造となっている。 各地区毎にオランダの文化と豊かな自然が息づき、ハウステンボスで生活する人々や訪れる人々につかの間の余暇と、本格的な充実したリゾートライフを提供することを目指している。どの地区も施設や街の紋章などまでオランダ政府の協力や助言のもとにオランダにある建物が忠実に再現された中で、落ち着ける空間が提供され、そこに植え込まれた生きた植物によって充足感を抱けるように工夫されている。特に、最奥部に建てられたパレスハウステンボスは、オランダ王室の宮殿を写したもので、王室の許しを得て忠実な再現が行われている。宮殿の最上部に置かれた王冠は、オランダの企業グループによって贈呈を受けたもので、日蘭両国の友好の象徴である。このパレスハウステンボス宮殿の庭園の設定にも、これからの友好関係の発展を願う、希望を込めたストーリーが隠されている。
行政上の地名も1991年(平成3年)6月「佐世保市ハウステンボス町(まち)」として登録された。施設の側を通る県道にも長崎県道141号ハウステンボス線の名称が付されており、商業施設が地名として認定されている例は極めて少ない。
この用地は、昭和40年代に長崎県が工業団地として造成したが、工業用水供給の問題などから企業誘致が進まず、手つかずのままであった。この土地を長崎オランダ村株式会社(当時)が買い上げ、草木が失われた土地を土壌改良して樹木林を形成させることからスタート。まず、土地購入費以上の投資をして土地を掘削して堆肥を混入する有機的な方法で土壌改良を実施。東京農業大学関連の学術研究者による綿密な周辺調査に基づいて植栽を行い、約40万本の樹木と30万本の花を植えた。
水田だった頃には、塩害防止用のクリークが張られていたが、ハウステンボス建設時にはすでに埋められていた。ハウステンボス建設では、これとは別に、城塞部を囲むように新たに運河が掘削された。運河は全長6,000m。水深2.5m、幅20~30m。水際には、植物や動物など自然の生態系がなだらかに形成されるように、接水部分には、砕石や土、木を利用し、この運河護岸にコンクリート壁を使わず石積みにしている。ハウステンボスでは親水護岸と呼んでいる。白鳥などの水鳥も、運河から容易に陸部に上がり、営巣している。
また、運河の水は大村湾の干満の潮位差を利用して入れ替える他、水中ポンプで強制循環させて澱ませないように管理している。園内の水処理施設では、汚水や排水を高度処理し、中水道として草木に散水、または土壌浸透させて自然に戻すという方法をとっている。その徹底した浄水化により、大村湾の水質よりもハウステンボスから湾に戻される水のほうが汚染度が低くなっているほどである。[]
建設などにかかった費用は総額2千数百億円といわれる。総合保養地域整備法(リゾート法)の適用も受けている。
ハウステンボス自体の入場者は1996年度には425万人を記録したが、町並みが売り物の大人のテーマパークというコンセプトは時代を先走りしており、リピーターの確保は困難を極めた。2001年度の入場者は355万人まで減少、2003年には、初期投資の負債2,289億円を解消できず、会社更生法の適用を申請して破綻に追い込まれた(改正会社更生法の第1号適用)、メインバンクであった都市銀行の統合合併を前に、融資先が一斉に債権処理を迫られる事態となったためである。これによって、ハウステンボスカントリークラブ ジャックニクラウスコース、ハウステンボス商事、長崎バイオパークなどの関連会社とともに、十八銀行や長崎バスなど、出資していた地元企業も経営に大打撃を被っている)。 野村プリンシパル・ファイナンスをスポンサーとする更生計画案が認可されて以来、現在まで経営再建の途上にある。近年は、他テーマパーク同様、韓国や中華民国、中華人民共和国(香港を含む)等の近隣諸国からの来場者が増え、人気が出ていた。しかし、2008年に起こった世界金融不況の影響を受けて、近隣諸国からの来場者、国内顧客共に減少し、大規模なリストラ策を発表するなど経営再建も厳しくなっている。 なお、母体となった長崎オランダ村は、2001年10月まで西彼町の元の場所でしばらく営業を続けていたが、閉園後、2003年に西彼町に売却された。現在、西彼町は、町村合併によって西海市になっている。オランダ村跡地はハウステンボスの南方、27kmの所に現存している。
長崎駅から 西肥バス特急で諏訪神社前、早岐駅を経由して約1時間。
熊本 - 高速バス「さいかい号」で約3時間。この他、園内には分譲別荘(ワッセナー)もある。