エベレスト(Everest、チベット名:Chomolungma or Qomolangma、ネパール名:Sagarmatha)は、ヒマラヤ山脈にある山。世界最高峰。英名エベレストはインド測量局の長官を勤めたジョージ・エベレスト(George Everest)にちなむ。1920年代からの長きにわたる苦闘の末、1953年にイギリス隊のエドモンド・ヒラリーとシェルパのテンジン・ノルゲイによって初登頂がなされた。
エヴェレストの標高については諸説あり、1954年にインド測量局が周辺12ヶ所で測定しその結果を平均して得られた8,848mという数値が長年一般に認められてきた。1975年には中国政府が雪面を含む標高を8,849.05m(8,848.13m+積雪0.92 m)と測定した。1999年、全米地理学協会はGPSによる測定値が8,850mだったと発表した。2005年10月9日、中国国家測量局が2005年5月時点での標高は8,844.43m(3.5mの氷雪は標高に含まず)と発表した。ただし、ネパール政府は現在もこれらの測定結果を認定せず、公式には8,848mとしている。地殻変動、地球温暖化による影響などもあり、標高は年々変動していると考えられる。
エベレストの南麓に位置するネパールのサガルマータ国立公園はユネスコの世界遺産に登録されている。しかし、度重なる登山の遺留物、廃棄物で周囲はかなり汚れていることが指摘されており、野口健らによる清掃登山も行われている。
古代この高峰はサンスクリット語でデヴギリDevgiri(神聖な山という意味)またはデヴァドゥルガDevadurga(19世紀の英語圏での発音はデオドゥンガdeodhunga)と呼ばれていた。また現在、ネパールでの名称はサガルマタ、チベットでの名称はチョモランマである。中国では珠穆朗瑪峰(Zhūmùlǎngmǎ Fēng)または聖母峰(Shèngmǔ Fēng)と呼ばれている。中国語での漢字表記には、他にMount Everestを訳したものとして、香港で用いられる額非爾士峰(Éfēiěrshì Fēng)や台湾で用いられる艾佛勒斯峰(Àifólèsī Fēng)などがあるが、サガルマタの漢字表記は通常用いられない。
1865年、英国インド測量局長官だったアンドリュー・ウォー(Andrew Waugh)によって、前長官ジョージ・エベレストにちなんだ英語名がつけられた。ウォーは地元民の呼び名がわからないとした上で、手記に以下のように記している。(当時、ネパールもチベットも外国人の立ち入りを認めていなかった。)
「尊敬する前長官のサー・ジョージ・エベレスト大佐(Colonel Sir George Everest)は、全ての地形に現地での呼称を採用するよう、私に教えてきた。しかしこの山には、おそらく世界最高峰であろうこの山には、現地での呼称を見いだすことができなかった。もし仮にそれがあったとしても、私たちがネパールへの立ち入りを許可される前に、それが見つかることはないだろう。今のところ、この高峰を名付ける特権と責任とは、同等に私に委譲されているものと思う。この山の存在が、市民と地理学者に広く知られ、文明国家に深く浸透するかは、この高峰の名称いかんにかかっているであろう。」
ウォーはこの山にジョージ・エベレストに因んだ名称をつけることにした。綴りは初めはMont Everest、後にMount Everestに変更されている。しかし、現在のエベレストの発音(IPA:Шаблон:IPA EV-er-est)と実際のジョージ・エベレストの発音(Шаблон:IPAEAVE-rest)は異なっている。エベレスト本人は地元名を尊重する方針から、この名前をよく思っていなかったといわれている。
1960年代、ネパール政府はエベレストには元々現地での呼び名が存在していたことを発見した。これまでこの存在が知られていなかったのは、エベレストがカトマンズ盆地とその周辺地域の民族に知られておらず名づけられていなかったからで、政府はエベレストの名称を探し出すことに着手した。しかし、シェルパ族の間での名称・チョモランマはネパール統一国家の考えに反するとして採用されなかった。現在のネパール名・サガルマタはネパールの著名な歴史学者、バブラム・アチャリャ(Baburam Acharya)によって考案されたものである。しかしその後もしばらくの間は、カトマンズから東方に高く見えるガウリ・シャンカルがサガルマタだと思っている人が多かった。
2002年、中国の人民日報は西洋でも英語名エベレストの使用をやめて、チベット名のチョモランマを採用するべきと主張する記事を掲載した。人民日報はチョモランマという中国名は280年以上前の地図にも記載されており、英語名よりも歴史が長いと主張している。
から望むエベレスト]] 1852年、インド測量局の技師でベンガル出身のインド人測量技師、ラダナス・シクダール(Radhanath Sikdar)が240kmはなれたインドから三角測量した結果、P-15 (Peak XV)という仮称で呼ばれていた山が世界最高峰であることを発見した。当時ネパールは「禁断の王国」であり、外国人は入ることはできなかったため、より近距離での測量は不可能だった。測量の結果によればP-15 (Peak XV)の標高は約8,839m(29,000ft)だったが、一般には8,840m(29,002ft)と発表された。この時加算された標高は0.6m(2ft)であり、これは29,000ftという切りの良い数字が端数を切り捨てた概算値だと解釈されることを防ぐための処置だった。
現在最新の標高は8,848mとされているが、他にもいくつかの異なる標高が測量結果として報告されている。2番目に高い山はK2で、標高8,611mである。2005年5月22日、中国のエベレスト測量隊はエベレストに登頂、数ヶ月に渡る測量の結果、同年10月9日にエベレストの標高は8,844.43m±0.21mと公式に発表した。彼らはこの数値がこれまでで最も正確な標高であるとしている。しかしこの標高は最も高い岩石の部分に基づくもので頂上部分の氷や雪は含んでおらず、モンブランやテンリタグといった他の高峰の標高の基準と異なっている。測量隊は雪と氷の厚みも測量しており、この結果は3.5mだったことから、8,848mという従来の測量結果に誤りはなかったことになる。しかし実際のところ雪と氷の厚みは変化するため、正確なGPSによる測量がなければ、厳密な標高を求めることは不可能とされている。
現在最もよく知られている8,848mという標高は、1955年のインドによる従来より近距離からの測量によって、初めて求められたものである。1975年の中国による測量でも同様の結果が得られた。どちらも頂上部分の氷雪の厚みを含んだものである。1999年5月、ブラッドフォード・ウォッシュバーン率いるアメリカエベレスト遠征隊は山頂にGPSユニットを設置、8,850mという測量結果を発表した。これによれば岩石部分の標高は8,850m、氷雪を含めると更に1m高いとされている。ネパール政府は正式にこの測量結果を認めていないが、この数値は広く用いられている。1999年と2005年の調査双方にジオイドの不確かさという問題が指摘されている。
エベレストの標高は周辺のプレートテクトニクスにより年々高くなっており、山頂も北東へと移動していると考えられている。現在2つの報告書が、エベレストは年4mmの速さで標高が高くなっており、また山頂は年3~6mmの速さで北東へ移動しているとしている。しかし、他の報告書の中には横方向への移動はもっと速く(年27mm)、標高は縮むことさえあるとしているものもある。またエベレスト山頂では風化が激しいので、地殻変動によって一時的に8,848mを超えてもその分は侵食されてしまうため、エベレストの標高はこれ以上高くならないという説もある。
エベレストは最も高い海抜高度をもつ山である。しかし、ハワイのマウナケアとエクアドルのチンボラソがエベレストに代わる「世界最高峰」とする主張もある。マウナケアの海面からの標高は4,205mだが、海底からの高さを考慮すればその標高は10,203mを超えることになる。また海抜高度6,267mのチンボラソ頂上はアンデス山脈の最高峰ですらないが、地球の形状は赤道に近づく程に膨れており、地球の中心からの高さは6,384.4kmになる。これは、エベレストの6,382.3kmよりも2,168m高い。また、最も深い海であるマリアナ海溝のチャレンジャー海淵はエベレストの標高よりも遥かに深い。もしエベレストをチャレンジャー海淵の深さに沈めたとすれば、山頂ですら2kmもの深度に沈むこととなる。エベレストが位置するヒマラヤ山脈でも地球温暖化の影響で氷雪が溶けるという現象が起こっている。
1893年、東アジアで軍人として活躍したフランシス・ヤングハズバンド(Francis Younghusband)とグルカ連隊の勇将チャールズ・グランヴィル・ブルース准将(Charles Granville Bruce)がエベレスト登頂について話し合ったのが具体的なエベレスト登頂計画の嚆矢であるといわれる。1907年には英国山岳会の創立五十周年記念行事としてエベレスト遠征隊の派遣が提案された。この時代、北極点到達(1909年)および南極点制覇(1911年)の競争で敗れていたイギリスは帝国の栄誉を「第三の極地」エベレストの征服にかけようとしていた。第一次大戦の勃発によって計画は先送りになるが、戦争の終結とともに英国山岳会と王立地理学協会がエベレスト委員会(Mount Everest Committee)を組織し、ヤングハズバンドが委員長となって、ここにエベレスト遠征が具体化し始めた。
1921年、エベレスト委員会によって第一次エベレスト遠征隊が組織される。隊長にはグルカ連隊で長年勤務し、地理に明るく、地元民の信頼も厚いチャールズ・グランヴィル・ブルース准将がふさわしいと思われたが、軍務のため断念し代わってチャールズ・ハワード=ベリ(Charles Howard-Bury)中佐が選ばれた。隊員としてカシミール地方に詳しく高度と人体の影響に関しての専門家であったアレキサンダー・ミッチェル・ケラス博士、ハロルド・レイバーン、そして気鋭の若手として有名なジョージ・マロリー(George Mallory)とジョージ・イングル・フィンチ(George Ingle Finch)が選ばれた。フィンチは後に健康状態を理由に交代させられ、代わってマロリーの推したガイ・ブロック(Guy Bullock)が選ばれた。この第一次遠征隊の目的はあくまで本格的な登頂のための準備偵察であったため、一行はエベレストのノース・コル(North Col、チャン・ラとも呼ばれる、標高7020m)にいたるルートを確認し、初めてエベレスト周辺の詳細な地図を作成した。
1922年には第二次遠征隊が送り込まれた。隊長にはかねてより宿願であったチャールズ・グランヴィル・ブルース准将がつき、エドワード・リーズル・ストラット(Edward Lisle Strutt)大佐を副隊長に迎え、前回参加できなかったジョージ・フィンチ、ハワード・サマヴィル(Howard Somervell) 博士や エドワード・ノートン(Edward Norton)、同地方の地理にも詳しい医師のトム・ロングスタッフ(Tom George Longstaff)、 同じく医師のアーサー・ウェイクフィールド(Arthur Wakefield)博士、ブルース准将の甥でやはりグルカ連隊所属のジェフリー・ブルース(Geoffrey Bruce)大尉と同僚のジョン・モリス(John Morris)大尉、さらに前回のメンバーであるマロリー、ヘンリー・モーズヘッド(Henry T. Morshead)、遠征隊の模様を映写機で撮影することになるジョン・ノエル(John Baptist Lucius Noel)大尉らが選ばれた。第二次遠征隊は三度の頂上アタックを行った。7620mの地点に設けられた第五キャンプから第一次アタックチームを率いたマロリーは、酸素ボンベなどは信頼性が低いと考えてこれを用いず、サマヴィルやノートンらと無酸素で北東稜の稜線に達した。薄い空気に苦しみながら、一同は8225mという当時の人類の最高到達高度の記録を打ちたてたが、天候が変化し、時間が遅くなっていたため、それ以上の登攀ができなかった。次にジョージ・フィンチとウェイクフィールド、ジェフリー・ブルースからなる第二次アタックチームは酸素ボンベをかついで5月27日に8321mの高さまで驚異的なスピードで到達することに成功した。ブルースの持っていた酸素器具の不調で第二次チームが戻ってくると、マロリーはフィンチ、サマヴィルと第三次アタックチームを編成して山頂を目指そうとした。しかし、マロリーらがシェルパとともにノース・コル目指して斜面を歩いているとき、雪崩が発生して七名のシェルパが命を落としたため、一行は失意のうちにベースキャンプに戻り遠征は終了した。
1924年の第三次遠征隊では1922年同様隊長はブルース将軍がつとめ、副隊長にはノートン大佐がえらばれた。隊員として経験者のジョージ・マロリー、ジェフリー・ブルース、ハワード・サマヴィルが選ばれ、さらにベントリー・ビーサム(Bentley Beetham)、E・シェビア(E.O. Shebbeare) 、地質学者でもあったノエル・オデール(Noel Odel)、マロリーと最期を共にしたアンドリュー・アーヴィン(Andrew Irvine)らが選ばれた。一行は2月28日にリヴァプールを出航、3月にダージリンへ到着し、3月の終わりにダージリンから陸路エベレストを目指したが、道中でマラリアのためブルース将軍が離脱、ノートンが隊長になった。4月28日、遠征隊はロンブクに到着してベースキャンプを設営し、そこから順にキャンプをあげていった。彼らは7000m付近に第四キャンプを設けて頂上アタックの拠点とし、そこから頂上までの間に二つのキャンプを設けることにした。マロリーはジェフリー・ブルースおよびノートン、サマヴィルらと山頂を目指したが失敗し、6月6日, 22歳の若いアンドリュー・アーヴィン一人を連れて第四キャンプを出発、再びノース・コル経由で山頂を目指した。二人はこのまま行方不明になり、第三次遠征隊は山を下りた。
第三次遠征隊が許可のないロンシャール谷に入っていたこと、彼らが帰国後に上映した記録映画の中で紹介されたチベット人の習俗が不正確であったことが当時のダライ・ラマを怒らせ、以後9年間エベレスト入山の許可が出なかった。
1933年、イギリス第四次遠征隊。隊長ヒュー・ラットレッジ(Hugh Ruttledge)、隊員にはフランク・スマイス(Frank Smythe)、ジャック・ロングランド(Jack Longland)、パーシー・ウィン・ハリス(Percy Wyn-Harris)、レイモンド・グリーン(Raymond Greene)、ローレンス・ウェイジャー(Lawrence Wager)、 エドワード・シェビア(Edward Shebbeare)、 トム・ブロックルバンク(Tom Brocklebank)、 1922年隊にも参加したコリン・クロフォード(Colin Crawford)らがおり、後に遠征隊の隊長をつとめる歴戦の登山家エリック・シプトン(Eric Shipton)もその中に含まれていた。この遠征では高度8570mが最高で登頂は出来なかったが、ウィン・ハリスが頂上近くでアーヴィンのものとされるアイス・アックスを発見したことで有名になる。同隊ははじめてエベレスト遠征にラジオを持参した。
1934年、イギリスの奇人モーリス・ウィルソン(Maurice Wilson)が飛行機を山腹に不時着させ単独登頂をするという計画を立てたが、不許可となる。登山経験のないウィルソンは「霊的な助け」によって頂上にたどりつけると信じ、二人のシェルパを雇ってノース・コルのふもとまであがったが行方不明になる。
1935年、イギリス第五次遠征隊。登頂目的でなく、エリック・シプトンをリーダーにモンスーン時の気候を調査する目的で派遣された小規模のグループだった。ノース・コルのふもとでテントに包まれたモーリス・ウィルソンの遺体と日記を発見。隊には1938年隊の隊長になるビル・ティルマン(Bill Tilman)がいた。また、ニュージーランド出身のダン・ブライアントをシプトンが気に入ったことが後にエドモンド・ヒラリーが遠征隊に参加する道を開くことになる。有名なテンジン・ノルゲイが若手シェルパとしてエベレスト行に初参加。
1936年、イギリス第六次遠征隊。1933年の失敗を批判されて以来、隊長就任を固辞していたラットレッジが適任者不在を理由で再び隊長に引っ張り出された。1924年隊のノエル・オデールも参加を打診されたが年齢を理由に辞退している。エリック・シプトン、フランク・スマイス、ウィン・ハリス、チャールズ・ウォレン、ピーター・オリヴァーらが参加。日程の当初は雪も少なく天候にも恵まれて成果が期待されたが、直後に例年よりも早いモンスーンが到来したため、隊はほとんど何も成果を得られず帰国し、「最低の遠征隊」と酷評されることになる。
1938年、イギリス第七次遠征隊。隊長ビル・ティルマン。再び小規模な遠征隊を組むことにし、隊員としてシプトン、スマイス、ウォレン、オリバーら経験者が選ばれた。古参のノエル・オデールも再び参加。天候の悪化のため登頂を断念し、遠征隊は帰還。
翌年以降は第二次世界大戦の影響で登山は行われず。
1949年、ネパールが鎖国を解き、初めてネパール側の登山が可能になる。逆にそれまで唯一のルートだったチベットは中国の支配下におかれたことで閉鎖される。チベットの開国は、戦前アジアに強い影響力を持ったイギリスが独占してきたエベレスト遠征に世界各国が参加できるようになったということを意味していた。
1951年、イギリスのマイケル・ウォード、トム・ボーディロン(Tom Bourdillon)、ビル・マーリがネパール側から入って山頂へのルート探索を行うことにし、エリック・シプトンを隊長として迎える。ネパール到着後、クムト・パルバット遠征を終えたニュージーランド隊から二名、アール・リディフォードとエドモンド・ヒラリーが参加。シプトンは1935年にメンバーだったニュージーランド人ダン・ブライアントに好印象を持っており、そのことがニュージーランド人の参加につながった。一行は難所アイスフォールを突破しウェスタン・クウムに至る現在でもよく使われる南東稜ルートを発見する。この遠征の帰途メンルン氷河の近くでシプトンは雪上に残る「巨大な足跡」を発見、後に未知の生物「イエティ」のものだと喧伝されることになる。
1952年、スイスがネパールから1952年の入山許可を得、イギリスは1953年の入山許可しか得られなかった。動揺したイギリスは合同遠征隊を提案するが拒否される。スイス隊はエドゥアール・ウィス・デュナンを隊長とし、アルプスで鳴らした屈指の登山家たちレイモン・ランベール(Raymond Lambert)、アンドレ・ロッシュ、ルネ・ディテール、エルンスト・ホッフシュテッターらを擁してエベレストに挑んだ。同隊はシェルパとしてテンジン・ノルゲイを指名して参加を要請、テンジンはこれが4度目のエベレスト登攀になった。一行はアイス・フォールを超え、巨大なクレパスに道をさえぎられたが、ジャン・ジャック・アスパーがザイルをつかってクレバスの反対側に渡ることに成功し、そこに橋をかけてウェスタン・クウムへの道を開いた。最終的にランデールとテンジンがそれまでの最高高度8611mに達し、頂上は目前だったが天候に恵まれず撤退。この年、ソ連が秘密裏に遠征隊を送り込んで壊滅したといううわさが西側メディアで流れたが、詳細は明らかにならず。
1953年、酸素装備の改良、登攀技術の研鑽などによって満を持したイギリス隊が送り込まれる。この機会を逃せば次の派遣は数年後になっており、翌年以降各国が続々と隊を送り込む予定だったため、イギリスは強い意気込みで1953年隊を送り出した。隊長はベテランのシプトンにいったん決まったものの、第60ライフル連隊のジョン・ハント(John Hunt)大佐が推挙されてもめにもめた。その後、突如シプトンが隊長という決定がくつがえされ、ハントが隊長に代わった。この時のトラブルに心を痛めたシプトンは登山界の表舞台を去ることになる。遠征隊は順調にキャンプを前進させていき、二つの頂上アタックチームを送り出した。まず最初のチャールズ・エバンスとトム・ボーディロンのチームが5月26日にアタック、南峰を制したが酸素不足で撤退した。
後に続いたエドモンド・ヒラリーとシェルパのテンジン・ノルゲイの第二チームが5月29日午前11時30分に世界で初めての登頂に成功、エリザベス2世の戴冠と時期を同じくする偉業にイギリスは沸き、マロリー以来の宿願を果たした。
1960年5月25日、史占春率いる中国隊がセカンドステップを超えて北東側からの初登頂に成功。同隊が夜間登頂したため、頂上での写真をとっていなかったことなどから、この登頂は長く西側諸国から疑いの目で見られていたが、現在では認められている。(下記リスト参照)
1963年5月22日、アメリカ隊が登頂に成功。初縦走も成し遂げる。
1965年5月20日、21名からなるインド隊(M・コーリ隊長)が登頂に成功、シェルパのナワン・ゴンブは史上初めて二度エベレストの頂上にたった人物となる。(一度目は1963年のアメリカ隊と。)
ネパール政府によって外国人による登山が1969年まで全面禁止となる。
1970年5月11日、松浦輝男、植村直巳が日本人として初めて登頂に成功。
1999年5月1日、アメリカのマロリー&アーヴィン捜索隊が標高8,160m付近でマロリーの遺体を発見する。マロリー達が持参していたコダック社のカメラが発見されたならばエベレスト登山史上最大の謎が解けることになるが、未だ発見に至っていない。しかし、登頂に成功した暁に置いてくるつもりだった彼の妻の写真が遺留品に無かった事から、ジョージ・マロリーが登頂に成功していたのではないかという説を唱える人も多い。なお、マロリー&アーヴィン捜索隊は2001年にも捜索活動を行い、前回発見できなかったアーヴィンの遺体とカメラを捜索したが、この時の捜索では何も発見できなかった。
エベレストに登頂するにはネパール政府に登山料を支払わないと登れないシステムになっている。ルートは15種類あり、そのうちの最も安い「ノーマルルート」は1人25,000米ドル(日本円で約260万円)である。ただし「ノーマルルート」は人数が多くなると割引があり、最大の7人参加の場合70,000米ドル、1人あたり10,000米ドルとなる。登山料は一度払うと2年間は登る権利があるが、キャンセルした場合でも一切返還されない。
登山ルートには、随所に遭難者の遺体が凍結放置されている。また、遭難死の7割は下山時に発生している。死亡率は5%前後とされている。