聖デイヴィッド大聖堂(せいデイヴィッドだいせいどう、英語: St David's Cathedral、ウェールズ語: Eglwys Gadeiriol Tyddewi)は、ウェールズの最西端のカウンティ、ペンブルックシャーのセント・デイヴィッズにあるウェールズ聖公会の聖堂である。
589年に死去したメネヴィア () の修道院長の聖デイヴィッドにより、修道院が創設された。645年から1097年にかけて、その一帯はヴァイキングらの侵略者に何度も攻撃されたが、アルフレッド王がウェセックス王国の知的生活の再構築にセント・デイヴィッズの修道院からの援助を要請したように、その地は宗教的かつ知的な中心地として注目されていた。999年の主教 Moregenau や1080年の主教アブラハム (Abraham) をなど、聖職者の多くが侵略者や略奪者により殺害された。「アブラハム・ストーン」として知られるアブラハムの墓に捧げた石は、初期ケルトのシンボルが複雑に刻まれ、現在は の大聖堂の展示のなかに常設展示されている。
1081年、征服王ウィリアムは祈念のためにセント・デイヴィッズを訪れ、そこが神聖かつ敬虔な場所と認めた。1089年、デイヴィッドの祠堂が破壊され、その貴金属が剥奪された。1090年には、ウェールズの学者フリギファルクが『デイヴィッドの生涯』 (“The Life of David”) をラテン語で記し、デイヴィッドの神聖さを際立たせたことで、彼は初期のほとんどカルト的な地位を獲得した。
1115年、ノルマン朝の支配する地域において、イングランド王ヘンリー1世は、セント・デイヴィッズ主教としてノルマン人主教ベルナルド(Bernard、1115-1147年)を任命した。彼は始めに修道院内の活動を改善し、そして新しい大聖堂の建設に着手した。1123年、教皇カリストゥス2世は、セント・デイヴィッズに教皇の特権を授け、教皇は、そこを西洋の巡礼の中心として、「セント・デイヴィッズの2度の巡礼はローマへの1度の巡礼と等しく、3度の巡礼はエルサレムへの1度と同等である」と布告した。新しい大聖堂は直ちに建設され、それは1131年に主教ベルナルドにより奉献された。
1171年のイングランド王ヘンリー2世の訪問において、デイヴィッドの崇拝者は増加し、より大きな大聖堂の必要性が見られた。現在の大聖堂は1181年に着工され、間もなく完成した。その初期の段階に新しい建造物およびその一帯を襲った問題としては、1220年の新しい塔の崩壊や、1247-1248年の地震による被害がある。
主教ヘンリー・ガウアー(1328-1347年)のもとで大聖堂はさらに改装され、内陣障壁や主教宮殿(セント・デイヴィッズ主教宮殿)が彼の監督制の不変的記念物として計画された(宮殿は今日多くが崩壊している)。
1365年、主教アダム・ホートンとそれにジョン・オブ・ゴーントは、セント・メアリーズ・カレッジ (St Mary's College) と礼拝堂 () の構築に着手した。彼は後に大聖堂にそれを接続する回廊を追加した。
主教エドワード・ヴォーン(、1509-1522年)のときには、扇形ヴォールトを用いた聖三位一体礼拝堂 (Holy Trinity chapel) の建造が見られた。また、この時代には屋上およびフユナラ ('Irish oak', Quercus petraea) の天井が1530-1540年にかけて構築され、身廊の大きな進展が見られる。主教ウィリアム・バーロウ () は、前任の主教とは異なり、デイヴィッドに追随することの抑制を考え、聖デイヴィッドの祠堂から宝飾を剥奪し、1538年には「迷信」を打ち消すために、聖デイヴィッドおよび聖ユスティニアンの遺物を差し押さえた。1540年、リッチモンドの伯爵でヘンリー7世の父であるエドモンド・チューダーの遺体が、カーマーゼンの解散したグレイフライアー小修道院 (Greyfriars' Priory) から祭壇前に埋葬された。
オリバー・クロムウェルのもとでの君主制の解体とイングランド共和国の設立は、多くの大聖堂や教会、特にセント・デイヴィッズにも大きな影響をもたらした。大聖堂はほとんどクロムウェルの部隊により破壊され、主教の宮殿の屋根からは鉛が剥ぎ取られた。
ウェールズの建築家ジョン・ナッシュは1793年、西側正面を復元し、200年前の破損を修復するよう依頼された。その様式は多岐にわたり(ゴシックや垂直の特徴をもつ)、その後、西正面のはざま飾りに再利用するため、セント・メアリーズ・カレッジの礼拝堂の窓の一部を壊したことが明らかになるなど、彼の仕事はすぐに低水準であることが判明した。一世紀のうちにナッシュの西正面は崩れそうになり、1862年から1870年にかけて建物全体がジョージ・ギルバート・スコットにより修復された。1901年には聖母礼拝堂が一般の寄付により修復され、東の礼拝堂は1901年から1910年にかけてメイドストーン伯爵夫人の遺産によって修復された。
大聖堂は、ウェールズにあるすべての教会と同様、1923年の国教会制廃止の痛手を受けた。セント・デイヴィッズ教区は、新しくスウォンジー・ブレコン教区を構成するため、ブレコン大執事区 (Archdeaconry of ) を撤廃することでより小規模になった。また一方、この地の治める教区の広域を残して、セント・デイヴィッズは教区の中心地として衰退し始め、その中心からかけ離れていった。16世紀以来、主教の居住はカーマーゼンにあったが、現在、本部や中心は大聖堂から教区で最大の町に移っている。
1950年代に師カール・ウィットン=デイヴィス (Carl Witton-Davies) が大聖堂の主任司祭 () に任命された。30歳代で任命された彼の推進的な構想や行動力は、オックスフォード大執事 () の昇任を思わせるようないくつかの提言を示したものの束の間に終わった。しかし、教会に残る彼の任期によりその地位を退かなかった。大聖堂が再び活力をもち始めると、セント・デイヴィッズへの有名なウェールズ青年巡礼 (Cymry'r Groes) が教会の礼拝生活へと多くの者を導き、ウェールズの教会に良き聖職者を10年間提供した。
1960年代、大聖堂教区の利用および美術展や詩の朗読会の場として使用するための大聖堂の会館として、セント・メアリーズ・カレッジの修復が見られた。 それは1966年に大主教エドウィン・モリス () によって献呈され、その第1回記念行事は、バンゴール教区の主教代理を務めた有名な詩人 R・S・トーマスによる詩の朗読であった。
1980年代には大聖堂の歴史的公式行事が数多く行われた。1981年、ウェールズ公チャールズが大聖堂の奉献800周年の式典に出席した。また、1982年の洗足木曜日、女王エリザベス2世が大聖堂において王室洗足式の硬貨 () を分配した。これは、その式典が初めてイングランドの外で執り行なわれたものであった。1989-1990年には聖デイヴィッド没後1,400周年が、ウェールズ大主教でセント・デイヴィッズ教区の主教でもあったジョージ・ノークスの主催により行なわれた。その後、イギリス政府はセント・デイヴィッズに「シティ」の称号の復帰を決定し、1995年6月1日、女王エリザベス2世により正式に授けられた。
1994年、主任司祭に任命されたウィン・エヴァンスの前には多くの課題が累積していた。新しいオルガンがどうしても必要であり、そして西側正面は大規模な修復が求められた。その時期、大聖堂では鐘塔内にビジターセンターを設けてその将来性に投資することや、鐘を8口から10口に増やして鐘の音を大きくすること、また、大聖堂の回廊の「再建」ないし補完により、大聖堂聖歌隊や教区委員会の建物、教育室、教区用の部屋、それに初期の修道院を想起させるような食堂(リフェクトリー、)なども思案された。最初の事業は西側正面の修復であり、それには当初の採石場として再開されたケアバーディー湾 (Caerbwdi Bay) の石が使用された。ハリソン・アンド・ハリソンにより解体され、再製される時期に間に合うよう、1998年に完了した。オルガンは2000年中頃に完成し、同年10月15日に奉納された。
一連の鐘 () は、2口がロンドンのホワイトチャペル・ベル・ファウンドリーにより鋳造され、2001年2月、American Friends of St Davids Cathedral からの進物として寄贈された。10口の鐘の残る8口の鐘は、1928年にロンドンの Mears & Stainbank で鋳造されたものである。鐘は、大聖堂の中央塔には掛けられておらず、古来のゲートハウス(門塔)である Porth-y-Tŵr に続く13世紀の鐘楼 (Bell Tower) にある。
回廊を教育センターや食堂(リフェクトリー)として再構築する大作業は2003年に始まり、2007年5月に完成した。2009年、ウィン・エヴァンスが主任司祭から主教へと移り、追ってジョナサン・リーンが主任司祭に任命された。
2012年、聖デイヴィッドの日である3月1日に、復元された聖デイヴィッドの祠堂の除幕式および再奉納が主教ウィン・エヴァンスにより行われ、5日間の祝祭が開催された。
各週7日のうち5日ある賛美礼拝とともに、毎日少なくとも3度の礼拝に説教もしくは詠唱がある。セント・デイヴィッズにおける大聖堂の聖歌隊は、少年や男性ではなく少女と男性を主聖歌隊に起用したイギリス連合王国で初の大聖堂聖歌隊であった。多くはこれをソールズベリー大聖堂に起因すると不正確に捉えられるが、それが少年少女を同様に採用するのに対して、セント・デイヴィッズでは少女が大聖堂の聖歌隊員の「主体」になっている。少年の聖歌隊もあり、毎週の夕べの歌は、大聖堂の週のうちの主要な行事である。
聖デイヴィッド大聖堂祭が毎年、聖霊降臨祭 () の学校の休暇を通して開催され、いくつかの世界最高水準の演奏を披露している。その週にはプロフェッショナルおよび若々しい演奏者が、何千人もの人の前に出演する。大聖堂聖歌隊は、最終の夜に演奏される一流の合唱やオーケストラの祭典と同様に、毎年ハイライトの1つとして非常に人気の高い演奏会を行っている。
13世紀のジェラルド・オブ・ウェールズ (Giraldus Cambrensis) は、セント・デイヴィッズのアラン (Alun) の渓流を越えて教会から続く、ある大理石の歩道橋の不思議な話を伝えている。その大理石は "Llechllafar"(「話す石」)と呼ばれ、それはかつて死体が埋葬のためにその橋を渡って墓地に運ばれるときに話をしたことによる。話に力を尽くした結果、長さ10フィート、幅6フィート、厚さ1フィートの大きさであったにもかかわらず壊れてしまった。この橋は、その歳月とそこを渡り歩く幾多の人により平たく摩耗していたが、その迷信は非常に深く、もうその上を越えて死体が運ばれることはなかった。この古い橋は16世紀に架け替えられ、現在の所在は知られていない。
もう1つの伝説は、マーリンが、赤い手の男により負傷したイングランド王でアイルランド征服者の Llechllafar 上での死を予言したというものである。王ヘンリー2世は、アイルランドから立ち寄ったセント・デイヴィッズへの巡礼の際、その予言を聞くと、何ら悪い影響もなく Llechllafar を渡った。王は、マーリンが嘘つきであったと豪語したが、近くにいた者は、王はアイルランドを征服することはなく、従って予言の王ではなかったと答えた。これは本当のこととなり、ヘンリーは決してアイルランド全体を征服することはなかった。