アイガー (Eiger) は、ベルニーズアルプスの一峰でスイスを代表する山。ユングフラウ、メンヒと並び、いわゆるオーバーランド三山の一つ。標高、3,975 m。アイガー北壁は、高さ1800mの岩壁で、グランドジョラスのウォーカー側稜(ウォーカーバットレス・北壁)、マッターホルン北壁とともに困難な三大ルートの一つとして知られ、三大北壁と呼ばれている。1935年~1958年までに25回の登頂が試され、死者は15名に及んだものの、13回67名が登頂に成功している。
アイガーの登頂歴
1858年、チャールズ・バリントンが初めて登頂し、1871年南西稜が、1876年南尾根が登られ、唯一つ北東山稜だけが残った。この北東山稜は1921年夏、日本の槇有恒の隊によって初めて登られた。
その成功はアルプス登山史上に一期を画しただけでなく、日本の登山に大きな影響を与えたという点でも高く評価できる。
アイガー北壁の登頂歴
- 1935年8月21日
マックス・ゼドゥルマイヤーとカール・メーリンガーが史上初のアイガー北壁挑戦を試みるも、第2雪田と第3雪田の間で遺体で発見される。それ以降、この場所は「死のビバーク」と呼ばれるようになった。
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1936年、ドイツのアンドレアス・ヒンターシュトイサーとトニー・クルツ、オーストリアのエディー・ライナーとヴィリー・アンゲラーが挑み、死のビバークの先の難しいトラバース(ヒンターシュトイサー・トラバース)に成功、しかしザイルを回収してしまったことが仇となって悪天候とアンゲラーの負傷の際に退却できず、何とか脱出を試みるもクルツを除く3人が墜落などで相次いで死亡、クルツも救助隊の元にザイルで下りる際にカラビナにザイルの結び目が引っかかるという悪夢にみまわれ、体力を消耗していたために結び目を外すことが出来ずザイルにぶら下がったまま、「もうダメだ」の一言を残してわずか数m上で力尽きた。
- 1938年7月24日 アンデレル・ヘックマイヤー、ルートヴィヒ・フェルク(ドイツ人隊) ハインリッヒ・ハラー
、フリッツ・カスパレク(オーストリア人隊)がアイガー北壁初登頂。両隊は登頂開始時は別々のパーティだったが、後から登頂に挑んだドイツ人隊がオーストリア隊に追いついた時点で同一パーティを組み、初登頂に成功した。
- 1963年 芳野満彦らが日本で初めてアイガー北壁に挑む
- 1965年8月16日 高田光政が日本人初登頂
登頂まであと300mと言うところでパートナーの渡部恒明が墜落・負傷したため救助を求める際に山頂を経由した際に達成、しかし渡部はその間に謎の墜死を遂げた。一説には骨折の痛みと孤独に耐えきれずに自らザイルを解いたとも言われている。これをもとに新田次郎は「アイガー北壁」という小説を書いている。
- 1969年8月15日 加藤滝男・今井通子・加藤保男・根岸知・天野博文・久保進(夏期世界初直登)
冬期直登ルートが夏場通れないため、「赤い壁」を経由、現在でも最短直登ルートとして名が残っている。加藤滝男が山頂直下でザイル無しで墜落したが運良く固定ザイルに引っかかって九死に一生を得た。
- 1970年1月27日 森田勝・岡部勝・羽鳥祐治・小宮山哲夫(アイガー北壁冬季日本人初登頂)
- 1977年3月9日 長谷川恒男 (アイガー北壁冬季単独初登頂)
アイガーを舞台とした小説・映画
- 北壁の死闘(ボブ・ラングレー) -
主人公は前項のヒンターシュトイサー達が遭難した登山行に参加する予定であったが、恐怖心から直前になって参加を諦めた(代わりにアンゲラー達が参加したことになっている)経歴の持ち主である、という設定。主人公の回想シーンで遭難事故の状況が史実に沿った形で語られている。救助隊の目前で凍死したクルツの悲劇的な最期が詳述されている。
- アイガー・サンクション(トレヴェニアン)
- アイガー北壁(新田次郎)
関連項目