イースター島(英:Easter Island)はチリ領の太平洋上に位置する火山島。現地語名はラパ・ヌイ(ラパ・ヌイ語:Rapa Nui)。正式名はパスクア島(スペイン語:Isla de Pascua)で、"Pascua"は復活祭(イースター)を意味する。日本では英称で呼ばれることが多い。
モアイの建つ島として有名。ポリネシア・トライアングルの東端に当たる。周囲には殆ど島らしい島が存在しない絶海の孤島である。「ラパ・ヌイ」とはポリネシア系の先住民の言葉で「広い大地」という意味。
4世紀頃から、同じポリネシアのマルケサス諸島から渡ってきた人が、イースター島に暮らすようになったといわれている(年代については3世紀から9世紀まで諸説あり、はっきりしていない)。化石や花粉の研究から、当時のラパ・ヌイは、世界でも有数の巨大椰子が生い茂る、亜熱帯性雨林の島であったと考えられている。初期のヨーロッパ人来航者は、「ホトゥ・マトゥア」という首長が2艘の大きなカヌーでラパ・ヌイに入植したという伝説を採取している。
10世紀頃から、モアイの製作が始まる。当時彼らの作ったモアイや墳墓、石碑など考古学上極めて重要な遺跡が数多く残されている。人口も増加し、最盛期では1万5千人を超えていたと見られる(人口についても6千人から3万人まで諸説あり)。
その後、モアイ製作やカヌー製造、農耕の拡大などで伐採が進み、島全体から森林が消えてしまう。その結果、表土が流出し、農地は荒れ果て、また木材が不足してカヌーの生産にも支障が出たことから大規模な飢餓が発生。そのためもあり、16世紀から17世紀にかけて部族間の紛争が起こり、モアイの破壊合戦が起こる(一説ではあるが、耳長族がモアイの製作を行っていた耳短族に無理な要求を行い、それに反発した耳短族との間で、 モアイ倒し戦争が勃発したと伝承されている)。この時代、人口は激減し、伝承によれば人肉食さえ横行していたとされる。
1722年、オランダ海軍提督、ヤコブ・ロッゲフェーンが発見。発見した日がイースターであったため「イースター島」と名前が付いたといわれている。1774年には、イギリス人探検家のジェームス・クックも上陸している。クックの上陸当時は、島のモアイの半数ほどがまだ直立していたという。なお、伝承では1840年に最後のモアイが倒されたとされる。
18世紀から19世紀にかけて、ペルー政府の依頼を受けたアイルランド人ジョセフ・バーンやタヒチのフランス人の手によって、住民らが奴隷として連れ出されたり、外部から持ち込まれた天然痘が猛威を振るったりした結果、島の人口はさらに激減し、先住民は絶滅寸前まで追い込まれた。1872年当時の島民数は、僅か111人であった。1888年にチリ領になり現在に至る。
位置は、チリの首都であるサンティアゴから西へ3,700km、タヒチから東へ4,000kmの太平洋上に位置する。
島の周辺海域はペルー海流が渦巻き、近海は海産資源豊富な漁場(とくにカタクチイワシ)になっている。
島の全周は60kmほどで、面積は180平方kmである(北海道利尻島とほぼ同じ)。小さな火山島。島全体が、ラパ・ヌイ国立公園としてチリ政府により国立公園に登録されている。また1995年に世界遺産に登録されている。
絶海の孤島であり、最も近い島(サラ・イ・ゴメス島)でも東北東に415kmも離れている。
なお、ギネスブックに記載されている「人が住んでいる世界一孤立している島(the most isolated inhabited island in the world)」はトリスタン・ダ・クーニャ島(Tristan da Cunha)である。
島内には鉄道が敷設されていないため、乗り合いバスもしくはタクシーが主な公共交通手段として島民や観光客に利用されている。なお、観光客にはレンタカーやレンタルバイクも利用されることが多い。絶海の孤島というそのイメージから徒歩でも観光できるように思われることもあるが、人間の感覚からすれば充分に大きな島であり、不可能とは言わないまでも徒歩で観光するには相当の体力を要する。
ラン・チリ航空が、マタベリ国際空港とサンティアゴとの間に週3便の定期便を運航しているほか、タヒチのパペーテとの間にも週3便の定期便が運航されている。近隣諸島との間には貨客船も運航されている。
なおマタベリ国際空港の滑走路は島の規模には不釣合いな3300mの長大なものである。これはかつてNASAがスペースシャトルをヴァンデンバーグ空軍基地から打ち上げる計画を持っていたため、その際の緊急着陸地(TAL sites)のひとつとして整備されたものである。チャレンジャー号爆発事故によってこの計画も中止されたため、現在は緊急着陸地のリストから外れている。
住民はポリネシアで唯一文字を持っていた。ラパヌイ文字(ロンゴロンゴ文字)と呼ばれる絵文字がこれに当たる。この絵文字は古代文字によく見られる牛耕式と呼ばれる方法で書かれ、1行目を読み終えると逆さにして2行目を読むというように、偶数行の絵文字が逆さになっている。板や石に書かれ、かつては木材に刻まれたものが多数存在したようである。宣教師らが「悪魔の文字」であるとして破壊したという俗説があるが、実際は過度の伐採により木材が常に不足している島の住民たちによって、薪や釣り糸のリールとなり、多数の文字資料が失われたのだという。そのため、現在はわずか26点しか存在しない。また、現在のラパ・ヌイ人は、フランス人の奴隷狩りによりタヒチに連れ去られ、戻ってきた人々の子孫であり、現行のラパ・ヌイ語はタヒチ語の影響を強く受けた言語である。古代ラパ・ヌイ語についてはヨーロッパ人による貧弱な記録をたどる他は、現行のラパ・ヌイ語から復元する以外、知る手立ては存在しない。したがって、解読は難しいとされている。
ラパヌイ文字はインダス文字との外見上の類似を指摘されている。ただ、現存する資料は全て西洋人との接触後に書かれたものとみられており、ラパ・ヌイの先住民が最初に外国から来た船で西洋人と接した時、文字の存在を知り、その有効性を学び、そこから自らの文字を真似て作り上げたとする説も極めて有力である。そのため、ラパヌイ文字をポリネシアの古来からの書記言語と断定することはできない。よって、インダス文字との関わりについては、学術的には、あくまでも一つの可能性という範囲に留まっている。
閉鎖された空間に存在した文明が、資源争奪戦の結果、戦争により滅亡した歴史は、現代文明の未来への警鐘として言及されることが多い。