ヤシュチラン(Yaxchilan)は、ウスマシンタ川上流域にある古典期マヤ文明の都市遺跡。特に、王の姿や碑文が刻まれた58個ものリンテル(まぐさ石)で名高い。
メキシコ合衆国チアパス州に属し、ウスマシンタ川を挟んで対岸はグアテマラ共和国ペテン県となる。サリナス川とパシオン川が合流しウスマシンタ川を形成する地点からおよそ90キロメートルほど下流に位置し、さらに40キロメートルほど下流には長年ライバル関係にあったピエドラス・ネグラスが存在した。川が大きく湾曲しオメガ状のカーブを形成し、カーブの内側の直径3.5キロメートルほどの区域に遺跡がある 。神殿が立ち並ぶ遺跡の中核部(グレートプラザ)は川に面した幅100メートルで長さ1キロメートルほどの狭い人工のテラス上に建設されており、残りの主要な建造物はテラスの裏にあるカルスト地形の丘の斜面や頂上に建っている。
現在一般的に用いられているヤシュチランという名称はオーストリア人探検家テオベルト・マーラーが命名したもので、マヤ語で「緑の石」を意味する。マーラー以前にこの遺跡を訪れたエドウィン・ロックストローやイギリス人探検家アルフレッド・モーズレーはMenchéまたはMenché Tinamit(メンチェー・ティナミット。Menchéはマヤ語で「若い森」、Tinamitはナワトル語で「都市」の意味。Menchéは現地に住んでいたラカンドン族の首長の名であった。)、フランス人探検家デジレ・シャルネーはLa Ville Lorillard(「ロリヤールの都市」の意味。後援者であったタバコ商人ピエール・ロリヤール4世の名をつけた。)と、それぞれ異なった名称をつけている。また、紋章文字の解読から古代のヤシュチランは、Pa'chan(パ・チャン、割れた空)と呼ばれていたことが判明している。
碑文に残る記録によると、359年に即位した「ヨアート・バラム1世」によって都市が創設されたとされる。6世紀前半の10代目の王「結び目ジャガー2世」や11代目の王「キニチ・タトゥブ・頭蓋骨2世」の時代には、ピエドラス・ネグラスやボナンパクとの戦争に勝利し、中部低地の二大国であったティカルとカラクムルからも高位の貴族を捕虜にしている。
やがて、681年に即位する偉大な王「イツァムナーフ・バラム2世」の60年に及ぶ治世によって華々しい建築活動が行われるが、それまでの150年ほどについては後世に歴史の捏造が行われていたり、碑文の保存状態が悪いこともあり、詳しいことは分かっていない。この歴史の空白期間の原因は、既に大都市に成長していたピエドラス・ネグラスに隷属していたとする説や、近隣の大都市であるパレンケやトニナーとの関係も指摘されている。7世紀末から8世紀にかけての「イツァムナーフ・バラム2世」とその息子の「鳥ジャガー4世」の時代がヤシュチランの最盛期であり、ラカンハやボナンパクといった都市を従え、高い飾り屋根が特徴的な神殿33号など現在目にすることができる建造物の多くを建設し、芸術性に優れた多くの作品を残した。
その後、建設・芸術活動は衰退していき、808年にピエドラス・ネグラスへの勝利を記したリンテル10号がつくられてほどなくして、人口が激減し、やがて都市は放棄された。
シルヴェイナス・G. モーリーによると、1696年に最後のマヤ人の王国タヤサルの征服に向かった軍隊がこの遺跡を発見している可能性がある。また、1831年にグアテマラの自由党政府の将校であったイギリス人冒険家フアン・ガリンドがウスマシンタ川-パシオン川流域を探検し、パレンケを踏査しており、1833年に発表された報告書にヤシュチランらしき遺跡について短い記述が残っている。
記録に残っている発見者は、グアテマラのカレジオ・ナショナル(国立大学)に講師として勤務していたエドウィン・ロックストローで、1881年にこの遺跡を訪れている。ロックストローから遺跡の情報を聞いたイギリス人貴族で探検家のアルフレッド・モーズレーが、翌1882年に記録のための巨大な湿板カメラを携えて訪れ、そのわずか2日後にタバコ商人ピエール・ロリヤール4世の支援を受けたフランス人探検家デジレ・シャルネーが遺跡に到着し、遺跡に滞在していたモーズレーと遭遇している。モーズレーは発見の功績をシャルネーに譲り、代わりにシャルネから模型作成用の紙型の技術を学んだ。1886年にモーズレーは助手を派遣し模型の型取りをさせ、グアテマラ政府の許可を得て数点のリンテルをロンドンに持ち去っており、それらは現在では大英博物館に収蔵されている。そのうちリンテル56号が誤ってベルリンへ送られ、第二次世界大戦の爆撃で破壊されてしまった。その後、シャルネーは1863年に"Cites et ruines americanes"を、1885年に"Les anciennes ville s du Nouveau monde"を発表。モーズレーは、フレデリック・デュ・ケイン・ゴッドマンとオズバート・サルヴィンが監修した『中央アメリカ生物誌』の一部として、1889年から1892年にかけて5巻からなる『考古学』を発表。その2巻目にキリグアやイシムチェーなどの遺跡とともにヤシュチラン(Menché)での成果も収められた。
1895年、1897年、1900年の三度にわたって、オーストリア人探検家テオベルト・マーラーがこの遺跡に訪れ、詳細な調査を行って南アクロポリスを含む多数の未発見の建造物や彫刻を発見、撮影。マーラーの成果は、1903年にハーヴァード大学ピーボディー博物館より、"Reserches in the Central Portion of the Usumasintla Valley"の一部として、素晴らしい写真とともに発表された。カーネギー研究所のシルヴェイナス・G. モーリーが1914年と1931年に調査に訪れ、写真と図版を含むその成果は1937年から1938年に『ペテン地域の碑文』に収められている。ペンシルベニア大学のリントン・サタースウェイト・ジュニアも1934年と翌1935年に訪れ、数点のリンテルを発見している。
1960年にタチアーナ・プロスクリアコフによってピエドラス・ネグラスの古典期後期の支配者たちの歴史が判明し、引き続いてプロスクリアコフは1963年と1964年に発表された論文でヤシュチランの古典期後期の王朝史を解明した。碑文解読と王朝史の解明はリンダ・シーリーやピーター・マシューズらによってその後も続けられ、現在では他都市との関係も含めて研究が進んでいる。1968年にイアン・グラハムらによってピーボディー博物館の"Corpus of Maya Hieroglyphic Inscriptions"(マヤ神聖文字碑文集成)プログラムが開始され、ヤシュチランの碑文は三冊に分けて出版された(Vol.3のPt.1-3)。
1973年にメキシコ国立人類学歴史学研究所(Instituto Nacional de Antroplogia e Historia、INAH)によってヤシュチランの発掘調査が始まり、1986年にメキシコの経済状況が悪化したために調査は一時中断した。1989年から3年間、日本の毎日放送と並河萬里研究所の協力によって、小アクロポリスの調査が行われた。1990年に日本墨修好百周年を記念した「マヤ文明展」が日本の6都市で開催され、小アクロポリスの出土品22点を含むヤシュチランの遺物を中心にマヤ文明を日本に紹介した。INAHによる調査結果は、研究所長を務めたロベルト・ガルシア・モールらによって多数発表されている。
かつては遺跡へのアクセスが困難であり、陸路の場合徒歩で4日間、水路の場合2日間の日程を要した。また、空路を使って軽飛行機で遺跡のテラスを滑走路に使用して着陸することもされていた。1990年代にグアテマラとの国境付近を通るハイウェイがメキシコ政府によって開通されたため、現在は遺跡の約10キロメートル上流にある集落フロンテラ・コロサルから観光客がボートで容易に訪れることができるようになっている。
遺跡一帯は考古学的な価値のみならず、多数の動植物が生息する生物学的な価値を持ち合わせ、1992年8月21日にメキシコ政府からMonumento Natural(天然記念物)の指定がなされている。保護区域2,621ヘクタールのうち、遺跡中心部のある北側の一部分のみがZona Arqueologica(遺跡区域)として一般に開放されている。また、メキシコ政府はヤシュチランを含む地域を、Région Lacan-Tún – Usumacinta(ラカントゥン=ウスマシンタ地域)として、ユネスコの暫定遺産リストに登録し、世界遺産登録を目指している。これはチアパス州の保護区域全体のうち45パーセントを占める広大なもので、生物圏保護区世界ネットワークにも登録されているモンテス・アスーレス生物圏保護区などの自然遺産や、ヤシュチランとボナンパクといった著名なマヤ文明の文化遺産も構成要素に含まれており、複合遺産に分類される。ウスマシンタ川を挟んで対岸のグアテマラ側一帯は、グアテマラ政府によってシエラ・デル・ラカンドン国立公園に指定されており、暫定遺産リストにも登録されている。