site_img_capt = モスクワのクレムリンと赤の広場|
クレムリン(露:Шаблон:Lang、Kreml'、正しくはクレムリ)とは、ロシア連邦の首都、モスクワ市の中心を流れるモスクワ川沿いにある旧ロシア帝国の宮殿。ソ連時代には、ソ連共産党の中枢が置かれたことから、ソ連共産党の別名としても用いられた。現在もロシア連邦の大統領府や大統領官邸が置かれている。正面には赤の広場がある。
ロシア語ではクレムリは「城塞」を意味する。中世ロシアにおいて、多くの都市は中心部にクレムリンを備えていた。モスクワの他、ノヴゴロド、ニジニ・ノヴゴロド、カザン、アストラハンにあるものが有名である。しかしながら、日本語内において単にクレムリンと言った場合は、モスクワにある宮殿を指すことが多い。モスクワのクレムリンはそれらのなかでも最も有名かつ壮大なものである。城壁の総延長2.25km。20の城門を備え、内部には様々な時代の様式による宮殿や大聖堂(寺院)が林立している。
モスクワのクレムリンの原型となる城塞は12世紀に築かれたと考えられている。クレムリンが築かれた場所はモスクワ川とネグリンナヤ川(現在は地下河川となっている)の合流点に面した天然の要害であった。1366年、第4代モスクワ大公ドミトリイ・ドンスコイにより、石造りの城塞として再建された。
15世紀後半、イヴァン3世(イヴァン大帝)の治世に、ロドルフォ・ディ・フィオラバンディやマルコ・ルフィーらイタリア人建築家により、進んだ築城術が導入され、ルネサンス風に全面改築がなされた。この時期には、代々のツァーリ(ロシア皇帝)が戴冠式を行うことで知られるウスペンスキー大聖堂(1479年再建)、ブラゴヴェッシェンスキー聖堂(1489年建立)、ツァーリの納骨堂のあるアルハンゲリスキー聖堂(1508年建立)の三大聖堂や、イヴァン大帝の鐘楼(1508年建立)が建立され、現在とほぼ同じ外観を持つに至った。
17世紀には城門にゴシック風の塔が加えられ、娯楽宮、モスクワ総司教館が新築された。ピョートル1世によって、1712年にサンクトペテルブルクに遷都されて以降、クレムリンの増改築は停滞した。
1812年、ナポレオン・ボナパルトのモスクワ占領により、クレムリンの一部が破壊されたが、その後修復された。さらに、コンスタンチン・アンドレエヴィチ・トーンらによって大クレムリン大宮殿(1849年建立)や武器宮殿(1851年建立)が新たに造られた。
1917年のロシア革命以降はソビエト政府の中心となった。なお、モスクワ放送では、宮殿で鳴らされる鐘の音を流していた。
モスクワのクレムリンは、南をモスクワ川、北東を赤の広場、北西をアレクサンドロフスキー公園によって囲まれたほぼ三角形の形をしている。総面積は約26ヘクタール。城壁に囲まれた構内には、大小新旧様々の宮殿(パラーダ)、聖堂建築、20の塔(バーシニャ)がある。
モスクワ川沿いの河岸段丘には、クレムリン大宮殿(ボリショイ・クレムリョフスキー・ドヴォレッツ)を中心に、グラノヴィータヤ宮殿、テレムノイ宮殿(チェレムノイ宮殿)が林立し、これに、クレムリン大会宮殿(ドヴォレッツ・スエズドフ)や聖堂群が周囲に立てられ一つの建築複合体を形成している。この敷地の東隣はタイニツキー庭園となっている。
グラノヴィータヤ宮殿(多稜宮)
1481年から1891年にかけて建造された宮殿。イタリア人建築家マルコ・ルッフォ(ロッフォ)とピエトロ・ソラーリによる。ファザードが白い多面体の石で覆われているため、グラノヴィータヤ(多面体、多稜の)の名称が着いた。高さ9メートル、広さ490平方メートルのアーチ構造のホールが内部にある。帝政ロシア時代には、イワン雷帝のカザン占領記念の祝典や、ピョートル大帝のポルタワの戦いの勝利祝典など、公式行事やレセプション会場に用いられた。
テレムノイ宮殿(チェレムノイ宮殿)
英米圏では「テレム(テーレム)宮殿」の名称で呼ばれる。「テレムノイ」(露:Шаблон:Lang)とは、古ルーシの言葉で「高級な住まい」を意味すると言われる。1635年から1636年にかけて造営された、16世紀に建設された2階建ての宮殿の上に3,4階を増築した。この望楼のような屋根裏部屋をテレムと称するとも言われる。この宮殿は、ロシア帝国の歴代皇帝(ツァーリ)の御所であった。五階建てで最上階は寄せ棟造りで、紅白の菱形模様の屋根が敷かれている。四階は控えの間と、玉座の間、寝室などがある。19世紀になってコンスタンチン・トーンにより下層が改装されファサードが変わった。
クレムリン大宮殿(大クレムリン宮殿)
1839年から1849年にかけて造営された宮殿。広義のクレムリン大宮殿は、この大宮殿に上述のグラノヴィータ宮、テレムノイ宮殿を合わせたものを指す。全長125メートル、奥行き63メートルの大建築で、外観三階建て、内部二階建てである。
設計・監督はコンスタンチン・アンドレーエヴィッチ・トーン(トン)である。トーンは、宮殿建設に当たり、当時の最新技術を導入することに意を用いた。例えば、宮殿の屋根を支えるのに使われたつなぎ梁は銑鉄製であった。このほか、金属製の天井構造や、セメントの導入、亜鉛製空洞柱、銑鉄製床プレート、吊天井構造、暖房設備などが導入された。また、規模と豪華さにおいて、同時期に造営されたヨーロッパ列強の宮廷建築と比較して、これを凌駕している。宮殿には、ウラル山脈から採掘された国産孔雀石、花崗岩などの諸石材が装飾においてアクセントを形成している。このほか、家具、装飾品、織物、シャンデリア、磁器や青銅器などの装飾品は、サンクトペテルブルクやモスクワの工房に特注された逸品である。
一階には、皇帝の私室、二階には、国家行事に使用された大ホールがある。大ホールは、いずれもロシア帝国の主要な勲章にちなんで、エカテリーナの間、ウラジーミルの間、ゲオルギーの間、アレクサンドロフの間、アンドレーエフの間がある。
宮殿南棟の一階は、皇帝一家の私室であり、食事の間、皇后の謁見の間、皇后の執務室、皇后の居間、寝室、皇帝の執務室、皇帝の謁見の間の7室が一直線上に並んでいる。各室の内装は個性に富み、例えば皇后の謁見の間はロココ様式、皇后の執務室はアンピール様式などと伝統と当時の流行が程よく折衷されている。
ゲオルギーの間は、帝政ロシア時代に最高の武勲を立てた軍人に授与される聖ゲオルギー勲章の叙勲式が行われた。クレムリン大宮殿の各ホール中、最も大きく、最も荘重である。全長61メートル、全幅20,5メートル、高さ最大17メートルの威容を誇る。天井には重さ1,3トンの金メッキされたシャンデリアが6基取り付けられている。床は、胡桃、マホガニー、桜、白樺、林檎、梨、白樺、黒檀などの異なる木材で構成される寄木造りとなっている。帝政時代、ソビエト時代、そして現在のロシア連邦を通じて国家的祝典に使用された。
ウラジーミルの間は、楕円形で、帝政時代には皇帝の謁見を待つ貴族のいわば溜の間であった。このほか、外国からの使節を謁見したり、条約調印の会場として使用された。1972年、ニクソン、ブレジネフ両首脳によるSALT1の調印式典でも会場となった。勲章授与式にも使用されている。
アレクサンドロフの間とアンドレーエフの間は1939年に壁を撤去し、一つのホールとなり、ソ連最高会議及びロシア・ソビエト連邦社会主義共和国最高会議の議場として使われた。
国立クレムリン宮殿(旧クレムリン大会宮殿)
クレムリン大宮殿の北側、トロイツカヤ塔から入城して右側に位置する。ソビエト時代の1959年から1961年にかけて建設された。ファザードは、ガラス張りで鉄筋コンクリートの直線的な社会主義モダニズム建築。6000人を収容可能な議事堂で、1961年10月17日に開催された第22回ソ連共産党大会をはじめとする党大会や国際会議場として使用された。建築計画と施工を担当した建築家・技術者グループに対して功績を称えレーニン賞が授与されている。ソ連崩壊後は、名称を国立クレムリン宮殿と改称された。1990年クレムリンが世界遺産に登録された際には、この宮殿のみ鉄筋コンクリートとガラス張りの近代性ゆえに世界遺産としての指定がなされなかった。ボリショイ劇場の第二ステージとしても使用される。
ロシア大統領官邸
帝政ロシア時代は、元老院。ソビエト時代には閣僚会議館。設計者の名前を取ってカザコフ館とも呼ばれる。赤の広場に面し、二等辺三角形の平面を持つ。赤の広場から、レーニン廟越しに見ると、カザコフ館のドームが見える。レーニン以来、歴代のソ連指導者の執務室が置かれた。
ロシア大統領府
ソビエト時代にはソ連最高会議幹部会館。ソ連時代の1932年から1934年にかけて建造された。大統領官邸などの周囲の建物と同じ黄色の外観で調和が取れている。
武器庫(武器宮殿、アルジェイナヤ・パラータ)
クレムリンの南西、アレクサンドロフスキー公園に隣接している。設計は、クレムリン大宮殿と同じくコンスタンチン・トーンの手による。武器庫とあるが、後に戦利品やロマノフ家の宝物を保管するようになり、1720年ピョートル大帝の勅令によって美術館となった。コレクションには、13世紀から18世紀の武具・武器、14世紀から19世紀の織物、宮廷衣装、ロマノフ家の馬車などがある。
アルセナール(旧兵器庫)
こちらは、クレムリンの北西、無名戦士の墓に隣接し、トロイツカヤ塔から入城して左側、クレムリン大会宮殿と向かい合っている。現在はクレムリン警備隊の兵舎として利用されている。
クレムリン大宮殿の東側には、ロシア正教会の伽藍が林立する広場があり、大聖堂広場(寺院広場、ソーボルナヤ・プロシチャージ)の名で呼ばれる。
この他、大聖堂広場やクレムリン大宮殿には、総主教宮殿、ヴェルホスパスキー聖堂(祭服教会)、テレムノイ宮殿付属教会、リゾポロジェーニエ教会、十二使徒教会、ラザーリ教会がある。
大聖堂広場の中心には、高さ81メートルのイワン大帝の鐘楼が屹立している。1505年から1508年にイタリア人建築家ポノフリアツィンによって建設され、1532年鐘楼が増築される。21個の鐘があり、その一つウスペンスキーの鐘は、総重量70トン。イワン雷帝の鐘楼の前には、全高6.1メートル、直径6.6メートル、重量200トンの鐘の皇帝(鐘の王様、ツァーリ・コロコル)が置かれている。さらに鐘楼の裏手、イワノフスカヤ広場に面して、大砲の皇帝(大砲の王様、ツァーリ・プーシュカ)が置いてある。この中世における世界最大のカノン砲は、1586年ロシアの兵器工アンドレイ・チョーホフによって鋳造された大砲である。砲身は全長5.3メートル、厚さ15センチ、口径89センチ、重量40トンの怪物級である。但し、この大砲は一度も発射されたことは無い。
クレムリンを囲繞する20の尖塔。1937年のロシア革命20周年を記念して、トロイツカヤ塔、ホロヴィツカヤ塔、ヴォドヴズヴォドナヤ塔、スパスカヤ塔、ニコリスカヤ塔の先端には、ウラル山脈から採掘されたルビーで作られた直径3メートルになる赤い星が輝く。
アレクサンドロフスキー庭園(露:Шаблон:Lang)は、クレムリンの北西部に沿ってある公立公園。設計はオシップ・ボーヴェ。無名兵士の墓がある。
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