サント・シャペル (Sainte chapelle)とは「聖なる礼拝堂」という意味で、フランスのパリ中心部、シテ島にあるゴシック建築の教会堂。
サント・シャペル (Sainte chapelle)とは「聖なる礼拝堂」という意味で、フランスのパリ中心部、シテ島にあるゴシック建築の教会堂。 おそらくゴシック建築が最も輝かしい時期の頂点ともいえる傑作である。
1241年に計画され、早くも1248年の4月26日には献堂された。後援者はルイ9世であった。 彼は非常に信心深く、サント・シャペルを王宮の礼拝堂として造営した。 宮殿自体は完全になくなってしまったが、サント・シャペルは宮殿跡の建物(Palais de Justice)に取り囲まれるように残った。この建物は現在最高裁判所として当時の宮殿の機能を一つだけ、すなわち高貴な貴族たちが自分たちの陳述を王の前に訴える場としての「法の寝椅子(lit de justice)」となっている。
サント・シャペルにはそれにふさわしい聖遺物、キリストのかぶった荊冠が納められた。 多くの貴族のように遺物を盗み出すことはせず、聖ルイはキリスト受難の貴重な聖遺物をコンスタンティノープルのラテン帝国皇帝ボルドワン2世から135,000リーブルの大金を支払って購入した。 これに対してサント・シャペル全体を建築するためにかけられた金額は40,000リーブルだった。 聖十字架のかけら等の聖遺物も加えられた。 このようにサント・シャペルの建物は、貴重な聖遺物入れとなった。
同時にサント・シャペルからは、単なるフランドル伯がコンスタンティノープルを占領して皇位を得たり神聖ローマ帝国の政治が乱れていたりする時代でもあり、西キリスト教世界の中心的君主となろうというルイの政治的・文化的野心も読み取れる。 コンスタンティノープルのアヤソフィアが皇帝の宮殿から個人的に行けたように、ルイも自分の宮殿からサント・シャペルに直接通り抜けられるようになっていた。 王のチャペルの真下には、宮殿のすべての居住者のために教区教会として使われた下の教会がある。
王は後にカトリック教会から列聖され、聖ルイ(サン・ルイ、セント・ルイスの由来)と呼ばれるようになった。
教会で視覚的に最も美しく、このタイプでは世界でもベストだと考えられているのが、サント・シャペルのステンドグラスである。その石細工は繊細な構成で、バラ窓は15世紀に上のチャペルに加えられた。
直接建設に携わった設計士や建築家の名は、ピエール・ド・モントルイユ以外は記録の中に出てこない。彼はサン=ドニ大聖堂のアプスを再建したり、パリのノートルダム大聖堂のファサードを完成させたりした人物である。ノートルダム大聖堂には、サント・シャペルとの連絡通路が造られたこともあった。
フランス革命期、サント・シャペルは行政の事務所として使われ、窓は巨大な整理棚で隠されていた。その美しさはほとんど忘れ去られていたため、たまたま破壊から免れたが、クワイヤの聖歌隊席や内陣障壁は破壊され、尖塔は引き下ろされ、遺物は散逸してしまった。19世紀になるとル・デュクがサント・シャペルを修復した。現在の繊細な尖塔は、ル・デュクの設計である。
サント・シャペルは1862年に国立歴史記念館となった。