サン・ピエトロ大聖堂(サンピエトロだいせいどう、イタリア語:Шаблон:Lang)はバチカン市国南東端にあるカトリック教会の総本山。サン・ピエトロは「聖ペトロ」の意で、キリスト教の使徒ペトロ(ペテロ)のイタリア語読みに由来する。サン・ピエトロ大寺院、聖ペテロ大聖堂、セント‐ピーター寺院などと表記されることもある。
カトリック教会の伝承によれば、サン・ピエトロ大聖堂はもともと使徒ペトロの墓所があったところに建立されたとされ、キリスト教の教会建築としては世界最大級の大きさを誇る。床面積2万3,000m²。北に隣接してローマ教皇の住むバチカン宮殿、バチカン美術館などがあり、国全体が『バチカン市国』としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。
サン・ピエトロ大聖堂は世界最大級の教会堂建築である。創建は4世紀。現在の聖堂は2代目にあたり、1626年に完成したものである。高さ約120m、最大幅約156m、長さ211.5m、総面積は49,737m²。教会堂の前部には長径200m、短径165mの広場(サン・ピエトロ広場)が存在する。北側にはバチカン宮殿、南に教皇謁見所と宝物館が隣接する。ルネサンス時代、バロック時代を通じ、ローマ教皇にふさわしい巨大教会堂として再建され、当時の第一級の芸術家たちがその造営に携わった。その巨大さ、荘厳さ、内部装飾の豪華さを含め、聖堂の中の聖堂と呼ぶにふさわしい威容を誇っている。
本来は、コンスタンティヌス1世により、聖ペテロのものとされる墓を参拝するための殉教者記念教会堂として建設されたものである。14世紀まで、ローマ司教(現在のローマ教皇)の司教座大聖堂は、コンスタンティヌスのバシリカ(現在のサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノ大聖堂)であった。アヴィニョン捕囚によってラテラーノ宮殿が荒廃したため、1377年にローマに戻った教皇によって、ローマ教皇の座所となる。最初の教会堂が大聖堂ではなく、聖ペテロの墓地の巡礼を目的として設計されたため、本来は東側に向けて構築されるはずのアプスは西に向けられ、東側には入り口が設けられている。
サン・ピエトロ大聖堂のイタリア語名称は、Basilica di San Pietro in Vaticano(ヴァティカーノ丘陵にある聖ペテロのバシリカ)であるが、この教会堂をバシリカと呼ぶのは、ローマ建築から初期キリスト教建築に連なる伝統的なバシリカだから、というわけではない。現在のカトリック教会は、重要な教会堂や大聖堂にバシリカの語を充てているが、本来は、ローマ教皇によって宗教的特権を与えられた七つの教会堂を示すもので、サン・ピエトロ大聖堂はそのひとつであることを意味する。実際に、現在の聖堂は伝統的なバシリカ式の教会堂建築ではない。特権を与えられた7つのバシリカは、サン・ピエトロ大聖堂のほか、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂、サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂、サン・パオロ・フオリ・レ・ムーラ大聖堂、サン・セバスティアーノ大聖堂、そしてサンタ・クローチェ・イン・ジェルザレンメ大聖堂で、かつては聖年に巡礼を行うと、贖宥されるとされた教会堂であった。
初代サン・ピエトロ大聖堂は、ローマ帝国の皇帝コンスタンティヌス1世の指示で建設されたバシリカ式教会堂である。アウレリアヌス城壁の外、ヴァティカヌス丘陵に2世紀になって整備された異教徒用墓地区域にある、聖ペテロの埋葬地を覆うように計画された。歴史学的には、ペテロがローマで殉教したとする確実な資料が存在していないので、建設地がほんとうにペテロの墓地だったかどうかについては古くから反論がある。ローマ教皇庁が1950年に行った声明に先立つ発掘では、大聖堂地下において墓碑と遺骨が発見されているが、これがペテロのものであるという確証はない。また、しばしばペテロ殉教の地とされることもあるが、15世紀には、ペテロが逆さ十字に架けられたのは「黄金のヤニクルム」、つまりジャニコロの丘のモントリオ(サン・ピエトロ・イン・モントリオ教会のある場所)であるとされ、現在は、そこにドナト・ブラマンテの設計したテンピエットが建設されている。
最初の大聖堂の形態は、313年頃に建設されたバシリカ・サルウァトロス、すなわち救世主大聖堂(現在のサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂)を原型とするもので、324年以前(恐らく319年から322年の間)に着工され、身廊は360年頃、アトリウムは390年頃、内部装飾は5世紀中期までには完成した。一列22本の列柱によって構成された5廊式バシリカは、アプスを含めた最大長さ119m、身廊長さ90m、幅64mに達する巨大なもので、当時すでにヨーロッパ最大の教会堂であった。ただし、この初代サン・ピエトロ大聖堂は主教座教会堂ではなく、アプス中央にあるペトロの墓所を聖地として多くの巡礼者を集めた殉教者記念教会堂、および巡礼教会堂であり、古代・中世の教皇の住まいは「首都と世界の本山にして首席教会堂」と称された救世主大聖堂に隣接するラテラノ宮殿であった。896年に、救世主大聖堂は聖ヨハネに献堂され、「首席教会堂」の尊称はサン・ピエトロ大聖堂に遷されることになった。
現在、この創建当時のサン・ピエトロ大聖堂は失われてしまったが、サン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂は、旧サン・ピエトロ大聖堂とファサードや平面がよく似ており、当時の教会堂を偲ぶのに適している。
最初のバシリカ式教会堂は、15世紀中頃には老朽化のため倒壊のおそれもあると指摘され、教皇ニコラウス5世は応急措置として修復工事を行った。
現在見られる大聖堂の建設は、1499年に教皇アレクサンデル6世がサン・ピエトロ大聖堂の改築を思い立ち、1505年の秋頃に教皇ユリウス2世によって改築の決定が行われたことによって始まる。建築設計競技によって ドナト・ブラマンテが主任建築家に任命され、1506年4月1日に起工式典、そして4月18日には基礎石の設置式典が行われている。ただし、これらの作業に伴う改築決定の勅令や、古い聖堂を壊す契約書といった公式書簡は全く残されていない。このためユリウス2世とブラマンテは、まだ使用に耐えうる旧聖堂破壊の公式な決定をあえて避けたとも考えられている。ただし、ユリウス2世は各地に宛てた書簡の端々で、旧バシリカが倒壊寸前であること、状況を打開するには思い切った行動が必要であることを説明している。
ブラマンテの計画案は、現在、フィレンツェのウフィッツィ美術館に納められているが、彼がこの大聖堂について決定した事項について知られているのはこの平面プランと、基礎石の下に埋め込まれ、「ペテロの神殿の再生」の文字と立面を刻印したカラドッソ作の記念メダルをおいてほかにない。オノフリウス・パンヴィニウスとセバスティアーノ・セルリオが、木造模型ですら未完だったと述べていることから、これ以上のことは、恐らく何も決まってはいなかったと推察されている。1506年の式典に際して、主ドームを支える柱の位置が決定されたが、当初のプランではドームを支えるには全く強度が足りなかったため、ブラマンテが存命中にも柱は増強され、のちにアントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ジョヴァネによって、さらにミケランジェロによって柱は太くされた。この事実によって推察されるのは、工事全体の規模が、当時の芸術家や職人の把握できる限界を越えていたということである。それでも、1510年1月16日にドームを支持する四つのアーチが完成し、1512年には内陣部分の構造が完成した。ブラマンテが死去する少し前の1513年12月1日には、 フラ・ジョコンドが補佐建築家に任命され、1514年1月にはジュリアーノ・ダ・サンガッロが、そして1514年4月1日からはラファエロ・サンティが補佐建築家に指名されている。
1514年にブラマンテが死ぬと、大聖堂の主任建築家はラファエロとなり、1516年11月22日に、足場や仮枠の担当建築家となっていたアントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ジョヴァネが助手として指名された。ラファエロによって、ブラマンテの集中式プランは長大な身廊をもったラテン十字プラン(バシリカ式)に変更されたことが知られている。ラファエロとアントニオ・ダ・サンガッロの対立によって、この工事はほとんど進展しなかったが、計画変更は人員を収容するためという実用的要求に対応するための必要な措置であり、ラファエロの死後(1520年4月6日以後)、アントニオ・ダ・サンガッロと、協力者となったバルダッサーレ・ペルッツィによって元の集中式に戻されるが、玄関を間延びさせたような妥協案を提示せざるを得なかった。途中ローマ略奪(1527年)による混乱もあって建設は中断し、オランダのマルテル・ファン・ヘームスケンクが1532年から1535年頃に画いたスケッチによると、主ドームを支える柱と、それに架けられた格間ヴォールト以外の主要構造部分はほとんど工事が進んでいないのがわかる。
ペルッツィが1536年に死去すると、アントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ジョヴァネによって、再びラテン十字を基本とするプランが決められ、1546年には、ラファエロ案に基づく新たなプランと模型が提示された。この模型は、ローマのヴァティカーノ美術館に所蔵されているが、ミケランジェロ・ブオナローティによって「牛の放牧場」と揶揄された。サンガッロは当時傑出した芸術家の一人であり、決して大聖堂の主任建築家としての技量が劣っていたというわけではない。このエピソードは、その計画の壮大さと、ひとりミケランジェロのみが、サン・ピエトロの規模に追従することができたということを物語っている。サンガッロの死後、大聖堂の主任建築家にはジュリオ・ロマーノが選出されたが、その数週間後にロマーノも死に、1547年1月には、自動的にミケランジェロが就任することになった。
ミケランジェロが主任建築家に任命されたとき、彼はすでにかなりの高齢(72歳)であったが、超人的な能力でこの計画を押し進め、根本的な解決案を作成した。彼はまず、ラテン十字のプランをブラマンテの計画した集中式プランに改編し、主ドームを支える柱の肉厚を増すとともに、サンガッロの行った工事を破壊してまで建物の輪郭を縮小した。こうして彼はドームの横加重を外壁に伝えるとともに、工事の規模自体を縮小してコストを切り詰め、造営工事の進捗を促したのである。造営工事は迅速に進められることになり、ミケランジェロの没年である1564年に、工事はドーム下部構造のドラムにまで到達した。以後の工事はジャコモ・バロッツィ・ダ・ヴィニョーラとピッロ・リゴーリオに引き継がれたが、ドーム部分はドメニコ・フォンターナとジャコモ・デッラ・ポルタが担当した。今日残っているミケランジェロのプランでは、ドームは完全な半球であったが、工事を引き継いだフォンターナとジャコモ・デッラ・ポルタは、静止力学的な解法から尖頭型ドームを採用した。これをミケランジェロが承認したか否かについては分かっていない。ともかく、ドームは1593年に完成した。
1605年にはパウルス5世によって、大聖堂の正面に残っていた旧聖堂の東側部分を全て取壊し、その跡に身廊とファサードを追加する工事が決定された。ミケランジェロが理想と考えた集中式のプランでは、機能上の理由から批判が噴出したためである。ミケランジェロのプランでは儀式を補佐する空間すら用意されておらず、また多数の信者を収容し、ミサを遂行するには伝統的なバジリカ式プランへの変更が必要であった。
1607年、是正措置に関しての設計競技が呼びかけられ、カルロ・マデルノが選出された。1608年6月15日に、マデルノによる新しい正面部分の工事が開始され、1612年に祝祷のロッジアにおいて教皇の祝福が行われた。身廊ヴォールト架構は1615年に完成し、最終的な献堂式は、ウルバヌス6世によって1626年に行われている。マデルノによる計画は、初期キリスト教建築に遡る伝統的なバシリカではなく、レオン・バッティスタ・アルベルティが設計したマントヴァのサンタンドレーア聖堂と同じ、両側に小礼拝室を備えた単廊式教会堂に近いものである。予定では、正面ファサードの両側には塔が建設されるはずであったが、これは下部構造(現在、ファサードの一部と化している)のみが建設されたところで停止した。
内陣の青銅製大天蓋(バルダッキーノ)は、ジャン・ロレンツォ・ベルニーニと、おそらく一部はフランチェスコ・ボッロミーニによって 1624年に着手され、1633年に完成した。バルダッキーノのねじれ柱は、旧サン・ピエトロ大聖堂のパーゴラに使われていた初期キリスト教時代の円柱を再現したもので、巨大な大聖堂の中心部に視線を集中させる効果を持つ。
ファサードの最終的なプロポーション、すなわち列柱廊を持つ楕円形広場もベルニーニの手によるものである。最初の計画案は、アレクサンデル7世の命により、1656年の夏に作成された。ベルニーニが考案した計画は、現在のルスティクッチ広場に向けて収束するような台形の広場であったが、これはすぐに却下されたため、彼は円形の広場を構築する方向で計画を練り直した。最終的にレッタ(台形)とオブリクァ(楕円形)の広場を建設する案が決定され、1657年3月17日、法王にその計画が提出された。ベルニーニ自身が、この広場を「信者を迎えるために、あたかも母が両腕を差し出しているかのように見せるコロネードを備えていなくてはならない」と評しているように、サン・ピエトロの広場は、広場としての境界は明瞭であるが、コロネードによって外部に対しても開かれている格好になっており、信者をゆるやかに抱擁するものになっている。また、マデルノによるファサードは、両側に鐘楼が建設されることを意図して、高さに対し幅の広い、やや鈍重な形状になっていたが、ベルニーニは、オブリクァ広場に接続するレッタ広場の開口部をファサードよりも狭くし、大聖堂側に向けてコロネードを低くすることによって、大聖堂の高さを強調するような視覚効果を与えた。4列のドリス式円柱と140体の聖人像で飾られたコロネードは、1667年に完成したが、ベルニーニの考えでは、玄関にあたる部分に第三のコロネードと、大聖堂のファサードから離れた位置の両側に鐘楼を建設する予定であった。しかし、これはアレクサンデル7世が1667年に他界したため頓挫し、計画のみに終わっている。
フォンターナとジャコモ・デッラ・ポルタは、鉄製のテンション・リングを埋め込んでドームを補強していたが、18世紀になると、このドームに亀裂が発見され、倒壊するのではないかとの噂がたった。この亀裂は専門家によって危険がないと判断されたが、1734年から1744年にかけて、ルイジ・ヴァンヴィテッリによってさらに5本の鉄製テンション・リングが埋め込まれている。
サン・ピエトロ大聖堂は、ルネサンスからバロックの時期にかけての巨匠たちが主任建築家を引き継いで建設したものである。また、単なる宗教施設という規模を超えて宗教芸術の宝庫にもなっている。その一方で、この大聖堂の建設費用を調達するためとして贖宥状(いわゆる免罪符)が発行され、ルターによる宗教改革の直接のきっかけになった。
外部