高知城(こうちじょう)は、土佐国土佐郡高知(現在の高知県高知市丸の内)にある城。
平山城であり、国の史跡に指定されている。戦国時代以前は大高坂山城と称した。
概要
城郭の形式は梯郭式平山城。高知平野のほぼ中心に位置し、鏡川と江の口川を外堀として利用している。現在見られる城は、江戸時代初期に、土佐藩初代藩主・山内一豊によって着工され、2代忠義の時代に完成した。4層5階の天守は、一豊の前任地であった掛川城の天守を模したと言われている。
明治6年(1873年)に発布された廃城令や、第二次大戦による空襲を逃れ、天守・御殿・追手門など15棟の建造物が現存し、国の重要文化財に指定されている。なお、昭和25年(1950年)の文化財保護法施行以前の旧、国宝保存法における「国宝」は文化財保護法における「重要文化財」と同等のものである。
また、この15棟の現存建造物に加えて、土佐山内家宝物資料館に丑寅櫓の一部であると伝わる部材が収蔵されている。
高知城全域は高知公園として開放されており、本丸御殿・天守は懐徳館という資料館として利用されている。高知城の周辺には、高知市役所、高知県庁、地方裁判所、地方検察庁などの行政機関や司法機関が立ち並び高知県の行政の中心地となっている(県庁舎のみ実質的には公園内にある)。また、城内には山内一豊、板垣退助の銅像がある。
大高坂城を「おおたかさ」と読むか「おおたかさか」と読むかで揉めている。なお、対になる小高坂は「こだかさ」と読む。
歴史・沿革
南北朝時代
- 南朝方に付いた豪族・大高坂松王丸が、この地(大高坂山)に城を構え、大高坂山城と称した。
- 延元3年(1338年):後醍醐天皇の第7子・満良親王を迎える。
- 興国2年(1341年):松王丸は北朝方の細川禅定、佐伯経定と戦い落城。廃城となる。
安土桃山時代
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長宗我部元親が、豊臣秀吉より土佐国一国を安堵され、秀吉に従軍して九州遠征の後、天正15年(1587年)にこの地に築城した。
- 天正19年(1591年):元親は、僅か3年で水はけの悪い大高坂山城を捨てて、桂浜に近い浦戸に浦戸城を築いた。
江戸時代
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慶長6年(1601年):関ヶ原の戦いにおいて元親の子・盛親は西軍に与して改易された。代わって、山内一豊が掛川城から転入し、土佐国一国24万2千石を与えられ、浦戸城に入った。
- 慶長6年(1601年)8月:浦戸は城下町を開くには狭いため、百々綱家(どど
つないえ)を総奉行に任じ、翌月より浦戸湾に面した地の利がある大高坂山に本丸の造営と、城下町の整備の為に鏡川・江の口川など川の治水工事に着手した。当時、周辺は湿原が広がるデルタ地帯であった。
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慶長8年(1603年):本丸と二の丸が完成。一豊は9月26日(旧暦8月21日)に入城した。この際に、真如寺の僧・在川(ざいせん)により、河中山城(こうちやまじょう)と改名された。
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慶長15年(1610年):度重なる水害を被り、2代忠義は河中の名を忌み嫌い、竹林寺の僧・空鏡(くうきょう)によって高智山城と改名した。この時より、後に城の名は省略されて高知城と呼ばれるようになり、都市名も高知と呼称されるようになった。
- 慶長16年(1611年):三の丸が竣工し、ここに高知城の縄張りが完成した。
- 享保12年(1727年):高知城下は大火にみまわれ、城は追手門以外の殆どが焼失した。
- 享保14年(1729年):8代豊敷は、深尾帯刀(ふかお たてわき)を普請奉行に任じ、城の再建に着手。
- 寛延元年(1748年):天守ほか櫓・門などが完成。天守は小振りとなったが焼失前と酷似した外観が保たれた。
- 宝暦3年(1753年):再建完了、現在見られる建造物の大半は、この時に再建された物である。
近現代
- 明治6年(1873年):廃城令に伴い、高知公園となる。この際に、現存建造物以外の建造物が破却された。
- 昭和9年(1934年):天守など15棟の建造物が国宝保存法に基づく国宝(現行法の重要文化財に相当)に指定される。
- 昭和25年(1950年):天守等15棟は文化財保護法の施行により国の重要文化財に指定される。
- 昭和34年(1959年)6月18日:国の史跡に指定された。
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平成18年(2006年)4月6日、日本100名城(84番)に選定され、平成19年(2007年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された。
遺構
天守
日本国内に12箇所現存する、江戸時代以前に建造された天守を有する城郭の一つである(現存天守、国の重要文化財)。南北に千鳥破風、東西には唐破風をつけた安土桃山時代の様式である。最上階の高欄は、徳川家康の許可をもらい、造ったと云われている。
独立式望楼型4重6階、1重目の屋根を腰庇として3重6階と数えられることもある。天守台がなく本丸上に、直に礎石を敷き御殿に隣接して建てられており、このような本丸を最後の防衛拠点とする構えは慶長期の城にみられるものであるという。
創建時のものは享保12年(1727年)に焼失し、延享4年(1747年)に焼失以前のものを忠実に再建されたものといわれており、高欄を設けるなどのやや古風な形式(復古型)をとっている。
平面寸法は、初層と2層を総二階造りで8間×6間、3層と4層を4間四方とし、5層と最上層は3間四方である。
本丸御殿
天守と繋がって造られている。築城された当初、二の丸御殿ができるまで、山内一豊と見性院が暮していた。
追手門
門の入り口は枡形の巨大な石垣で囲まれていて、敵を三方から攻撃できるようになっている。
鉄門跡
かつては二階建ての門があり、鉄板を打ち付けた扉があった。門を入ると枡形になっていて、詰門へと続いている。
詰門
本丸と二の丸の間にかけられた櫓門で、敵がまっすぐに通り抜けられないようになっている。
文化財
重要文化財
- 天守
- 懐徳館
- 納戸蔵
- 黒鉄門
- 西多聞
- 東多聞
- 詰門
- 廊下門
- 追手門
- 天守東南矢狭間塀
- 天守西北矢狭間塀
- 黒鉄門西北矢狭間塀
- 黒鉄門東南矢狭間塀
- 追手門西南矢狭間塀
- 追手門東北矢狭間塀
作品
観光
利用情報
周辺
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関連項目
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- 日本の城一覧
- 四国の史跡一覧
- 日本100名城
- 掛川城
- はりまや橋
- 現存天守
- マキキ聖城教会
外部リンク