東京国際空港(とうきょうこくさいくうこう、英語: Tokyo International Airport)は、東京都大田区羽田空港にある日本最大の空港。通称は羽田空港(はねだくうこう、英語: Haneda Airport)であり、単に「羽田」と呼ばれる場合もある。空港法第4条に定める「国際航空輸送網又は国内航空輸送網の拠点となる空港」の一つであり、同国の国土交通大臣が設置・管理する。なお、通称の「羽田空港」は当空港周辺の旧町名「羽田町」に由来する。
1931年8月25日に「東京飛行場」として正式開港して以来、日本最大かつ東京、首都圏を代表する空港で、2017年の乗降客数では世界で4番目に利用の多い空港となっている。全日本空輸と日本航空、スカイマーク、ソラシドエア、AIRDOの国内線ハブ空港である。
年間の航空機発着回数は約38万4000回、航空旅客数は約6,670万人でそれぞれ国内最大(2位はいずれも成田国際空港)。航空貨物取扱量は約84.4万トンで国内第2位(1日あたり約2246トン。1位は成田国際空港)。定期乗り入れ航空会社以外のチャーター便やビジネスジェットの乗り入れも行われている。
皇族や内閣総理大臣などが政府専用機を使用する場合や、国賓や公賓が専用機や特別機で訪日する際はほとんどの場合、羽田空港を使用する。これは羽田空港の方が成田空港より都心に近く沿道の警備が容易なためである。このため、専用施設としてVIP機専用スポット (V1・V2) や旅客ターミナルビルとは別棟の中に設けられた貴賓室がある。
日本では数少ない24時間運用が可能な空港の1つであるが、深夜から未明の時間帯にかけては国際線や貨物便が発着するのみとなっている。国内線の各旅客ターミナルビルの開館時間は、定期便の運航時間帯に合わせ、第1旅客ターミナル・第2旅客ターミナルとも5:00 - 24:00ごろとなっている。国際線ターミナルビルの開館時間は24時間である。
空港の設置および空港機能の管理・運用については国土交通省東京航空局東京空港事務所が行なっているが、各ターミナルビルの管理・運用についてはそれぞれ次のようになっている。
施設 | 管理・運用会社 | 備考 | |
---|---|---|---|
国内線地区 | 国内線各ターミナルビル | 日本空港ビルデング株式会社 | |
国際線地区 | 国際旅客ターミナルビル | 東京国際空港ターミナル株式会社(TIAT=ティアット) | 2010年10月に開業。日本の空港としては初のPFI事業として、国との間で事業契約を締結した民間事業者が建設・管理・運用を行なっている。 |
国際貨物ターミナルビル | 東京国際エアカーゴターミナル株式会社 | ||
国際線地区エプロン | 羽田空港国際線エプロンPFI株式会社 |
東京空港事務所においては羽田空港に関する飛行場管制業務のほか、羽田空港、成田空港、下総飛行場、木更津飛行場、館山飛行場に関する進入・ターミナルレーダー管制業務を実施している。
また、伊豆諸島の各小規模空港(リモート空港)に関する情報提供等を航空管制運航情報官が実施している。なお、コールサインについて、新島空港、神津島空港は「伊豆リモート」、三宅島空港は「三宅リモート」、八丈島空港は「八丈リモート」を使用する。
羽田空港は東京23区内にあり利便性が高い反面、騒音問題・増便規制・小型機の乗り入れ禁止などのいわゆる羽田空港発着枠問題といった緊急に解決が必要な問題が存在する(航空法上の混雑空港(IATAのWSGで最も混雑レベルが激しい「レベル3」)にあたる)。これらの問題を解決するため、現在までに沖合展開事業や再拡張事業、横田空域の調整が行われている。空港騒音に関しては羽田空港一帯(羽田空港一丁目 - 羽田空港三丁目、これらに接する地先及び水面)のみ騒音規制法(昭和43年法律第98号)第3条第1項の規定に基づき、大田区長が指定する地域から除外されている。
羽田空港の敷地面積は約1,522ヘクタール、埋め立てによる拡張により成田空港を超える日本最大の面積の空港となり、大田区全体の面積のおよそ4分の1を占める。
2014年、スカイトラックスが実施した「Global Airport Ranking 2014」において日本の空港として初めて世界最高水準の5つ星を獲得した。
2018年3月、スカイトラックスは、世界の空港ランキングでは2017年の第2位から順位を落として第3位として選出したものの、世界で最も清潔な空港では第1位として選出した。
開港する前の旧地名は東京府羽田江戸見町(鈴木新田字江戸見崎)、羽田穴守町、羽田鈴木町(鈴木新田字宮ノ下・辰巳ノ方・巽ノ方・明神崎・鈴納耕地・堤外東南)、羽田御台場、鈴木御台場(鈴木新田字御台場・御台場耕地・辰巳島)、猟師町御台場(羽田猟師町)であった。
1917年には航空の父とよばれた長岡外史が所沢につくった空港につづき、日本飛行大学校がこの地に開校、「羽田飛行場」と呼ばれた飛行訓練施設が置かれた。飛行訓練が行われたものの、民間の旅客機の離着陸はまだ行われていなかった。また、大正時代には羽田運動場が羽田飛行場の近隣に存在したが、後に空港の拡張に伴い運動場用地が買収されている。1923年の関東大震災の時に、鉄道が壊滅的被害をうけ、飛行機で物資を届けることを長岡外史が思いつき、戦前の羽田飛行場のサイズに拡張整備された。同じ頃、航空事故安全のための神社も建立された。
1931年8月25日、羽田飛行場のある東京府荏原郡羽田町鈴木新田字江戸見崎(国際線ターミナル地区付近 翌年に東京府東京市蒲田区羽田江戸見町となる。)に日本初の国営(逓信省管轄)民間航空専用空港東京飛行場(羽田飛行場)が正式に開港した。現在の旧整備場地区に位置していた。日本の民間航空黎明期における重要な飛行場であった(面積53haに全長300m、幅15m滑走路1本)。ただ、滑走路以外には草が生い茂っていた上、無線による管制が行われていないため管制塔もなかったなど、設備は簡素なものであった。記念すべき第1便は日本航空輸送の大連行き定期便であったが、当時の航空運賃は非常に高額で乗客がいなかったため、代わりに大連のカフェに送る松虫や鈴虫6000匹が載せられた。
1933年には、当時「空の都」として名高かった北多摩郡立川町、砂川村の立川飛行場の民間航空部門が移駐してきた。この頃には日本航空輸送や満州航空のハブ空港となり、大阪や福岡、台北や京城などの国内主要都市に向けた国内線のみならず、満州国や中華民国、タイ王国やフランス領インドシナへ向けた国際線の運航も活発化し、これに併せて「東京国際飛行場」と呼ばれるようになったほか、ターミナルやハンガー、滑走路や各種航法設備などの充実が行われた。
また、1930年代後半に同盟関係を結び、その後第二次世界大戦では枢軸国同士として一緒に戦うこととなったドイツとの直行便の就航も計画されたが、その後の国際情勢の悪化のためにこれは実現されなかった。しかし大日本航空(日本航空輸送の後身)が就航していたタイのバンコクで、ヨーロッパ各都市へ向かうイギリスのインペリアル航空などの国際線と接続することとなった。
この様な国内外の民間航空の発展に伴い、北東アジアにおけるハブ空港としての発展が期待され、1938年に第一次拡張(面積約22万坪、滑走路を600 mから800 mへ延長)し、1939年には2本目の滑走路が完成した。同時にターミナルの増築や航法支援施設の整備も進められた。また1937年5月には欧亜連絡飛行を行った「神風号」の帰着地に、同月にはのちに公認世界記録を樹立する「航研機」の初飛行場所に、1939年8月には世界一周飛行に向かった「ニッポン号」の発着地となるなど、日本の航空史に名を残す偉業の舞台となった。
1937年7月に始まった日中戦争以降も内際の民間航空輸送は引き続き行われているが、戦時体制のため日本航空輸送は国際航空などと合併し国策会社の大日本航空となり、日本国内における航空輸送事業は同社によって統一営業されることとなった。
1940年9月には国産旅客機三菱 MC-20の完成披露式が、同月28日の航空日(のちの空の日)には朝日新聞社主催の航空ページェントが開催された。後者ではモーリス・ファルマン機や鹵獲機ポリカルポフI-16が飛行し、また陸軍航空部隊の戦闘機・爆撃機によるアクロバット飛行・展示飛行や東京湾上での実弾演習が披露されている。なお、航空ページェントを報じる10月1日公開のニュース映画『日本ニュース』第17号では本地を「羽田の東京空港」と紹介している。
1941年1月より、大日本航空が日本の委任統治領のサイパンやパラオを経由してジャルート環礁までの定期旅客便を川西式四発飛行艇により就航させたが、羽田には飛行艇の施設がなかったため横浜港発着であった。1941年10月には海軍航空要員の訓練を行う霞ヶ浦海軍航空隊の一部が分遣隊として移駐、軍用飛行場としても使用されることとなり、同年12月に太平洋戦争(大東亜戦争)が勃発すると日本の民間航空は事実上停止した。
これ以降終戦までの間は、国内線や同盟国の満州国やタイ王国の他に、香港やジャカルタ、マニラやシンガポールなどこれまでイギリスやアメリカ、オランダの植民地であったが、南方作戦で日本軍が占領した東南アジア各都市や、ニューギニアのウェワクやラバウルといった日本軍勢力圏へ向けて福岡第一飛行場をハブとし、陸軍の特務航空輸送部が定期便を就航させている(徴用された大日本航空が委託運航)。
また、南方作戦で鹵獲されたアメリカ軍や中華民国軍、オランダ軍やオランダ領インド航空のボーイングB-17やカーチス・ライトP-40、ダグラス DC-5などの展示会も行われた。大戦末期には日本本土を空襲や機銃掃射する連合国軍機の爆撃目標となったため、空港内外に陸海軍が高射砲・高射機関砲を配置しこれに備えた。
第二次世界大戦終結後、連合国による占領下におかれた日本は一般命令第一号により飛行場や航空施設の保存を命じられた。東京飛行場については1945年9月12日に連合国への引き渡しが命じられ、翌13日には自動小銃で武装した兵士らがジープで乗り付けて飛行場にいた者を追い出して接収した。
東京飛行場は日本に駐留する連合国軍(実態は関東地域の占領を担当した米軍)が使用する基地となり、ハネダ・アーミー・エアベース(Haneda Army Airbase、羽田陸軍航空隊基地)と呼ばれることとなった。なお、飛行場の正式名称に「羽田」が用いられたのは、このときが初めてである。
しかし、アメリカから見て当時の東京飛行場の規模(面積72ha)はローカル空港程度でしかなく、早急な機能拡張が求められた。そのため、12日の引き渡し命令の対象は、既存の飛行場施設に留まらず、拡張用地確保を目的として隣接する3町(羽田鈴木町・羽田穴守町・羽田江戸見町)をも含んでいた。この地区には1200世帯・3000人が居住していたが、敗戦国であった日本に拒絶の余地はなく、終戦を迎えたばかりの対象住民らは同21日に警察から口頭で12時間以内の退去を知らされた。その後区役所と警察を介して行われた交渉によって制限時間が48時間以内に延長されたが、それ以降立ち入った者に生命の保証はないとの条件が付けられた。住民らは短時間のうちに家財をリヤカーや舟に積んで立ち退くことを余儀なくされた。
制限時間経過後も忘れ物を取りに命懸けで戻る者がいたこと等から、その後GHQから日中に限り町への出入りが1週間だけ認められたというが、住民の退去後旧居住区は稲荷橋に設けられた入場ゲートや武装した米軍憲兵によって封鎖され、住民たちは完全に排除された。
何ら補償も行われないままこの地を追われた旧住民らは、住居が米軍の巨大なブルドーザーやショベルカーによって軒並み取り壊されていく様を海老取川の対岸から見守ることしかできなかった。接収された地が旧住民らの手に再び戻ることはなく、その大部分がB滑走路の一部を含む空港敷地として今日も使われ続けている。
なお、穴守稲荷神社の大鳥居だけは頑丈にできていたため撤去できず、その後もこの地(更地、後に駐車場)に残された。この大鳥居は、沖合展開事業に伴う新B滑走路の拡張計画にて障害となるため撤去の計画が出ていたが、移転費用を近隣住民を主体とする有志が負担すると申し出たことにより、1999年2月に800メートルほど南の現在位置に移される。
また、接収地の一部であった黒田家(旧福岡藩)の鴨池には、飛行場に留置されていた日本の飛行機や兵器が投棄された。
この時の拡張工事はGHQの重機と「占領軍労務者」として働いた約2000人の日本人たちによって1946年6月までに竣工し、旧A滑走路(2000m×45m)と旧B滑走路(1650m×45m)が完成した。
連合国の占領下の日本においては、民間航空を含むすべての日本籍の航空機による活動が禁止されていたため、当時はアメリカやイギリス、フランスなどの連合国の軍用機やパンアメリカン航空やノースウエスト航空、英国海外航空などの連合国の航空会社の乗り入れのみに使用されていた。
なお1946年3月に、イギリス連邦占領軍のサー・セシル・バウチャー少将が英国海外航空のショート・サンドリンガム「プリマス型」飛行艇で運航されていたイギリス南海岸のプール(Poole)と香港を結ぶ路線を延長し、東京国際空港沖へ乗り入れるべく連合国軍最高司令部のダグラス・マッカーサー最高司令官に求めたが、飛行艇用の滑水路やハンガー、ターミナルの施設が無いため拒否された。このため、1948年3月19日以降暫くはイギリス連邦占領軍の拠点である岩国基地へ乗り入れていたが、その後羽田空港への陸上機での乗り入れが許可された。
その後サンフランシスコ講和条約が締結され、連合国による日本占領が終結に近づいた1951年10月25日には、日本の航空活動が解禁されたことを受けて、第二次世界大戦後初の国内民間航空定期便として日本航空のマーチン2-0-2型機「もく星号」が、羽田空港 - 伊丹空港(大阪) - 板付空港(福岡)間の定期旅客運航を開始した。
翌1952年7月1日には地上施設の一部がアメリカ軍から返還され、同日に現名称の「東京国際空港」に改名することになった。
また同月には世界初のジェット旅客機であるデ・ハビランド DH.106 コメットMk.Iが英国海外航空によって初飛来し、その後ロンドンのヒースロー国際空港との間に南回りヨーロッパ線で定期就航した。翌1953年には日本航空のダグラス DC-6によって、日本の航空会社による第二次世界大戦後初の国際線定期路線の就航が開始された。
この頃から日本の経済状況が急激に回復してきたこともあり、国内線の乗客が急増したのみならず、スカンジナビア航空やスイス航空、カナダ太平洋航空やカンタス航空などが就航するなど外国航空会社の就航開始が相次ぎ国際線の旅客も急増した。これを受け、全面返還に先立つ1955年5月、現在の国際線ターミナルの西側・現B滑走路の南端付近に近代的な設備を持つ新しい旅客ターミナルが開館し、8月には旧A滑走路が2550mに延伸された。その後1958年に全面返還され、1961年には滑走路が3,000mに延伸された。
その後1960年代に入ると、日本の空の玄関口、首都の空港として日本航空や外国航空会社によりダグラス DC-8やボーイング707、コンベア880などの大型ジェット旅客機が次々と就航したほか、ルフトハンザドイツ航空(1961年)やガルーダインドネシア航空(1962年)、ユナイテッド・アラブ航空(現在のエジプト航空、1962年)やアエロフロート航空(1967年)、マレーシア-シンガポール航空(現在のマレーシア航空とシンガポール航空、1968年)など新規乗り入れ航空会社が相次ぎ、さらに地方空港の整備が進んだことで地方路線が増加した。
これを受け、1964年に行われた東京オリンピックにあわせ空港設備の整備拡張が行われた。まず、旅客ターミナルが増築(東京五輪後も度々行われた)された他、旧C滑走路(3150m×60m)の新設、東京モノレールの乗り入れや貨物や検疫施設の拡充などが行われ、8月には旅客ターミナル向かいに初の空港敷地内ホテルである羽田東急ホテルがオープン。その後1971年に旧B滑走路が2500mまで延伸し、旧羽田空港が一応の完成を見た。
しかし、同年に一般旅行者の海外旅行自由化が行われたことや、地方路線の機材大型化やジェット化が進んだことなどもあり、高度経済成長期真っただ中の1960年代後半には、増大する一方の離着陸をさばくのが困難になり、ターミナル寄りの旧A滑走路 (15R/33L) の使用を停止して駐機スポットにするなどの策も講じたが、それでも増加する乗り入れ機の対応が難しくなった。また、旧A滑走路の使用停止により発着便の増加が事実上不可能になった上に、旅客ターミナルにボーディングブリッジが設置されていない他、旅客ターミナルの混雑や貨物ターミナルの処理能力も限界に達し、抜本的な解決を望む声が多くなった。
この様な声に対し当時の運輸省は羽田空港の沖合展開(更なる埋め立て)を検討したものの、当時の港湾土木技術では沖合移転に必要な埋め立て工事には多大な困難が予想されたことや、アメリカ空軍横田飛行場の管理していた東京西部空域との兼ね合いもあり、首都圏第二空港の開設を決定した。その後候補地の策定を行い、1966年(昭和41年)千葉県成田市に新東京国際空港(現・成田国際空港、成田空港)の建設が始まる。
1970年には、パンアメリカン航空と日本航空が相次いで当時の主力機材であったボーイング707型機やDC-8型機の倍以上の座席数を持つボーイング747型機を就航させ、ノースウエスト航空や英国海外航空、エールフランス航空やKLMオランダ航空などの他の乗り入れ航空会社もその後を追ったものの、ボーディングブリッジを備えたスポットがわずか3か所しかないなど、大型機の就航に施設拡充が間に合わないような状況は続いた。
もともと成田空港(当初案は富里空港)の位置は羽田空港の存続を前提に検討・決定されたものであるが、運輸省は羽田空港を廃止してでも東京湾内に大空港を建設する案を提唱した産業計画会議に対して非常識と退けつつも「都心から極めて近く、施設もすでに完備されており、国内線用空港として得難い貴重な存在である」と回答しており、羽田の既存の施設を残してあくまで補完的に使用を続けていく方針であった。しかし、成田空港問題の発生により、成田開港は当初計画の1971年から大幅に遅れた。
その上、日本の高度経済成長が続いていた1970年代中盤には、日本航空がボーイング747型機を国内線に投入したほか、国内線のみを運航する全日本空輸や東亜国内航空もロッキード L-1011 トライスター型機やエアバスA300型機などのワイドボディ機の就航を開始したことから、首都圏の航空需要を一手に引き受けていた羽田空港は、国際線のみならず国内線ターミナル・貨物ターミナルの処理能力も限界に達してしまう。
そして1978年5月20日に漸く成田空港が開港を果たすと、外交的問題から成田空港への移転を行わなかった中華民国(台湾)の中華航空(現・チャイナエアライン)を除く全ての国際線が成田に移転した。なお、その後1990年代に就航開始した中華民国のエバー航空も羽田空港を利用することとなった。詳細は「国際線の就航状況」の節を参照のこと。
かつてのターミナルは現在地より陸地側、今のB滑走路の南端付近にあった。3本の滑走路はターミナルの北側にB滑走路(04/22)が、ターミナルの東側にA滑走路(15R/33L)とC滑走路(15L/33R)のクロースパラレルが配置されていたが、1964年の海外旅行自由化以降は航空機の利用客が急増し、便数も増加できない上に国際線・国内線が同居する状態では発着する飛行機の数をさばききれなくなり、空域では航空機同士が急接近することが常にあった。このため、1970年代には旧A滑走路を事実上閉鎖して駐機場を拡張した。
新設された成田空港には国際線が移転されたが激しい反対運動によって拡張が進められなかったために国際線のみで処理能力が飽和し国内線を引き受けられる余力はなく、さらに国内線需要の急激な増加が続いたため、手狭なターミナルと2本の滑走路のみであった当時の羽田空港は間もなくキャパシティの限界を再び迎えた。滑走路は現在よりも市街地に近かったため、騒音に対する苦情も絶えなかった。これら空港機能の改善および騒音対策を目的として東方の海面を埋め立てて空港施設を移設・拡張するという沖合展開事業(通称: 沖展)が計画された。革新知事であった美濃部亮吉は羽田拡張に反対していたが、東京都知事交代に前後して調整が進められ、1984年1月に着工した。
沖展に不可欠な埋め立て工事は、脆弱な海底地盤により難航した。「ごみ戦争宣言」を出した美濃部施政下、沖展用地は東京港の浚渫土や首都圏の建設残土を処分する残土処理場として1975年度から土砂の投棄が続けられており、長年のヘドロが堆積した「底なし沼状態」であったことから、重機はおろか人間も立ち入れない場所が多かった。この場所は含水比率100パーセント以上の超軟弱地盤であったことから工事関係者の間では「(羽田)マヨネーズ層」と呼ばれ始め、工事関係書類に使われたため学名にまでなりかけたが、後にマヨネーズ製造業者から抗議があったため名称が変更されている。対策としてチューブの集合体の板を地中深く差し込むことで水を抜くペーパードレーン工法や、同じく砂の柱を地中深く構築することで水を抜くサンドドレーン工法、沈下する地盤をジャッキの油圧で持ち上げ空洞を特殊なコンクリートで固める工法などを駆使し、計画から完成まで約20年の歳月を経て完成した。
この埋め立てによって新たに生まれた土地は広大なもので、これがすべて大田区に組み込まれたことから、世田谷区は長年保っていた「東京23区で面積最大」という地位を大田区に譲ることになった。
1988年には、旧C滑走路の450m東側に現A滑走路が完成した。
1993年9月27日には、約29万平方メートルの延べ床面積に、24基のボーディングブリッジを持つ新国内線ターミナルビル(第1旅客ターミナルビル)が供用開始され、チャイナエアラインを除くすべての航空会社が移転した。同ターミナルを運営する日本空港ビルデングはこれにビッグバード (Big Bird) という愛称をつけたが、今日ではこれが羽田空港国内線旅客ターミナルの総称としても用いられている。
2004年12月1日には、約18万平方メートルの延べ床面積に15基のボーディングブリッジを持つ第2旅客ターミナルビルが供用を開始し、全日本空輸グループ(以下「ANAグループ」)および業務提携している北海道国際航空(現・AIRDO)の国内線業務が同ターミナルに移転した。12月21日には第1旅客ターミナルビルに残っていた日本航空グループ(以下「JALグループ」)が、従来使用していた同ターミナル南ウイングに加え、全日空グループなどが使用していた北ウイングの使用を開始。その後2006年4月1日より、ANAグループと業務提携しているスカイネットアジア航空(現・ソラシドエア)も第2旅客ターミナルに移転し、2017年10月現在は、
のそれぞれ専用ターミナルとなっている。ただしANA便名でもスターフライヤー運航のコードシェア便である北九州線・福岡線は第1旅客ターミナルから出発・到着する。
各ターミナルのシンボルカラーも、第1ターミナルはJALグループのコーポレートカラーである赤色、第2ターミナルはANAグループのコーポレートカラーである青色となっている。JALグループでは広い第1ターミナルを活かし、国内線方面別チェックインを行っている(就航路線を参照)。
なおこの事業は3期に分かれ、2013年4月の旧暫定国際線ターミナルビル跡地への第2旅客ターミナルビル南ピア71 - 73番スポット増築部竣工により終了した。
第2旅客ターミナルビルの供用開始に先駆け、1998年3月20日に第2旅客ターミナルビルの南寄りに暫定国際線旅客ターミナルビルが完成した。当初は、チャイナエアラインのみが使用していたが、2002年4月18日に成田空港のB滑走路が暫定供用を開始したことに伴い、チャイナエアラインとエバー航空は成田空港発着となった。
これに伴い、浮いた発着枠が活用されたのが同年開催された2002年サッカーワールドカップ日韓大会開催に伴う日韓間の航路であった。
韓国の首都・ソウルにおいては、ソウル市内にある金浦空港に代わり、2001年に国際線空港として新たに仁川国際空港が開港し、金浦空港に発着する国際線は全て同空港に移転し、金浦空港は事実上国内線専用空港となった。
この仁川国際空港は国際的には行き先こそ「ソウル」と案内されることが多いが、実際にはソウル市内ではなく仁川市内に存在する上、当時はソウル市内とのアクセスが遠く不便であるなど、これらの点においては、日本の羽田空港と成田空港との関係によく似た状況にあった。
そこで、このワールドカップ開催期間中およびその前後に、日韓両国の首都かつその中心部から程近い場所に位置する羽田空港と金浦空港を結ぶチャーター便を開設させた。このチャーター便が好評を博したため、翌2003年からは「定期チャーター便」という定期便に限りなく近い方式で同ルートが開設された。
さらに2007年には同じく定期チャーター便方式で、羽田と中華人民共和国の上海虹橋国際空港の間に、2008年には香港国際空港との間に、2009年には北京首都国際空港との間に航路が開設された。
2009年7月、B滑走路で着陸した航空機が速やかに滑走路から退避するための高速離脱誘導路と、それに接続する誘導路が供用開始された。高速離脱誘導路とは、航空機が比較的高速のまま滑走路から平行誘導路へ移動できるように滑走路に対して斜めに配置するものであり、着陸機の滑走路占有時間が短くなることで発着回数を増加させ空港処理能力を向上させることができる。2009年当時羽田空港の出発機は1時間あたり32機、到着機は28機と到着機の方が少なかったが、到着機が速やかに滑走路を脱出する事で到着機を1時間あたり29機へ増やすことが可能とされ、これにより1日あたり14便までの増枠ができると見込まれた。この工事と並行してA・B平行誘導路を結ぶ誘導路も新設した。
航空需要の増大から、羽田空港においては、ラッシュ時は2分間隔で発着が行われるなど、1990年代には発着能力が限界に達しており、増便は困難な状況になっていた。限られた発着枠でできるだけ輸送量を大きくするため、羽田空港では日本の空港としては唯一、小型機の乗り入れが原則として禁止されており、その結果、特に地方空港の利便性が低下し不満が高まっていた。そこで2000年9月から、首都圏第3空港調査検討会により、羽田空港の再拡張や、首都圏に羽田・成田に次ぐ第3の空港を設置し、航空需要の増加に対応する案が検討された。その検討の結果、日本国政府は2001年12月19日に、第3空港の設置より優位性のある羽田空港の再拡張を優先的に行うことを決定し、以下の事業が行われた。
D滑走路は、神奈川県寄りの多摩川河口付近の海上に、従来の埋め立てとジャケット工法による桟橋 を組み合わせた、世界初の人工島と桟橋のハイブリッド滑走路として、既存のB滑走路とほぼ平行に建設された。このD滑走路の設計耐久年数は、100年に設定 されている。
設計・施工・運用にあたっては制約条件がいくつかあり、対策が行われた。
羽田空港沖は、江戸前マアナゴなどで有名な漁場である。滑走路の建設工事の影響により、漁獲量減少が懸念されるとして、地元漁協と国土交通省の漁業補償交渉が難航した。当初、同省は閣議決定されていた2009年末の供用開始に向け、2006年春頃の着工を目指していたが、結果的に目標は達成できなかった。工事は2007年3月31日に開始され、5月20日に関係者による着工記念式典が行われた。同省は、当初の計画に間に合わせるために工期短縮の方法などを模索した結果、2010年10月21日に完成し、供用を開始した。
このD滑走路の設置計画当初は既存のB滑走路と完全に平行な滑走路の建設を予定していたが、南風・荒天時に千葉県浦安市の市街地上空を通過すること、また東京ディズニーリゾートと直線距離300mの沖合いを通過することが問題視され、滑走路の方位を時計回りに7.5度変更した。この変更により川崎市にある東京湾アクアラインの換気塔が制限表面上に出るため、この換気塔は頂部の装飾を改修(頂部を取り払う)した。
この滑走路の整備により、発着枠が段階的に引き上げられる。引き上げの最短の見通しは以下の通りである。
なお、エアバスA380は後方乱気流が大きく、後続機との飛行間隔を広げざるを得ないことから、昼間時間帯の乗り入れは認められないとされた。
国内線については発着枠の増加により、より小型の飛行機を用いた多頻度運航化が可能となる。国際線については、国土交通省は将来の国内航空需要に対応した発着枠を確保した後の余裕枠を活用して年間6万回程度(短距離便と、深夜早朝時間帯の中・長距離便がそれぞれ3万回、1日約80便)の就航が可能になるという見解を示している。おおむね就航可能な国際定期便については、短距離便でソウルや釜山、台北、北京、上海など。中・長距離便で北アメリカやヨーロッパ、東南アジアなどの主要都市である。当初は羽田発着国内線最長距離の石垣空港間1,200マイル (1,947 km) 以内の区間を目安としていたが、2008年4月1日には香港線が開設され既にこの目安を超えていた。
ただし、2010年5月17日の、国土交通省成長戦略会議最終報告では、国際線のアジア近距離ビジネス路線限定を廃止して、アジア長距離路線や欧米路線も含めた、高需要、ビジネス路線も発着できるルールに変更した。また、これを可能とするため、発着枠40.7万回+4.0万回が達成される時点で、今後の首都圏における国内・国際の航空需要の伸びを勘案しつつ、昼間時間帯の残り5.7万回の半分強に当たる3万回の発着枠を更に国際線に配分することを基本にした。
D滑走路は旧来の管制塔からかなり離れており、旧管制塔から管制官が目視したとき、安全上規定されている視野角を部分的に確保することができず、また、新設される誘導路の一部が建物の陰に隠れてしまい、機体を目視で確認できない部分が生じてしまう。そこで新たに旧管制塔の南東側、第2駐車場に隣接する「バスプール」のエリアに世界で3番目(当時)・国内最高の高さとなる116mの新管制塔を建設し、2010年1月14日に運用を開始した。これにより、それまでの旧管制塔の飛行場管制室は供用開始から16年で役目を終えたことになるが、新管制塔供用開始後も撤去されずバックアップ用の予備管制塔となった。なお、新管制塔で新設されるのは飛行場管制室とその付帯設備だけで、ターミナルレーダー管制室や航空局庁舎は従来の位置のままである。
また、発着能力増大に伴いグランドコントロールだけでは対処飽和になる可能性が出てくることから、グランドコントロールとは別にエプロン地区のみを管制する「ランプ・コントロール」導入が考えられた。仮に導入された場合、これまでの旧管制塔は成田国際空港の旧管制塔のように「ランプ・コントロール・タワー」として利用することも検討されたが見送られた。
A滑走路とB滑走路および環八通りに囲まれ、かつての国内線ターミナル(1993年まで)と国際線ターミナル(1998年まで)、日本航空のライン整備センターなどがあった区域に、新しい国際線旅客ターミナルビルと国際貨物ターミナル、エプロンなどを建設し、国際線地区としてPFI手法を用いて整備した。2008年4月8日に起工式が行われ、2010年7月末に完成し、同年10月21日に供用開始された。これに伴い、10月12日に旧・P5国際線駐車場が営業を終了し、10月20日に暫定国際線旅客ターミナルビルが閉鎖された。
国際線旅客ターミナルビルは、5階建て延べ床面積約15万9000平方メートル(付属棟含む)のターミナルビルと6層7段の駐車場(約2300台収容、延べ床面積約67,000平方メートル)で構成される。ターミナルビルには、江戸の町並みを再現した商業ゾーン(4階「江戸小路」)や国内最大級の規模の免税店を設置して収益を確保する見通しである。国際旅客ターミナルビルの整備・運営は国内線ターミナルビルを運営している日本空港ビルデングを筆頭株主とする特別目的会社「東京国際空港ターミナル株式会社 (Tokyo International Airport Terminal Corporation, TIAT)」がPFI方式で実施している。
スポットは固定スポットとオープンスポットが各々10ヶ所設置されるのみである上、旅客ターミナルビルがA滑走路とB滑走路および環八通りに囲まれ、更なる拡張も難しいと考えられたことから、前原国土交通大臣が提唱した「羽田空港国際ハブ空港化」の実現には不十分な規模であるとの指摘もあった。
国際貨物ターミナルは、年間50万トンを処理する貨物上屋2棟・生鮮上屋・燻蒸施設などで構成される。国際貨物ターミナルの整備・運営は三井物産グループが設立した特別目的会社「東京国際エアカーゴターミナル株式会社 (Tokyo International Air Cargo Terminal LTD, TIACT)」がPFI方式で実施している。
エプロン・周辺道路などの整備は大成建設を筆頭株主とする特別目的会社「"羽田空港国際線エプロンPFI株式会社"」が実施している。
国際線ターミナルビルの開業に合わせ、同ターミナルへのアクセスとして、東京モノレール羽田線は一部ルートを変更し、ビルに隣接する形での新駅「羽田空港国際線ビル駅」を建設した。また、京浜急行電鉄空港線も、羽田空港駅 - 天空橋駅間のターミナルビル地下に新駅「羽田空港国際線ターミナル駅」を開業し、あわせて国内線ターミナルの最寄駅である羽田空港駅の名称を「羽田空港国内線ターミナル駅」に変更した。
観光面及び防災面から、国際線ターミナル近くに羽田空港船着場を開設した。
多摩川左岸に三愛石油株式会社が所有していたタンカーバースを譲り受け、2011年5月より旅客用に改修する工事を行い、同年7月に利用開始された。その後、陸上部分の2期工事が行われ、同年11月30日に待合室施設などが新設され、完成した。
2011年11月16日、国内線第1旅客ターミナルビルのリニューアル工事が完了した。チェックインカウンターが並ぶ2階の出発ロビーの天井には、自然光を取り入れる開口部が設けられ、明るい雰囲気となった。また、保安検査場を通過した後の制限エリア内の商業施設を大幅に拡充したほか、屋上展望デッキも改装して航空機をより見やすくなるようフェンスを更新した。
2009年10月13日、当時の国土交通大臣・前原誠司は地方空港から韓国仁川国際空港を経由した海外渡航が増加している現状を問題視。その原因とされている、国際線は成田空港、国内線は羽田空港とする「内際分離」の原則を改め、羽田空港と成田空港を一体的に運用し、羽田空港を24時間使用可能な国際ハブ空港とする方針を明かした。この方針を受け、新設した国際線旅客ターミナルビルを2013年度をめどに、夜間駐機場として整備された北側エプロン方面へ延長増築し、搭乗口を増設する拡張計画が打ち出された。
拡張部分についてもPFI事業として整備され、2011年6月21日、国土交通省と東京国際空港ターミナルが国際線旅客ターミナルビル本館の改修と増築、北側エプロンへの固定スポット8か所分のサテライト増築、立体駐車場の増築、ホテルの新設を内容とする拡張計画に合意した。また、2012年8月31日、国際線エプロンの増設などの拡充整備による事業契約の変更について、国土交通省関東地方整備局と羽田空港国際線エプロンPFI株式会社が変更契約を締結した。
2014年3月30日、拡張部の一部が供用開始。ターミナルビルはT字状になり、延べ面積は約15万9000m2から約23万6000m2に約1.5倍拡大、固定スポット(搭乗口)が10から18、チェックインカウンターが96から144、出発保安検査場が1カ所から2カ所に増加するなどした。
2014年8月28日、拡張部一般エリアが供用開始。イベントスペースや多目的ホール、レストランや物販店などの商業店舗が設けられた。
2014年9月30日、ロイヤルパークホテル ザ 羽田(現・THE ロイヤルパークホテル 東京羽田)開業。またホテル開業に合わせ、ビジネスジェット専用ゲートの供用が開始された。
2009年4月、政府・与党が長距離国際線への対応としてC滑走路を南東(D滑走路側)へ360m延長して3,360mにする方針を固め、追加経済対策に盛り込むこととした。これは長距離国際線の輸送力を増強、大型機の離着陸を可能にする施策で、特に深夜早朝時間帯に就航する長距離国際線の大型化が可能となる。2009年度中に着工し、2013年度完成予定であったが、用地内の廃棄物対策の検討に時間を要したため事業期間が約1年伸び、2014年12月11日より施設供用開始となった。
供用開始に伴い、深夜帯の北向き離陸用途として、現在主に使用しているD滑走路に加え、C滑走路の深夜制限も緩和されるため、エアバスA380型機やボーイング747型機などの大型旅客機も、深夜早朝にC滑走路を使用できるようになる。また関連する工事として、34Rに於けるILSの更新も行われ、2015年8月20日よりILSカテゴリーIIIa、2016年1月7日よりILSカテゴリーIIIbが供用開始となる事で、視界不良時の着陸基準が新たに設定された事により、空港機能の冗長性向上が図られた。
羽田空港には国内線・国際線ともに就航し、1930年代の開港当初から日本航空輸送や満州航空の国際線が乗り入れていた。戦後は日本の表玄関として、日本航空の国際線ハブ空港となったほか、1964年(昭和39年)に開催された東京オリンピックをピークに、世界各国からの国際線が乗り入れていた。
しかし、当時の羽田空港の設備では手狭となり、国内線を減便して国際線を運航していたこともあり、東京オリンピック開催後になると、羽田空港に代わる首都圏に新たな国際線空港を建設する動きが出始めた。そして、千葉県成田市に首都圏における事実上の国際線専用空港として、1978年(昭和53年)5月20日に成田空港(当初の正式名称は新東京国際空港)が開港した。
なお、この新東京国際空港は2004年(平成16年)4月1日から成田国際空港株式会社法により、同空港を管理する新東京国際空港公団が成田国際空港株式会社に改組・民営化(特殊会社化)され、同時に正式名称も「成田国際空港」に改称し現在に至る。
1978年(昭和53年)に新東京国際空港(成田空港、現・成田国際空港)が開港すると、中華民国(台湾)の航空会社であるチャイナエアライン(中華航空)を除く国際線定期便は全て成田空港に移り、羽田空港は事実上、国内線専用空港となった。
成田空港が開港しても、チャイナエアラインだけは成田空港には移転せず羽田空港発着となった。この理由は、1974年1月に日本と中華人民共和国の中国共産党政府との間で締結された日中航空協定における予備交渉の席で、中国共産党政府代表団は日中間で航空路線が開設された後も、日本と中華民国との路線を維持することに異議を唱えない立場にあったが「中華民国の国旗(青天白日旗)を付けた中華航空機と同時に乗り入れる気持ちはない」と表明した結果、1974年1月に日本側でまとめた外務・運輸両省案の中で「中国民航は成田空港を使用し、中華航空は羽田空港を使用する。なお、成田空港開港までは暫定的に羽田空港を双方が供用するようにするが、所要の時間帯調整を行う」と定められたためである。
ところが、中華民国政府はこの「外務・運輸両省案」に示された中華航空の社名と機上の旗に関する問題を、「日華(日本と中華民国)の2国間のみの問題」ではなく、中華民国と中共間の問題ととらえ、妥協をすることがなかった。その結果、1974年4月20日を最後にチャイナエアラインによる日本乗り入れが中断された が、翌1975年7月1日の参議院における外務委員会において、宮沢喜一外務大臣が中華民国側の主張に沿った答弁を認める措置を採り、同年8月10日に再開された。
成田空港の開港後、羽田空港は都心に近く空港アクセスが良い上、空港旅客サービス料が無料であるほか、国内線との接続が良いなどのプラス面を享受することとなったチャイナエアラインの台北経由便を利用してアジア各国やホノルルへ行く利用者が増加し、同社はこの恩恵を四半世紀にわたり享受することとなる。1989年には中華民国の新規参入航空会社であるエバー航空も羽田空港発着で乗り入れを開始した。2002年には早朝・深夜枠を利用したグアムやアジア各国へのチャーター便の運航が始まったものの、同年4月18日に成田空港のB滑走路が暫定供用を開始したことに伴い、チャイナエアラインとエバー航空は成田空港発着となったが、2010年の再国際化に伴い再び羽田空港に発着するようになった。
前述した記事と重複するが、2002年に開催された日韓共催ワールドカップにおいて、羽田空港とソウルの金浦国際空港との間に日韓両国の航空会社がチャーター便を運航した。このチャーター便が好評を博し、翌2003年からは毎日運航され、かつ個人旅客による航空券購入が可能であり、定期便に限りなく近い「定期チャーター便」という方式で羽田 - 金浦便の運航を開始した。その後、同じく定期チャーター便方式で中華人民共和国の上海虹橋国際空港(2007年)、香港国際空港(2008年)、北京首都国際空港(2009年)との航路が次々と開設された。今後は、大連の大連周水子国際空港との間に航路を開設することが計画されており、同国東北部において特に経済発展が著しい大連と東京都心から近くて便利な羽田空港を結び、片道約2時間30分の「日中日帰りビジネス」の構築を目指している。
再拡張事業でD滑走路が完成すると、羽田空港の発着枠は大幅に増加することになるが、増加分の一部は同様の形式で近距離国際線向けとする方針とした。これに対し、横浜市は「ASEAN地域を含む6000キロ以内を含める」よう主張していた。
第1次安倍内閣が打ち出したアジア・ゲートウェイ構想に基づき、国土交通省は2008年5月19日、再拡張事業により2010年にD滑走路が完成し羽田空港発着枠が大幅に増加した暁には深夜と早朝時間帯に限り国際線の中距離・長距離便の就航を自由化する方針を固めた。また20日の経済財政諮問会議で当時の国土交通大臣である冬柴鐵三は「6時台および22時台に羽田空港からの国際線の就航を可能とし、欧米を始めとした世界の主要都市への国際旅客定期便の就航を実現したいと考えている」と表明した。
国土交通省は、再拡張事業完成による発着枠増加分11万回のうち、昼間における3万回を近距離国際定期便に割り振ることを決めている。同省は、周囲の騒音問題等で成田空港が運用できない午後11時から午前6時まで(リレー時間帯を含める場合は午後10時から午前7時まで)の深夜・早朝には通常の発着枠とは別途、距離に制限が無い3万回が割り当てられ、国際線枠6万回とすることにより成田空港を補完する活用が可能であると判断している。さらに新しい国際線ターミナルが2010年10月に供用開始されたことにより、32年ぶりとなる台湾以外の航空会社の国際線定期便が羽田空港に就航した。
国土交通省の成長戦略会議は2010年4月13日、日本の将来の成長に向けた政策提案の重点項目を公表。その中に羽田空港の国際線発着枠を9万回に拡大し国内・国際線の乗り継ぎ拠点となる「ハブ機能」を強化する、今後、昼の時間帯に段階的に増える発着枠について3万回を国際線に充て、欧米路線の定期便も含めるとの方針が盛り込まれた。2009年9月に国土交通大臣に就任した前原誠司は約11万回増える発着枠の半分程度を国際線に回すとしていたが、さらに3万回程度が上積みされた格好である。一方、成田空港では格安航空会社専用のターミナル新設を計画するなど、格安航空会社の受け入れを強化するとの方向性が示された。
国際航空貨物便の乗り入れも認められ、日本貨物航空が2007年4月に、D滑走路運用開始後の2010年10月末以降の深夜・早朝帯(午後11時 - 午前6時)に貨物定期便を就航させる方針を明らかにしていたが、2009年6月の経営見直しにより、羽田空港への就航を当面見送ることを決定した。2010年12月より香港航空が、定期チャーター貨物便を就航させた。
国土交通省と各国の航空当局は2008年7月以降、羽田空港再拡張後の国際線就航について各国航空当局との間で協議・合意が進められていることを下記のように発表している。