占守島(しゅむしゅとう)は、千島列島北東端の島。ロシア連邦の実効支配下にある。日本政府は国際法上は帰属未定地であると主張している。ロシア名シュムシュ島(Шаблон:Lang)。
島名の由来は、クリルアイヌの言葉で「シー・モシリ」から。
面積は230平方キロメートルで、南西から北東へ約30キロ、幅は最大で20キロの大きさである。北のカムチャツカ半島とは千島海峡(ロシア名「第1クリル海峡・Шаблон:Lang」)で、南の幌筵島とは幌筵海峡(波羅茂知海峡、ロシア名「第2クリル海峡・Шаблон:Lang」)で隔てられている。
島の北側の一部は砂浜であるが、それ以外はほとんど崖で、多くの岩礁がある。海抜200メートルくらいの緩やかな丘陵が続き、沼地と草原で覆われている。その中にある四嶺山(しれいさん、標高171m)には、戦時中に旧日本軍の守備隊の本部が置かれていた。現在では、戦車、砲台、戦闘機、飛行場、格納庫、トーチカなどの残骸や廃墟が残る。
オホーツク海と太平洋に囲まれ、夏季でも摂氏15度くらいで濃霧が覆い、冬季はマイナス15度の極寒の上に猛吹雪に襲われることが多い。現在、ロシア名バイコーヴァ(Шаблон:Lang)という集落があるのみで、民間人の人口は100人以下であり、しかも定住人口ではないという。
先史時代より、アイヌ人が古くから居住していた。
Шаблон:Main 1945年8月15日(モスクワ時間8月14日)、日本のポツダム宣言受諾通告後、極東ソビエト軍総司令官は、第2極東方面軍司令部と太平洋艦隊司令部に対し、カムチャツカ現有勢力により千島列島北部の占領を目的とする作戦の準備及び実施を命令した。なお、千島列島南部は、北千島とは別にサハリン(樺太)からの部隊が攻略する計画だった。
ソ連軍の占守島上陸は8月18日未明に開始され、日本軍守備隊の第91師団などと戦闘になった。日本側は軍使を派遣して停戦交渉を行い、8月21日に日本軍第91師団長が降伏を定めた文書に署名し、完全に停戦が成立した。24日までに、占守島・幌筵島の日本軍は武装解除された。ソ連側死傷者数は日本側死傷者数を上回ったことが判明している(ソ連側資料では日本側死傷者約1,018名、ソ連側約1,567名)。
その後、新知島までの北部千島の日本軍は、8月27日までに武装解除された。9月初旬までに全千島がソ連軍に占領された。千島列島では占守島以外で戦闘はなかった。日本兵はシベリアへ抑留された。