墨俣城(すのまたじょう)は、現在の岐阜県大垣市墨俣町墨俣にあった戦国時代の城である。
築城時期は不明である。長良川西岸の洲股(墨俣)の地は交通上・戦略上の要地で、戦国時代以前からしばしば合戦の舞台となっていた(墨俣川の戦い)。斎藤氏側で築いた城は斎藤利為らが城主を務めたが、1561年(永禄4年)5月の織田信長による美濃侵攻にあたって、または1566年(永禄9年)に木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)が一夜城を築いたという逸話がある。
現在、洲股城跡の北西側は一夜城跡として公園に整備されている。公園内には大垣城の天守を模した墨俣一夜城歴史資料館が建てられているが、史実とは異なる。また、公園内にある白鬚神社(式内社荒方神社の説がある)には境内社として豊国神社があり、豊臣秀吉が祀られている。
墨俣城が最後に歴史に現われるのは1584年(天正12年)4月で、小牧・長久手の戦いを目前にして当時美濃を支配していた池田恒興の家臣伊木忠次が改修した。その2年後の1586年(天正14年)6月、木曽三川の大氾濫で木曽川の流路が現在の位置に収まったので、墨俣は戦略上の重要性を失い、この地が城として使われることはなかった。
秀吉の墨俣築城に関するそのほかの史料を以下に示す。
甫庵太閤記 秀吉の伝記として記された小瀬甫庵の『太閤記』(1626年(寛永3年))には、 「1566年(永禄9年)に秀吉は敵地の美濃国内で新城の城主になった」という記述がある。また、記述の中にも閏月が考慮されていない、遊撃戦を目的として建設された城であるのに敵に目立つようにして完成した、などいくつか問題点がある。 武功夜話(前野家古文書) 1959年(昭和34年)になって『永禄州俣記』を含む前野家古文書が発見され、その一部が武功夜話として1987年(昭和62年)に刊行された。 江戸時代初期までにまとめられたとされる同史料(偽書であるとの説も存在する)は、墨俣一夜城築城の経緯が克明に記録されており、ほとんど伝説として扱われてきた一夜城の実態を知りうる史料とされる。現在、墨俣一夜城の逸話が史実として紹介される場合、その詳細は『前野家古文書』に多くを拠るもので、墨俣城跡にある墨俣一夜城歴史資料館も『前野家古文書』に基づいて展示を行っている。また、この逸話が事実であるとする場合、建築史においてはプレハブ工法・プレカット工法の先駆けとなるものではないかともいわれている。