長篠城(ながしのじょう)は、三河設楽郡長篠(愛知県新城市長篠)にあった城(平城)。現在は国の史跡に指定され、城跡として整備されている。1575年(天正3年)5月の長篠の戦いに先立つ長篠城をめぐる激しい攻防戦で知られる。
歴史・沿革
戦国時代
- 1508年(永正5年) 今川氏親に誼を通じた菅沼元成が築城。元成と、その子孫・長篠菅沼氏が居城とする。
- 1571年(元亀2年)
徳川家康に服属していたが、武田軍による三河侵攻の一端で、天野景貫に攻められる。攻守双方の払った犠牲は大きかったが、陥落だけは免れた。その後、菅沼総領家・田峯菅沼氏から遣わされた使者の説得を受け、城主であった元成の直系玄孫・菅沼正貞は、心ならずも武田軍の圧力に屈した。
- 1573年(天正元年)
前年末から続いていた武田軍の西上作戦が春には切り上げられ、武田軍は本国へ撤退。その間隙を徳川家康によって攻められる。城主・正貞は8月には開城退去、城に返り咲くことはなかった。以後、家康によって武田軍の侵攻に備えて、城が拡張される。現在残る本丸の大規模な土塁などはこのときのものと考えられている。
- 1575年(天正3年)5月 武田勝頼は2万5千の兵を率いて奥平信昌が約500の手勢で守る長篠城を攻め囲み、長篠の戦いが始まる。
- 1576年(天正4年)
前年の長篠城の攻防戦で城が大きく損壊したこともあり、奥平信昌は新城城を築城、長篠城は廃城となる。
現代
- 1929年(昭和4年) 当時の史蹟名勝天然記念物保護法により、城跡一帯が国の史跡に指定されている。
- また、帯曲輪跡には新城市立長篠城址史蹟保存館が建設されており、長篠の戦いの理解を助ける展示がされている。
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2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(46番)に選定され、2007年(平成19年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された。
構造
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豊川(当時は寒狭川)と宇連川(当時は大野川)が合流する断崖絶壁の地点に本丸を置き、その隣に二の丸、三の丸、弾正曲輪、服部曲輪、野牛曲輪を築いている。
遺構
城跡
本丸付近は多くの遺構が残っている。特に大規模な空堀と土塁が残っており、天正元年(1573年)に徳川家康が長篠城を奪取した後に大規模な修築を行った結果であると考えられている。また、飯田線のために本丸と寸断されてしまったが本丸南には野牛曲輪が在り、ここの遺構はよく残っている。しかし一方で、城の北側のほとんどは埋没、破壊されている。現在は畑地や宅地などになっているが、一部に石垣の遺構を残している。
現地情報
所在地
交通アクセス
関連項目
- 長篠の戦い
- 奥平信昌
- 鳥居強右衛門
- 日本の城一覧
- 中部の史跡一覧
- 日本100名城
- 三河国