順天倭城

順天倭城(じゅんてんわじょう)は、韓国全羅南道順天市海龍面新城里に慶長の役で築かれた倭城(日本式の城)。

立地と構造

文禄・慶長の役を通じて日本軍は朝鮮半島南岸各地に倭城群を築いて布陣していた。その中でも最西端にあたる全羅道順天の光陽湾に面した沿岸に1597年11月から、宇喜多秀家、藤堂高虎を中心として築城を始め、突貫工事により城は短期間で完成をみる。

城の立地は小さな半島状の地形で、三方は海に囲まれた天然の要害で、西側だけが地続きとなっており、ここには丘陵稜線ラインに沿って石垣で長塁を築き外郭として敵の侵入を塞いでいた。本城は東側最奥部の海に突き出した小山に築かれ、ここに石垣を積み上げ、山頂には三重の天守を上げた。

外郭と本城の間には入り江があり、この入り江には艦船が停泊し軍港の役割を果たしていた。『宇都宮高麗帰陣物語』には「600艘の船が2つの入り江に入っていた」という。周辺の海は遠浅となっており、そのため海上からの救援が困難であるとしてこの城を放棄する案が提出されたこともあるが、この案は豊臣秀吉が却下した。実際に明・朝鮮軍が攻め寄せたときには、逆に遠浅の海が幸いし、多くの明・朝鮮の軍船が座礁している。現在周囲の海は大部分が埋め立てられている。

順天倭城の戦い

(この項の日付は和暦を用いる)

新城の完成後は、小西行長、松浦鎮信、有馬晴信、五島玄雅、大村喜前の五氏1万3千余人が在番していた。

1598年秋、明・朝鮮連合軍は朝鮮半島南岸の倭城群を攻略すべく総力を挙げての一大攻勢を企画し、東路軍、中路軍、西路軍、水軍、の4軍に編成されて南下を開始した。この内の、西路軍、水軍が順天に攻撃目標を定めた。西路軍は明軍21900人で劉テイが率い、朝鮮軍は5928人で権慄が率いた。水軍は陳リン率いる明水軍19400人、朝鮮水軍7328人は李舜臣が率いた。

1598年8月、明の西路大将劉テイは漢城を出発し水原を経て全州に下る。劉テイは使者を水軍の本営古今島に遣わし、陳リンに9月19日をもって水路から順天新城への攻撃を実施すべしと要求した。

攻城に先立ち、まず明、朝鮮軍は謀略を用いることとし、和議と称して会談を持ちかけ、そこで小西行長を生け捕りにしようする。9月18日、劉テイは書状を小西行長に送り「明日、順天旧城付近で会見し講和を結ぶべし。そのため、私は自ら単騎で途中まで貴公を迎えにゆこう」と伝えた。小西行長は劉テイを信じ会見に向かおうとした。これに対し松浦鎮信は「唐人は嘘偽りが多く、行けば必ず危うい。かつて平壌でも騙されたではないか」と諫止したが行長は聞かなかった。19日、劉テイは会見場所に向かう途中の道の周囲に伏兵を置いて待ち伏せ、偽の人物を立てて小西行長を迎えた。要請に応じた小西行長が平服で城を出て会見場所に向かおうとした。そこを伏兵が待ち伏せていたが、伏兵が起きるタイミングが早過ぎたためこの企ては失敗する。そのため正攻法に切り替えての攻城戦となる。

この日午後、地上から明・朝鮮軍が順天新城に進攻し、海上からも明・朝鮮水軍が砲撃を加えたが撃退される。続いて20日21日と明・朝鮮水軍が城に迫ったが、日本軍は防戦してこれを退け、明の遊撃李金が負傷する。

劉テイは一時攻城を中断して雲梯、飛楼、防車、防牌等の攻城具の制作に取り掛かった。

攻城具が完成すると、10月2日、明・朝鮮軍は水陸両面から総攻撃を仕掛けた。地上では攻城具を連ねて外郭部に攻めかかったものの、城からの日本軍の鉄砲による反撃は激しく多くの死傷者を出した。また日本軍は機を見て城から出撃して敵を斬り倒し、攻城具に火を放って焼き払った。この日地上では明・朝鮮軍は八百余人の戦死者を出して撃退された。また水軍による海上からの攻撃も撃退され、朝鮮水軍の蛇渡僉使黄世得が戦死、薺浦万戸朱義壽、蛇梁万戸金聲玉、海南縣監柳珩、珍島郡守宣義卿、康津縣監宋尚甫が負傷した。

3日、劉テイは陳リンに「今夜水陸共同で夜襲を決行すべし」と伝えた。ここにおいて陳リンは午後8時頃水軍を率いて上げ潮に乗じて進み、夜半城下に迫り日本軍と攻防戦となる。戦闘中俄に引潮となると、明水軍の唐船二十三隻(『宣祖実録』、李舜臣の『乱中日記』では沙船十九隻、號船二十餘隻)が浅瀬に座礁する。これを日本軍が炎上させた。明兵に死傷及び捕虜となるものが甚だ多く出て、生還した者は百四十余名に過ぎなかった。朝鮮水軍でも安骨万戸禹壽が弾丸に撃たれる。翌4日も明・朝鮮の水軍による攻撃は継続されたが、城の守りは堅く撃退された。

このように3日、4日と水軍は海上からの攻撃を実施した。にも係わらずこの間、劉テイの陸兵は動かなかった。これは満を持して行われた2日の攻撃の損害が大きかったことと、東方で泗川倭城を攻撃した中路軍が島津軍に大敗を喫しており、その敗報が伝わっていた事情がある。

10月7日になると、ついに包囲中の地上軍は撤退し、明軍は古順天に1万余を残し、劉テイ自身は富有まで撤退した。これにともない水軍も海上封鎖を解いて古今島まで撤退した。明軍の退路上には投棄された兵糧が散らばっており、この幾らかは日本軍が戦利品として入手した。こうして明、朝鮮の西路軍、水軍による順天城攻略作戦は失敗に終わった。

ほぼ同時期に行われた、中路軍による泗川倭城攻撃(泗川の戦い)や、東路軍による蔚山倭城攻撃(第二次蔚山倭城の戦い)でも敗退しており、1598年9月末から10月初頭にかけて実施された、明・朝鮮連合軍の総力を挙げての一大攻勢は日本軍の反撃の前にすべて失敗に終わった。明・朝鮮連合軍は順天城攻略失敗後、遠巻きに順天倭城を監視する体制に切り替えた。

順天城の戦い後の経緯

順天の戦いに先立つ8月、豊臣秀吉は既に死去していた。その死は朝鮮派遣軍には秘匿されたままだったが、ついに10月15日付けで撤退命令が出された。

これを受け小西らは明朝鮮軍との間に和議を締結し、人質を受領して撤退の手筈を整えた。ところが、いざ撤退となると明・朝鮮の水軍が再び出張って来て順天を海上封鎖して撤退を阻んだため、小西らは水軍と再交渉をして人質を受領して撤退を約したが明鮮水軍は撤退しなかった。

小西ら五氏の窮地を知った、島津義弘、宗義智、立花宗茂、高橋統増、寺沢正成らは、水軍を編成して順天へ救援に向かい、露梁海峡で明・朝鮮水軍と激突したのが露梁海戦である。小西行長、松浦鎮信、有馬晴信、五島純玄、大村喜前の五氏は戦いの間隙を縫って脱出に成功し、釜山を経て帰国を果たした。

関連項目

宇都宮国綱 - 『宇都宮高麗帰陣物語』は宇都宮国綱の軍功記。改易処分を受けていたが朝鮮での戦功次第では再興を許すとされ、順天城の戦いにも参加した。

外部リンク

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