神田川(かんだがわ)は、東京都を流れる一級河川。荒川水系の支流である。フォークグループかぐや姫の楽曲(神田川)になっていることでも有名である。
東京都三鷹市井の頭恩賜公園内にある井の頭池に源を発し東へ流れ、台東区、中央区と墨田区の境界にある両国橋脇で隅田川に合流する。流路延長24.6km、流域面積105.0km²と、東京都内における中小河川としては最大規模で、都心を流れているにも拘らず全区間にわたり開渠であることは極めて稀である。
かつては「神田上水」を取水し、江戸の水道として利用されていた。
神田川の元の名前は「平川」といい、現在の日本橋川の分流点付近から南流し、現在の丸の内・日比谷に入り込んでいた日比谷入江に注ぎ込む川であった。当時はこの平川が豊嶋郡と荏原郡の境界となっていた。
1590年(天正18年)に江戸に入府した徳川家康は、海辺で井戸によって真水を満足に得ることができない江戸の飲料水を確保するために平川を改修し、井の頭池と善福寺池、妙正寺池を水源とする神田上水を整備した。この改修により井の頭池を出て善福寺川、妙正寺川と合流する上流部分は現在の姿となり、神田上水は川の本流から目白で分流して小石川、本郷に水を供給した。また、後に水害対策として平川下流の流路を隅田川に通じる道三掘と新たに開削した江戸前島を貫通する流路(外濠)に流れるよう改修した。この内、明治以後に道三掘の西半分と外濠が埋められ、現在の日本橋川の河道が成立した。
二代将軍徳川秀忠の時代には、江戸城の東北の守りを固めるために平川を天然の堀とすることが企図され、小石川から南流していた流路を東に付け替える工事が行われた。この工事では、水道橋から東は神田台と呼ばれる台地が本郷から伸びていたため、これを掘り割って通し、現在の御茶の水に人工の谷を造成した。神田台の東では、元からあった川を利用して神田台から真東に浅草橋、柳橋の東で隅田川に合流するようにした。この改修によって、平川の元の河道は切り離されて江戸城の堀となり、東に流れるようになった平川は「神田川」と呼ばれるようになる。神田台の掘割の西には水道橋が架けられ、神田上水は日本橋まで給水できるようになった。後に日本橋の旧平川河道と神田川は再び結び付けられ、日本橋川となっている。
高度経済成長期には生活排水の流入により水質が悪化し「死の川」と呼ばれたが、周辺部に落合水再生センターなどの下水道網、下水道処理施設の整備が進み、元々湧水が多いことなどから近年は水質が大幅に改善し、鯉や鮎、鮒などが生息するようになった。鮎は1993年(平成5年)から毎年確認されている。
また、80年代以降の川岸整備の際に高戸橋から江戸川橋にかけて植栽された桜が大きく育ち、花見シーズンには多くの人が訪れる。
佃橋の下で玉川上水(清流復活事業)由来の下水処理水が流入
善福寺川合流
以前は、小沢川合流点であった。
以前は和泉川(他のWebページでは笹塚支流と称されているものが多い)が合流
以前は「神田上水助水路吐口」があった。
桃園川合流(末広橋横)
高田馬場分水路呑口
妙正寺川(旧)合流点
高田馬場分水路吐口・妙正寺川合流
以前の(神田上水)分岐点(堰の跡は現在もあり)
以前は、蟹川が合流
(どちらも)以前は、弦巻川合流・水窪川合流 点であった。
水道橋分水路呑口
水道橋分水路吐口
日本橋川分流
お茶の水分水路呑口
お茶の水分水路吐口