松本城(まつもとじょう)は、長野県松本市にある城で、国の史跡に指定されている。松本城となる以前は深志城(ふかしじょう)と呼ばれていた。市民からは別名烏城(からすじょう)とも呼ばれている。
日本国内に12基現存している、安土桃山時代後期から江戸時代にかけて建造された天守を有する城郭の1つである(現存12天守)。天守群は国宝に指定されている。
戦国時代の永正年間に、松本平の信濃府中(井川)に居を構えていた信濃守護家小笠原氏(府中小笠原氏)が林城を築城し、その支城の一つとして深志城が築城されたのが始まりといわれている。後に甲斐の武田氏の侵攻を受け小笠原氏は没落、武田氏は林城を破棄して深志城を拠点として松本平を支配下におく。武田氏滅亡後のШаблон:和暦、徳川家康の配下となった小笠原貞慶が旧領を回復し、松本城に改名した。
Шаблон:和暦の豊臣秀吉による小田原征伐の結果、徳川家の関東移封が行われ当時の松本城主小笠原秀政も下総古河へと移った。代わりに石川数正が入城し、石川数正とその子康長が、天守を始め、城郭、城下町の整備を行う。
その後、大久保長安事件により石川康長が改易となり、小笠原秀政が返り咲く。大坂の陣以後は、松平康長や水野家などの松本藩の居城として機能。水野家の後は松平康長にはじまる戸田松平家(戸田氏の嫡流)が代々居城とした。
Шаблон:和暦には本丸御殿が焼失、以後の藩政は二の丸で執務がとられた。
典型的な平城。本丸、二の丸、三の丸ともほぼ方形に整地されている。南西部に天守を置いた本丸を、北部を欠いた凹型の二の丸が囲み、更にそれを四方から三の丸が囲むという、梯郭式+輪郭式の縄張りを成している。これらは全て水堀により隔てられている。
5重6階の天守を中心にし、大天守北面に乾小天守を渡櫓で連結し、東面に辰巳附櫓、月見櫓を複合した複合連結式天守である。初期の天守に多く見られる、土壁の下部を板で覆った下見板張が特徴。
解体修理の時、幾つかの改築の痕跡が見つかっていることなどから創建当時は、望楼型で最上階には外廻縁高欄があり、各重の屋根には多くの破風を取り付けた姿であったと推定され、付櫓・月見櫓を増築した松平氏によって現在のような層塔型のように造りかえられたとみられている。
貞享騒動(加助騒動、嘉助一揆)の首謀者・多田嘉助が磔刑に処せられる際、天守を睨んで絶叫した怨念によって傾いたといわれる伝説は、城が傾き始めた明治になってから作られた伝説である。現在では、軟弱な地盤の上に天守の基礎工法として採用された天守台の中に埋めこまれた16本の支持柱の老朽化により建物の自重で沈み込んだ事が傾きの原因であるとみられている。
明治時代の二の丸の筑摩県庁火災で延焼しなかった御金蔵が現存している。
移築現存門としては、安曇野市内堀金地区に大手門二の門を移築したという伝承のある薬医門がある(安曇野市指定文化財。)。
また、松本市新村地区には、城の南門の扉を使用したという長屋門がある。この他にも、松本市及び周辺の市町村には松本城内にあった武家屋敷より移築したとされる民家の門が数多くある。