浦上教会(うらかみきょうかい、英語:Urakami Cathedral)は、日本の長崎県長崎市にあるキリスト教(カトリック)の教会堂である。
長崎市の観光名所のひとつにもなっており、一般的には浦上天主堂の名で知られている。1962年以降、カトリック長崎大司教区の司教座聖堂(カテドラル)となっており、所属信徒数は約7千人で、建物・信徒数とも日本最大のカトリック教会である。
教会の保護者
概説
浦上は長崎の北に位置する農村であり、キリスト教の日本伝来よりカトリック信者の多い土地であった。そのため江戸時代における異教禁制による隠れキリシタンの摘発も数回なされた土地であった。
鎖国解消に伴う長崎開港で、欧米人が長崎港の南の東山手・南山手に居住区を作り、その一角に1864年に大浦天主堂が造られた。それを知った浦上の住民は大浦に赴任した司祭(神父)ベルナール・プティジャンに密会して信仰を告白し、それがきっかけとなって社会へのカトリック信仰の顕在化が行われた。しかし明治政府も当初は江戸幕府と同様にキリスト教禁制を維持し、欧米政府からの反対を押し切って弾圧に踏み切り(浦上四番崩れ)、浦上の住民は各地に配流された。禁制解消後、半分近くまで減った信者が浦上の地へ戻り、1879年に小聖堂を築いたのが浦上教会の発端であった。その後、大浦天主堂から専任の神父が来て、翌年に浦上村の庄屋の跡地を買い取り、現在の地に移転した。
1895年
大聖堂の建設を始める。これは、大浦天主堂にも負けない東洋一の聖堂を目指して建設されたもので、完成までに19年の年月を要した。
1914年
大聖堂が完成、3月17日に献堂式が行われた。この日は、大浦天主堂での信仰告白からちょうど49年後にあたる「信徒発見の日」であった。
1945年
8月9日、長崎への原爆投下により、爆心地から至近距離に在った浦上天主堂はほぼ原形を留めぬまでに破壊された。投下当時、8月15日の聖母被昇天の大祝日を間近に控えて、ゆるしの秘跡(告解)が行われていたため多数の信徒が天主堂に来ていたが、原爆による熱線や、崩れてきた瓦礫の下敷きとなり、主任司祭・西田三郎、助任司祭・玉屋房吉を始めとする、天主堂にいた信徒の全員が死亡している。後に浦上を訪れた俳人、水原秋桜子は、被爆した天主堂の惨状を見て「
麦秋の中なるが悲し聖廃墟」と詠んでいる。
1958年
被爆した天主堂は翌年までに瓦礫を撤去し整備されたが、一部外壁の廃墟などは原爆資料保存委員会等の要請で被爆当時のまま仮保存されていた。保存の市民運動が起こり、長崎市議会も保存を決議したが、結局は撤去され、遺構の一部は近隣の
平和公園内に移設された。
※貴重な原爆遺構の破却に至った経過については2つの事情があった。
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浦上教区の信徒で編成された「浦上天主堂再建委員会」は現地に再建を決定、信徒からの浄財及び寄付金によって再築計画を明らかにする。だがその動きを覚知した原爆資料保存委員会は、『旧天主堂は貴重な被爆資料である故に遺構を保存したいので、再建には代替地を準備する』と提案するが、当時の長崎司教・山口愛次郎は、天主堂の立地には、江戸時代のキリスト教迫害時代の由緒ある土地を明治時代に労苦を重ねて入手したという歴史的な背景があり、保存委員会の意向は重々理解できるが移転は信仰上到底受け入れることはできないという意思を決定した(浦上天主堂公式サイトにも同様の経過が記載されている)。
- 当時の長崎市長・田川務は、米国セントポール市との姉妹都市締結を機に今後の日米関係など政治的背景を重視し、1958年の市議会で「原爆の必要性の可否について国際世論は二分されており、天主堂の廃墟が平和を守る唯一不可欠のものとは思えない。多額の市費を投じてまで残すつもりはない」と答弁し、議会決定に反して撤去を決定した。
被害当事者である浦上教会と、結果的にアメリカへの配慮を優先した田川市長の意向が共に破壊撤去を選択したため、旧天主堂の廃墟は撤去されてしまった。一部の遺構は保存されたとはいえ、広島県
広島市の『
原爆ドーム』(旧広島県産業奨励館)の様に爆心地付近の惨状をありのままの姿で後世に伝えることが出来る遺物を残さなかったこと、また原爆ドームが史跡やユネスコの世界文化遺産に登録されたこと等から、取り壊されたことを惜しむ声も未だに多い。
ただし、浦上教会信徒会館2階には再建時に発掘・収集された被爆物(溶けた聖母像や聖杯・ロザリオなど)を展示する資料室を併設しており、自由に見学が出来る。
1959年 11月1日、現在の浦上教会が旧天主堂の廃墟跡に旧天主堂を模して新築された。 1962年
1月1日、長崎大司教区の司教座聖堂に指定された(それまでの司教座聖堂は大浦教会(
大浦天主堂)であった)。
1981年 2月25日、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が訪日してミサを捧げ、司祭叙階を行った。翌年には教皇の胸像が入口右手に設置された。
被爆マリア像
1929年、聖堂に取り付けられた祭壇には木製の聖母マリア像が装飾されていた。
1945年の原爆投下により本堂は倒壊するが、戦後マリア像の頭部は神父によって瓦礫の中から発見される。
その後、トラピスト修道院や長崎純心女子大学(現:長崎純心大学)の教授・片岡弥吉によって保管され、1990年にマリア像は浦上天主堂に返還された。
現在ではこの聖母マリア像を世界遺産に登録するための運動も行われている。
ちなみにこの像のモデルはムリーリョの『無原罪の御宿り』とされている。
天主堂の鐘楼
アンジェラスの鐘とも呼ばれる。
原爆によって吹き飛ばされた天主堂の鐘楼の一部が、天主堂の北方約30mの地点に落下したものが現在でも現地で保存されている。被爆当時の位置は小川の中であったが、現在は川を整備して流れをずらすことで陸地に保存されている。被爆時のままに保存されている唯一の旧天主堂本体の遺構である。
所在地
〒852-8112 長崎県長崎市本尾町1-79
交通アクセス
- JR浦上駅から車・タクシーで約5分
- 長崎電気軌道「松山町」電停から徒歩8分
- 長崎県営バス・長崎バス「浦上天主堂前」バス停から徒歩1分
周辺
- カトリック長崎大司教館
- 長崎カトリックセンター
- 長崎カトリック神学院
- 如己堂
- 長崎南山中学校・高等学校
- 長崎市立山里小学校
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平和公園
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長崎原爆資料館
- 爆心地公園
外部リンク