忠犬ハチ公(ちゅうけんハチこう)の名で知られる、ハチ(1923年(大正12年)11月10日(12月16日とも) - 1935年(昭和10年)3月8日)は、秋田県大館市出身の秋田犬。
飼い主が亡くなった後も駅前で帰りを待ち続けた「忠犬」として有名になった。ゆかりの地には銅像があり、特に渋谷駅前の銅像は待ち合わせ場所の目印として全国的に有名(「渋谷ハチ公前」などと通称される)。
生涯
1924年から東京帝国大学農学部の教授、上野英三郎に飼われることになった。上野の存命中は、玄関先や門の前で上野を見送り、時には最寄駅の渋谷駅まで送り迎えすることもあった。上野の自宅は、現在の東急百貨店本店(旧大向小学校)周辺といわれている。
1925年(大正14年)5月21日に上野が急死した後も、毎日渋谷駅前で主人の帰りを待ち続けたといわれ、東京朝日新聞の記事により世間一般に知れ渡った。主人を慕うハチの一途な姿は人々に感銘を与え、「忠犬」と呼ばれるようになった。幾度となく、野犬狩りの危機にも陥ったが、近隣住民の配慮で免れた。
1935年(昭和10年)3月8日、渋谷川に架かる稲荷橋付近の路地で死亡。死後間もなく東京大学農学部において病理解剖が行われた。その結果、心臓と肝臓に大量のフィラリアが寄生し、そのために腹水が溜まっていた事が明らかになった。これが死因とする事が多い。しかし一方、胃の中に焼き鳥のものと思われる串が3
- 4本見つかっており、これが消化器官を傷つけていたという指摘もされている。遺体は剥製にされ、国立科学博物館に保存されている。
なお晩年の写真では左耳が垂れているが、これは生まれつきのものではなく、皮膚病による後遺症である。
忠犬説に対する異論
主人の生前も死後も毎日のように渋谷駅に現れる本当の理由は、駅前の屋台の焼き鳥屋から貰えるエサが目当てだったという説がある。この説は、ハチの死体を解剖した際に胃の中に細長い焼き鳥の串が数本突き刺さっていたという事実が元になっている。また渋谷出身で、生前のハチを実際に見ている鉄道紀行作家の宮脇俊三の著書『時刻表昭和史』にはハチを可愛がる駅周辺の人達が与えるエサが目当てであった(焼き鳥だけではない)という記述があり、この説の有力な根拠となっている。
ただし、実際のハチの行動からは、この説に矛盾する部分がいくつかある。
- 屋台が出ない朝9時にも必ず駅に通っていた。
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「ハチの渋谷駅へ行く日課は正確であった。小林宅を出るのは毎日午前九時ごろ。暫らくすると戻る。夕方は四時近くなると出かけ戻るのは午後五時過ぎから六時頃であった。
これは、故主、上野博士の朝出かける時間と夕方の帰宅時間であった」(『ハチ公文献集』より)
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焼き鳥を貰えるようになったのは駅通いしていた9年間のうち、新聞で有名になった最後の2年間のみであった。それ以前は、駅員や焼き鳥屋、子供など駅周辺の人々から邪険に扱われており、時には暴力を受けるほどの虐めを受けていた。
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二番目の飼い主の小林菊三郎からは大切に飼育されており、食事には牛肉を与えられ空腹になるということはなかった。(『ハチ公文献集』より)
- 駅に到着すると、上野博士が出てくる改札口前に座っていた。
- 駅に行く途中、必ず旧上野邸に立ち寄り窓から中を覗いていた。
ハチのことを新聞に投書した斎藤弘吉によれば、駅員やヤキトリ屋にいじめられるハチがかわいそうなので、日本犬の会誌にこのことを書いたが、より多くの人に知ってもらうためにと、朝日新聞に投書したという。斎藤は自著『日本の犬と狼』のなかで、次のように記している。
「(ハチは)困ることにはおとなしいものだから、良い首輪や新しい胴輪をさせると直ぐ人間に盗みとられる。(中略)また駅の小荷物室に入り込んで駅員にひっぱたかれたり、顔に墨くろぐろといたずら書きされたり、またある時は駅員の室からハチが墨で眼鏡を書かれ八の字髯をつけられて悠々と出て来たのに対面し、私も失笑したことを覚えている。夜になると露店の親父に客の邪魔と追われたり、まるで喪家の犬のあわれな感じであった」
「なんとかハチの悲しい事情を人々に知らせてもっといたわって貰いたいものと考え、朝日新聞に寄稿したところ、その記事が大きく取り扱われ、昭和七年十月四日付朝刊に『いとしや老犬物語、今は世になき主人の帰りを待ちかねる七年間』という見出しにハチの写真入りで報道され、一躍有名になってしまった。(中略)朝日の写真班員の来駅で駅長がびっくりしてしまい、東横線駅ともども駅員や売店の人々まで急にみな可愛がるようになってしまった」
「有名になるといつの世でも反対派が出るもので、ハチが渋谷駅を離れないのは焼鳥がほしいからだと言いだす者が出た。ハチに限らず犬は焼鳥が一番の好物で、私も小林君もよく買って与えていたが、そのためにハチが駅にいるようになったものでないことは前述の通りである」
– 斎藤弘吉著『日本の犬と狼』雪華社
以上から、焼き鳥は単にハチが死亡した時期にたまたま口にしていただけとも考えられる。
銅像
1934年(昭和9年)4月21日、渋谷駅前に銅像が建てられ、除幕式にはハチ自身も出席した。これは、彫塑家の安藤照が日本犬保存会からの依頼によりハチ公像を作っている最中に、ハチのことを託されたと主張する老人が現れ、ハチ公像を建てるために絵葉書を売り始めたからである。そのため、それより先に銅像を作らなければならなくなり、ハチが生きているうちに日本犬のイメージで銅像が建てられたのである。
ハチの銅像は第二次世界大戦中に金属資源不足により供出され、終戦前日の1945年(昭和20年)8月14日に鉄道省浜松工機部で溶かされ機関車の部品となって東海道線を走った。現在のものは安藤照の息子で彫刻家の安藤士が制作し、1948年(昭和23年)8月に再建されたものである。ハチ公美談は戦前に海外にも紹介されて知られており、戦後日本の占領に当たったGHQの中でハチ公の銅像の行方を知った愛犬家が有志を募り、再建の有形無形の力となった。再建時の除幕式には、GHQの代表が参列した。
駅前に像のある渋谷駅のJR東日本の改札口の一つは「ハチ公口」と名前がついている。再建当時は駅前広場の中央に鎮座し北を向いていたが、1989年(平成元年)5月に駅前広場が拡張された際に場所移動し、同時に東(ハチ公口方向)向きに修正された。
各地のハチ公像
秋田県大館市
ハチの生地・大館市のJR大館駅前にも銅像が建っており、同駅構内には「JRハチ公神社」がある。2004年(平成16年)には秋田犬会館前に「望郷のハチ公像」が建てられた。渋谷のハチ公や「望郷のハチ公像」は晩年のハチ同様に左耳が垂れているが、大館駅前のハチ公像は両耳とも立っている。
山形県鶴岡市
犬の石膏像が正体不明のまま鶴岡市役所藤島庁舎(旧藤島町役場)で保管されていたが、2006年(平成18年)、同市在住の薬剤師・高宮宏の手により、渋谷駅の2代目銅像を製作するときの試作品であることが判明した。安藤士は1947年(昭和22年)にこの石膏像を制作していたが、本体の銅像を制作した後にこの石膏像が藤島町出身の映画制作会社役員に引きとられ、その後持ち主を転々として最終的に藤島町役場で保管されているものだった。
2009年現在も、この石膏像は鶴岡市役所藤島庁舎で保管され、一般に展示されている。
石膏像が見つかった縁に加え、鶴岡市はハチの事を新聞に寄稿して有名にした日本犬保存会の初代会長・斎藤弘吉の出身地でもある事から、ハチ公石膏像の保存や普及、斎藤弘吉の偉業の普及、及びハチの兄弟子孫の調査活動などをする目的で、2006年(平成18年)11月3日、「鶴岡ハチ公像保存会」が設立され、高宮が初代会長に就任、副会長に勝木正人、事務局長に黒羽根洋司が就任した。
来歴
- 1923年11月10日 -
秋田県大館市大子内の斉藤義一(明石康元国連事務次長の母の実家)宅で生まれる。父は「オオシナイ(大子内)」、母は「ゴマ(胡麻)」といった。
- 上野は秋田犬の仔犬を飼いたいと思っており、ハチは世間瀬という人物によって上野のもとへ届けられた。
- 1924年1月14日、米俵に入れられ、急行第702列車の荷物車に載せられて大館駅を出発。20時間後、上野駅に到着。
- 上野宅で「ジョン」と「エス(S)」という二頭の犬たちと共に飼われた。ポインター犬のジョンは、ハチの面倒見がよかった。
- 1925年5月21日 -
上野英三郎が大学で急死。いくら待っても帰って来ない主人のことを憂ってか、ハチは3日間何も食べなかった。
- 5月25日 -
上野の通夜が行われる。上野が死んだことが解らないハチは、ジョンとSと一緒に上野を渋谷駅まで迎えに行った。
- 上野の妻、八重の親戚の日本橋伝馬町の呉服屋へ預けられるが、客に飛びついてしまうため、浅草の高橋千吉宅へ預けられた。
ハチのことで、高橋と近所の住人との間に対立が起こったため、ハチは再び上野宅へ戻った。しかし近所の畑で走り回り、作物を駄目にしてしまうので、富ケ谷に住んでいる上野宅出入りの植木職人、小林菊三郎のもとへ行った。
- 1927年 -
この年の秋、渋谷駅に程近い小林宅に移って以降、上野が帰宅していた時間に、ハチが渋谷駅でよく見かけられるようになった。
- 1932年 -
上野を迎えに来るハチのことを知っていた日本犬保存会初代会長の斎藤弘吉が、渋谷駅で邪険に扱われているハチを哀れみ、ハチのことを東京朝日新聞に寄稿した。これが「いとしや老犬物語」として新聞に載り、有名になったハチは渋谷駅の人々からかわいがられるようになり、これ以降、ハチ公と呼ばれるようになった。
- 1933年ごろ -
斎藤と親しい彫塑家の安藤照がハチの話に感動し、斎藤に像を作りたいと話し、それを知った小林は、モデルとなるハチを連れて初台にある安藤のアトリエに毎日通った。
- 1934年1月 - 忠犬ハチ公銅像建設趣意書が作られ、銅像建設の募金が始まった。
- 4月 - 渋谷駅前にハチ公像が建てられる(作:安藤照)。除幕式にはハチ公自身と300人もの著名人が参加した。
- 5月10日 -
安藤によって鋳造の忠犬ハチ公臥像が作られ、斎藤弘吉執筆のハチ事跡概要と共に、当時の昭和天皇・香淳皇后・貞明皇太后に献上された。
- 1935年3月8日 -
午前6時過ぎ、ハチは普段行かない渋谷駅の反対側の渋谷川に架かる稲荷橋近くにある、滝沢酒店北側路地入り口で死亡。11歳。
ハチの告別式は渋谷駅で盛大に行われ、八重や小林夫妻、駅や町内の人々が多数参列し、妙祐寺から僧侶が来て読経も行われ、人間さながらの葬儀が執り行われた。
- ハチは初めの飼い主の上野と同じ青山霊園に葬られ、亡骸は本田晋により剥製にされた。
- ハチの剥製は現在上野の国立科学博物館が所有している。
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ハチの臓器の標本が、東京大学農学資料館(弥生キャンパス農正門入ってすぐ右)に展示されている。寄生しているフィラリアが観察できる。
死後
- 1935年7月8日 - 渋谷のハチ公像と同じ型で作られた銅像が秋田の大館にも建つ。
- 1937年 - 尋常小学校2年生の修身の授業の教科書に「恩ヲ忘レルナ」というハチの話が載る。
- 1944年 - 太平洋戦争が激化し、民間からも金属を供出することになり、ハチ公像も供出される。
- 1945年8月14日 - 鉄道省浜松工機部でハチ公像は溶かされ機関車の部品となった。
- 1948年8月 - 安藤照の息子、安藤士によって、渋谷のハチ公像が再建される。
- 1948年8月30日 - ヘレン・ケラーが渋谷駅前を訪れ、ハチ公の銅像に触れる。
- 1987年10月 - 松竹映画『ハチ公物語』が公開される。
- 2003年10月12日 - ハチ公の生家前に、生誕80周年記念の石碑が建立される。
- 2004年10月 - 秋田犬会館前に「望郷のハチ公像」が建立される。
- 2006年11月3日 - 安藤士が制作した2代目ハチ公の試作品(石膏像)がある、山形県鶴岡市で「鶴岡ハチ公像保存会」が発足する。
- 2008年 - 松竹映画『ハチ公物語』のリメイク版『HACHI
約束の犬』(邦題)がリチャード・ギア主演でハリウッド映画化が決定。
- 2009年7月7日 -
リチャード・ギアが映画のPRのため来日し、渋谷駅前で行われた「ハチ公銅像訪問記念セレモニー」に出席した。そして、「ついに初めて本当のハチに会えました。今日は本当に幸せで、光栄な気分です」と語り、ハチ公像の首に花輪をかけた。
- 2009年10月14日 -
JR大館駅にあるハチ公神社のハチ公像が、全長85センチ、重さ30キロ、青銅製の2代目に生まれ変わった。
- 2009年11月9日 - ホリプロアイドルドッグ.jpサイトオープンを記念し、「第1回ベストアイドルドッグ」に認定される。認定式には、門外不出のハチ公の剥製が認定式に出席。榊原郁恵が上野の孫に認定証を授与。
ハチ公の映像と肉声
- 映画『あるぷす大将』 1934年
- 製作:P.C.L.映画製作所 配給:東和商事映画部 監督:山本嘉次郎
- 信州から上京した主人公が渋谷駅前でハチ公に遭遇。忠犬ぶりに感心して焼き鳥を与える場面。
- レコード『純情美談 忠犬ハチ公』1934年 キクスイレコード
- 制作:岸一敏 童謡:国松操
- 最後にハチ公の鳴き声が収録されている。後年、テレビ番組『トリビアの泉
〜素晴らしきムダ知識〜』でバウリンガルによる翻訳が試みられ、「さびしいよぉ~」という翻訳結果が得られている。
関連項目
参考文献
- 目撃者が語る日本史の決定的瞬間 別冊歴史読本 新人物往来社 ISBN 978-4-404-03601-8
- 遠藤秀紀 『解剖男』講談社現代文庫、2006年 ISBN 4-06-149828-2
- 宮脇俊三『時刻表昭和史』増補版 角川書店 1997年 ISBN 978-4048834810
- 林正春『ハチ公文献集』自費出版(非売品)1991年 全国主要図書館に寄贈
脚注
外部リンク