鳥取城(とっとりじょう)は、鳥取県鳥取市(旧・因幡国邑美郡)にある山城跡。中世城郭として成立、戦国時代には織田信長の家臣であった羽柴秀吉と毛利軍との戦いの舞台(鳥取城の兵糧攻め)となる。江戸時代には鳥取藩池田氏の治下に入り、近世城郭に整備された。現在は天守台、復元城門、石垣、堀、井戸等を残す。
戦国時代中頃の天文年間に因幡の守護である山名誠通が久松山の自然地形を利用した山城として築城したとされてきたが、近年の研究では誠通の因幡山名氏と対立する但馬山名氏(山名祐豊)の付城として成立した可能性が支持されている。正式に城主が確認されるのは、元亀年間の武田高信からである。高信は誠通の滅亡後、但馬山名氏の分家として再興された因幡山名氏の家臣であったが、しだいに力をつけ、永禄年間には鳥取城を拠点とした。湯所口の戦い以降、守護家に対して優勢になった高信は天神山城を攻撃し、因幡守護の山名豊数を鹿野城に逃亡させ、名目上の守護・山名豊弘を擁立し、下剋上を果たした。高信はその後も主筋の山名豊国(豊数の弟)としばしば対立し、安芸の毛利氏と誼を通じるようになる。
1573年(天正元年)、高信を討つために山中幸盛ら尼子残党と結んだ山名豊国の攻撃を受け、劣勢の高信は和議を結び城を明け渡すも、まもなく豊国により謀殺される。因幡山名氏の本拠も鳥取城にうつされるが、同年に後巻に進出した吉川元春に攻められ豊国は降伏、市場城主・毛利豊元が城主となる。しかし、1574年(天正2年)再度尼子残党に攻められ降伏、1575年(天正3年)、芸但和睦で毛利の力が鳥取に直接及ぶようになるとその手から逃れるため尼子残党が鳥取城を退き山名豊国が城主に落ち着く。
1580年(天正8年)に織田方秀吉の第一次鳥取城攻めで3か月の籠城戦(この時の籠城費用は全て豊国が負担)の末、和議により降伏し9月豊国が織田信長に臣従した。
が、同月毛利の来訪で再度の降伏、鳥取城は牛尾春重が城将として入った。この時点で豊国は因幡守護であるが鳥取城主ではなくなった。牛尾は織田方桐山城を攻めたとき深手を負い死亡したとも帰還したとも伝えられる。何人かの城将の入れ替えの末、1581年(天正9年)3月毛利氏重臣吉川経家を城主に迎える。
4月、因幡守護山名豊国は織田へ密使を送るが、市場城主・毛利豊元の家臣達に斬られたことで織田氏への内通が発覚、豊国は秀吉の下へ出奔する。残存する山名旧臣は毛利氏への従属を継続したため、信長の部将で中国地方の攻略を担当していた羽柴秀吉は二度目の鳥取城攻撃をすることとなる。秀吉は播磨・三木城攻め(三木合戦)で行った兵糧攻めをここでも実施した。陰徳太平記によると、秀吉は若狭から商船を因幡へと送り込み米を高値で買い占めさせる一方で、河川や海からの毛利勢の兵糧搬入を阻止した。このとき、城には20日分の兵糧しか用意されておらず、この作戦によりまたたくまに兵糧は尽き飢餓に陥った。何週間か経つと城内の家畜、植物などは食い尽くされ、4か月も経つと餓死者が続出し、人肉を食らう者まで現れた。信長公記にはこう記されている。「餓鬼のごとく痩せ衰えたる男女、柵際へより、もだえこがれ、引き出し助け給へと叫び、叫喚の悲しみ、哀れなるありさま、目もあてられず。」、吉川経家はこの凄惨たる状況に、自決と引き換えに開城、自害した。
経家や山名旧臣に代わり、浅井氏の旧臣で、秀吉の与力となっていた宮部継潤が城代として鳥取城に入り、織田勢の山陰攻略の拠点とした。その後継潤は豊臣政権に代わった1585年(天正13年)の九州征伐で功績を挙げ、正式に因幡・但馬のうち5万石を与えられ、鳥取城を本拠として城主となった。その後も継潤は、九州平定後五奉行として連署するなど(宮部法印 前田玄以 富田知信 増下長盛 石田三成)秀吉与力として重要な役割を果たし、隠居後は御伽衆として秀吉のそばに仕え、子の宮部長房が所領を受け継ぐが、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで西軍に所属したため改易。
代わって関ヶ原の戦いの功により近江甲賀郡水口から池田長吉(池田氏)が6万石で入り、彼によって近世城郭に改修された。1617年(元和3年)、池田光政が32万5千石で入府、彼によって城下町の整備が行われた。その後備前岡山藩に入っていた池田氏(長吉とは別系)と所領の交換が行われて池田光仲が入封、そのまま12代続いて明治維新を迎えた。
分かっているだけで山中幸盛に2度、吉川元春に2度、豊臣秀吉に2度と合計6度の降伏、力攻めによる落城がなかった堅城であったことが市民の誇りとなっている。
城は、1873年(明治6年)に公布された廃城令によって存城とされ、陸軍省の所管となり第4軍管に属した。1876年(明治9年)鳥取県が島根県に編入されると、県庁所在地(松江市)以外に城は必要なしとの観点より[]、陸軍省によってすべての建造物は払い下げられ1877年(明治10年)より1879年(明治12年)にかけて中仕切門を残して破却された。現在は天守台、石垣が残っており、国の史跡に指定されている。
2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(64番)に選定され、2007年(平成19年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された。
そして2005年には史跡鳥取城跡附太閤ヶ原保存整備基本計画が始まった。これは鳥取城を2006年度から30年の歳月と51億2千万円をかけ、幕末期の姿へ復元する計画である。これによれば、まずは2015年までに中之御門大手門登城ルート、追って御三階櫓等を復元する計画である。
標高263メートルの久松山頂の山上の丸を中心とした山城部、山麓の天球丸、二の丸、三の丸、右膳の丸などからなる平山城部からなる梯郭式の城郭とすることができる。さらに西坂・中坂・東坂などの尾根筋には戦国期の遺構が数多く残されており、戦国時代から近世、さらに幕末までの築城技術が一つの城地に残る城として貴重である。
藩政期の鳥取城の建造物については、数多くの古絵図が残されているほか、江戸後期の鳥取藩士・岡嶋正義の鳥府志に詳しく記述されている。
天守、車井戸、着見櫓、多聞櫓などの建物があった。東方に二の丸・三の丸と見なすことのできる2段の郭がある。山上の丸は高石垣で作られており、1501年(文亀元年)の大改築によって現在の姿が造られたらしい。本丸の一段下には出丸があり、馬場も設けられていた。
二の丸の一段上、平山城部の最高所にある。池田長吉の姉で若桜鬼ヶ城主・山崎家盛の夫人だった天球院が山崎家を去った後に居住していた。三階櫓、御風呂屋御門などの建物があり、池田光政入封後も天球院の居所が存在していたという。享保5年の石黒火事で焼失し、長らく放置されていたが、幕末には不穏な世情を背景にお稽古所が設置された。江戸中期の絵図には三階櫓や御風呂屋御門の姿が描かれていないのに、幕末の絵図になると再び描かれていることから、三階櫓や御風呂屋御門が幕末には再建されていたのではという説もある。
江戸時代には藩主の居館が置かれていたが、居館が三の丸に移ったあとは本丸と呼ばれるようになった(のち再び二の丸の呼称に戻る)。御三階櫓、走櫓、菱櫓などの建物があった。大手の入り口は鉄御門(くろがねごもん)。石黒火事で全焼したあと、御三階櫓と走櫓が再建されたのみで長らく放置されていたが、1844年(弘化元年)に二の丸御殿が再建された。1849年(嘉永2年)、御三階櫓の西方に右膳の丸が拡張された。右膳の丸には登り石垣が見られる。
江戸時代初め、池田長吉の頃は侍屋敷がおかれていたらしい。池田光仲の時代になり若君の居館や老公の隠居所となったが、1718年(享保3年)に拡張工事が行われ、藩主の居館が置かれた。それに伴い二の丸と呼称が改められたが、藩主の居館が再び二の丸へ移った幕末には三の丸の呼称に戻っている。最後の藩主・池田慶徳の代、文久年間に江戸小石川にあった水戸徳川家の松の御殿を移築したため、松の御殿と呼ばれることもあった。三の丸は現在は鳥取県立鳥取西高校の敷地となっている。
現在、鳥取西高校のグラウンドや久松公園になっている区画で、藩政時代は米蔵や武器蔵が建ち並び、馬場も置かれていた。米蔵があった関係上、一部の有力町人も出入りが許されていた。
西坂、中坂、東坂の3つの尾根筋を中心に戦国期の遺構も残されている。
この他、北方の稜線上にも多くの砦跡が残っている。なお山上の丸の直下に無数の削平地があるが、これらは羽柴秀吉の鳥取城攻撃の際に城内に避難してきた人々の駐屯小屋掛けの跡と伝えられている。