慶熙宮(キョンヒグン、けいききゅう、경희궁、Gyeonghuigung)はソウル市にある李氏朝鮮時代の宮殿で、光海君8年(1616年)に建立された。ソウルにある5大宮殿の中で西側に位置して西闕とも呼ばれ、塞門安大闕、塞門洞大闕、아주개大闕ともいった。朝鮮の離宮として慶運宮(徳寿宮)と虹橋で繋がっていた。李氏朝鮮後期には第2の宮殿とされ、非常時に王が移る場所とされた。大韓民国の史跡第271号に指定。
100以上の建物があったが、日本占領時代にほぼ完全に破壊され更地となった。跡地に日本人学校の京城中学校が建てられた。解放後にソウル高等学校となった。1980年ソウル高等学校の瑞草区への移転以後、ソウル市立美術館として使用されたが、再び建物を取り壊し慶熙宮を復元した。ソウル高等学校の別称と慶熙大学校の名称はここに由来する。
隆福殿、会祥殿、集慶堂、興政堂、正始閣、思賢閣、興化門などの建物があったが、壊されたり、日本によって強制的に移転されたりした。
興化門は光海君8年(1616年)に建てられた慶熙宮の正門。日本統治時代に移築され、安重根に射殺された伊藤博文を称えるために建てられた祠堂である博文寺正門として使われた。その後、奬忠洞・新羅ホテルの迎賓館正門として使用された。1988年 慶熙宮跡に再び移された。元々は救世軍ビルディングの位置にあった。
興化門内側の虹橋で、光海君11年(1619年)に建造された。日本統治時代に埋もれてしまったが2001年に発掘、復元された。
崇政殿は光海君8年(1616年)に建てられたもので、慶熙宮の正殿である。1926年に現在の東国大学校跡に移転した。
現在の慶熙宮に建てられたのは1988年から1994年の間に復元したものである。
現在『西闕図案』により復元されている。
現在『西闕図案』により復元されている。