三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)は青森県青森市の郊外にある、縄文時代前期中頃から中期末葉(約5500年前-4000年前)の大規模集落跡。所在地は青森市大字三内字丸山で、沖館川右岸の河岸段丘上に立地する。2000年に国の特別史跡に指定。遺跡跡には住居群、倉庫群のほか、シンボル的な3層の掘立柱建物が再現されており、資料館もある。2009年8月現在、青森県教育庁文化財保護課三内丸山遺跡保存活用推進室が発掘調査を行っている。
この地に遺跡が存在することは江戸時代からすでに知られており、山崎立朴が編纂した『永禄日記』の元和九年(1623年)正月二日条に多量の土偶が出土したことが記録されているほか、菅江真澄の紀行文『楢家の山』の寛政八年(1796年)四月十四日条に、三内の村の古い堰が崩れた場所から、瓦や甕、土偶のような破片が見つかったことが記録されている。
本格的な調査は新しい県営の野球場を建設する事前調査として1992年から行われた。その結果、この遺跡が大規模な集落跡とみられることが分かり、1994年には直径約1メートルの栗の柱が6本検出され、大型建物の跡とも考えられた。 これを受け同年、県では既に着工していた野球場建設を中止し、遺跡の保存を決定した。
その後、資料館を作って整備を行い、六本柱建物跡においては湿度を一定に保った保存ドームを作り、柱の現物は他の場所に保存しレプリカを代わりに元の場所に置く、ということなどを行った。また、墓の道の遺構が非常に長く延びていることが分かったため都市計画道路も建設を中止した。
八甲田山から続く緩やかな丘陵の先端に位置し、標高は約20メートルで、遺跡は約38ヘクタールの広大な範囲に広がっている。前期の集落は住居・墓・捨て場などから構成されている。中期には、住居・大型掘立柱建物・掘立柱建物・貯蔵穴・土坑墓・粘土採掘穴・盛り土・道路などが、前期同様計画的に配置されている。
この遺跡は現在の敷地から、広場を囲むように住居が造られた環状集落であると見られることもあるが、住居が非同心円状に機能別に配置されているところから見て、それとは異なる形式であると考えられる。現在の遺跡の環状構造はかつて野球場建設の際、その敷地が円形であった跡であり、遺跡とは関係ないものである。
遺跡には、通常の遺跡でも見られる竪穴住居、高床式倉庫の他に、大型竪穴住居が10棟以上、さらに祭祀用に使われたと思われる大型掘立柱建物が存在したと想定されている。遺跡から出土した栗をDNA鑑定したところ、それが栽培されていたものであることなども分かり、さらにはヒョウタン、ゴボウ、マメなどといった栽培植物も出土した。それらは縄文時代の文化が従来考えられているよりも進んだものであることを示すものであった。遺跡は他の近くの遺跡に繋がっている可能性が高く、未だに全容は把握しきれていない。
これほどの集落がなぜ終焉を迎えたのかは謎である。一因としては、気候の寒冷化などが挙げられるが、それだけで集落全土を手放すとは考えづらく、栗の栽培を停止しなければならない何か特別な理由があったという見解も示されてはいるが、それが何であるかは分かっていない。
出土遺物は段ボールで数万箱に及んだと言われる。土器、石器が中心であるが、日本最大の板状土偶などの土製品や石製品も多く出土している。この他にも北海道地域を中心とした交易で得たと推測される黒曜石、琥珀、漆器、翡翠製大珠などが出土している。出土遺物1,958点が2003年(平成15年)5月29日に国の重要文化財に指定された。
出土した動物の骨の7割弱がノウサギとムササビの骨であり、縄文人がノウサギやムササビの肉を食料としていたと推察でき、彼らの食生活の一端を伺い知ることができる。
現在まで三内丸山遺跡で検出された遺構の中で最も重要視されているものである。その柱の大きさで評価されることも多いが、それとともに注目されるのは、柱穴の間隔、幅、深さがそれぞれ4.2メートル、2メートル、2メートルで全て統一されていることである。
これは、その当時既に測量の技術が備わっていたことを示すものであり、ここに住んでいた人々が当時としては高度な技術的水準に達していたことを示すものである。特に4.2メートルというのは35センチメートルの倍数であり、35センチメートルの単位は他の遺跡でも確認されているので「縄文尺」ともいうべき当時のものさしとして何らかの技術の共有をしていた可能性が考えられている。柱本体にも腐食を防ぐため周囲を焦がすという技術を使っており、腐食を長い間防いだ一因となっている。
六本柱建物跡の復元に当たっては様々な意見が出された。建設する場所は六本柱建物のあったと推測される場所のすぐ脇に決まったものの、ただ柱が立っていただけなのではないかと言う意見や、逆に装飾具などもある非常に凝ったものだったのではないかと言う意見も出された。
考証と施工は小山修三の監修の下、大林組のプロジェクトチームが行ったが、結局、中間を取って屋根のない3層構造の建物になった。しかし床があるのに屋根がない、もしくは屋根がないのに床があるというのはどうしても中途半端な感が否めず、後々までこれでよかったのかと疑問の声が上がる原因となっている。なお、普段はここに登ることはできない。
三内丸山では幅10メートル以上の大型竪穴式住居跡がいくつも検出されているが、その中でも最大なものは長さ32メートル、幅10メートルのもので、これが復元されている。内部の見学も可能である。
三内丸山遺跡では、一般の住民が暮らしていたと思われる竪穴式住居跡も多数検出されている。屋根に関しては茅葺き、樹皮葺き、土葺きの3種類の屋根を持った住居をそれぞれ想定・復元した。これも内部見学が可能である。
東西約75メートル、南北約18メートルの範囲に掘立柱建物のものであると推測される柱穴群が検出されている。この掘立柱建物の柱穴の周辺及び内側には、生活の痕跡が確認できなかったため、この掘立柱建物は高床式建物であった可能性が高いと判断され、現在高床式建物として復元されている。階段があり、かつては内部を見学できたが、2001年9月27日に放火事件があった影響で、現在は立ち入りはできない。
道の跡周辺からは環状配石墓(ストーンサークル)も検出されている。この墓はムラ長の墓とも考えられている。石の並べ方が、南方のやや離れた所にある小牧野遺跡と共通しているとして注目されている。また、1999年10月6日にこの墓の一つから炭化材が出土したが、これは最古の「木棺墓」の跡であるとも言われる。
1998年に遺跡整備の基本計画が取りまとめられ、遺跡整備の基本方針として以下の点が掲げられた。
近年、三内丸山遺跡は「縄文時遊館」などの建設などで設備が整った。しかしその一方、遺跡の整備は進んだが、公園化されてしまって、遺跡としての感じが薄れてしまったという意見もある。有料化構想が出た際は「六本柱の横に白いドームがある状態など、とても縄文のたたずまいとは言えない」として反対論が噴出したりもした。結局有料化は断念となった。
2010年開業の東北新幹線・新青森駅開業に伴う「三内丸山高架橋」の完成により、車内から遺跡を見渡せるようになると予想される。