円明園(えんめいえん)は中華人民共和国北京市海淀区に位置する清代に築かれた離宮の遺構である。面積は3.5km2に及ぶ。
1709年(康熙48年)、清朝4代皇帝康熙帝が、皇子の胤Шаблон:Lang(いんしん)に下賜した庭園がその起源となる。胤禛が皇帝(雍正帝)に即位、1725年(雍正3年)以降様々な建物が増築され、庭園も拡張された。
乾隆帝の時代には、円明園の東に長春園、南東に綺春園(のちに万春園と改称)が設けられた(この円明園、長春園、綺春園を総称して、広義の円明園となる)。長春園の北側には、イエズス会士のブノワ、カスティリオーネらが設計にかかわった噴水が設けられ、西洋風の建物が建てられた。嘉慶帝の時代にも大規模な修築が行われ、揚州から最高級の建具が取り寄せられた。そして、文源閣には四庫全書の正本が収められた。
ヨーロッパでは"Old Summer Palace"などの名で紹介された。
しかし、1856年(咸豊6年)に勃発したアロー戦争(第二次アヘン戦争)に際して、北京までフランス・イギリス連合軍が侵入、徹底的に破壊し、円明園は廃墟となった。その後も、義和団事件などの戦乱や文化大革命などにより、円明園は興廃したまま放置された。
1984年に遺跡公園建設が始まり、一部の地域が修復、整備された。1988年に国の重点保護文化財に指定され、愛国主義教育の象徴として、そして観光資源として数多くの観光客を集めている。
現在では、廃墟のまま保存すべきか、一部でも復元すべきか中国国内で議論されている[1]が、2007年に中国当局は2008年から200億元をかけて復元工事を行うことを発表した[2]。
中国政府は、近年になって略奪された宝物などの回収に本腰を入れており、これまでに海晏堂にあった噴水時計に設置されていた十二支像のうち丑、申、寅、亥、午は中国企業が約10億3400万円で購入して中国政府に返還した。2009年2月にイヴ・サン=ローランが所有していた卯と子の像が競売にかけられる事が判明し、中国側は購入のため交渉に乗り出した。結局、2月25日に銅像はそれぞれ1570万ユーロで民間組織「海外流出文化財救出基金」の顧問を名乗る蔡銘超により落札されたが、「金を払うつもりはない。中国人としての責任を果たしただけだ」と語った[3]。 所有者だったサン=ローランのパートナー、ピエール・ベルジェが「中国が人権を守り、ダライ・ラマ14世がチベットに帰還出来るなら中国政府に銅像を引き渡してもいい」[4]と発言したこともあり、清朝は既に消滅したとはいえ、カエサルのものがカエサルへ返されない状況下、中国は反発を強めている。