姫路城(ひめじじょう、Himeji Castle, Himeji-jo)は、兵庫県姫路市(播磨国飾東郡姫路)にあった城。江戸時代初期に建てられた天守や櫓等の主要建築物が現存し、ユネスコの世界遺産や日本国の特別史跡となっている。
姫路城は、現在の姫路市街の北側にある姫山および鷺山に築かれた平山城である。日本における近世城郭の代表的な遺構である。
この歴史は中世に赤松氏が姫山に城を築いたことから始まる(異説もある)。戦国時代後期には羽柴秀吉が居城し、江戸時代には姫路藩の藩庁として最初は池田氏、のち本多氏や酒井氏などの譜代大名が入城した。明治時代には陸軍の兵営地となり、歩兵第十連隊が駐屯していた。この際に多くの建物が取り壊されたが、大小天守群、櫓群が当時の陸軍省の働きかけによって名古屋城とともに国費によって保存される処置がとられ、太平洋戦争においては空襲に見舞われたものの焼失を免れた。
現在では天守を始め多くの建造物が現存し、うち大天守、小天守、渡櫓等8棟が国宝、74棟の各種建造物(櫓・渡櫓27棟、門15棟、塀32棟)が重要文化財に指定されている。またШаблон:和暦、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。現存天守は、江戸時代以前に建造された天守が現存する日本国内12箇所の城の一つであり、いわゆる「国宝四城」(通例として、国宝指定の天守を持つ城のことを指し、姫路城・松本城・彦根城・犬山城をいう)の一つでもある。
江戸時代や戦国時代を舞台とした時代劇を始めとして映画などのロケが行われることも多く、しばしば江戸城など他の城の代わりとして撮影されている。
姫路城天守の置かれている「姫山」は古名を「日女路(ひめじ)の丘」と称した。播磨国風土記にも「日女道丘(ひめじおか)」の名が見られる。姫山は桜が多く咲いたことから「桜木山」、転じて「鷺山(さぎやま)」とも言った。天守のある丘が姫山、西の丸のある丘が鷺山とすることもある。
通称「白鷺城」の由来は以下のような説が挙げられている。
白鷺城は「はくろじょう」の他に「しらさぎじょう」とも読まれることがあり、村田英雄の歌曲に『白鷺(しらさぎ)の城』というものもあるが、日本の城郭の異称は音読みするのが普通である。
他にも以下のような別名がある。
出世城 羽柴秀吉が居城し、その後の出世の拠点となったことから呼ばれる。 不戦の城 築城されてから一度も(外敵との)戦闘を行なわなかったことから。姫路城の築城者は南北朝時代・Шаблон:和暦の赤松貞範とする説が有力であり、『姫路城史』や姫路市ではこの説を採っている。一方で赤松氏時代は砦と呼ぶべき小規模なもので、「城」と呼べる規模の構築物としては、16世紀に播州平野に割拠した小寺氏の被官である黒田重隆が築城したのが最初であるという異説もある。
山陽道上の交通の要所・姫路に置かれた姫路城には黒田氏や羽柴秀吉(豊臣秀吉)が城主として入り、江戸時代には池田輝政によって今日見られる天守等が築かれた。輝政およびその子・孫以降は親藩松平氏や譜代大名が配置され、さらに西国の外様大名監視のために西国探題が設置された。
播磨国の歴史も参照。
築城は南北朝時代、赤松則村(円心)が姫路山上に築いた称名寺をもとに、Шаблон:和暦の赤松貞範による築城説が有力である。室町時代のШаблон:和暦の嘉吉の乱で赤松氏が没落すると、一時山名氏が入るが、応仁の乱で山名氏は細川氏が対立し力を弱め、細川方についた赤松氏が播磨を奪還した。
16世紀前半、御着城(現在の姫路市御国野町御着)を中心とした赤松支族の小寺氏が播州平野に台頭、その被官であった黒田重隆が城代として姫路城に入った。重隆によって居館程度の規模であった姫路城の修築がある程度行われ、姫山の地形を生かした中世城郭となったと考えられている。
Шаблон:和暦まで黒田氏が代々城代を勤め、重隆の子職隆、孫の孝高(官兵衛、如水)に伝えられた。
Шаблон:和暦に織田信長の命を受けて羽柴秀吉が播磨に進駐すると、播磨国内は織田氏につく勢力と中国地方の毛利氏を頼る勢力とで激しく対立、最終的には織田方が勝利し、毛利方についた小寺氏は没落した。ただし小寺氏の被官でありつつも早くから秀吉によしみを通じていた黒田孝高はそのまま秀吉に仕えることとなった。
Шаблон:和暦、黒田孝高は秀吉に「本拠地として姫路城に居城すること」を進言した。秀吉は、同年4月から翌年3月にかけて行なった大改修により姫路城を姫山を中心とした近世城郭に改めるとともに、当時流行しつつあった石垣で城郭を囲い、さらに(三層と伝えられる)天守を建築した。あわせて城の南部に大規模な城下町を形成させ、姫路を播磨国の中心地となるように整備した。この際には姫路の北を走っていた山陽道を曲げ、姫路の城下町を通るようにも改めている。同年10月28日、龍野町(たちのまち)に、諸公事役免除の制札を与える。この最初の条文において、「市日之事、如先規罷立事」とあることから、4月における英賀(あが)落城の際に、姫路山下に招き入れ市場を建てさせた英賀の百姓や町人達が龍野町に移住したとする説がある。
Шаблон:和暦6月、秀吉は主君・信長を殺害した明智光秀を山崎の戦いで討ち果たし、一気に天下人への地位を駆け上っていく。このためШаблон:和暦には天下統一の拠点として築いた大坂城へ移動、姫路城には弟・豊臣秀長が入ったがШаблон:和暦には大和郡山へと転封。替わって木下家定が入った。
Шаблон:和暦、木下家定は備中足守に2万5,000石で転封、代わって池田輝政が関ヶ原の戦いの戦功で52万石(播磨一国支配)で入城した。輝政は徳川家康の意を受けてШаблон:和暦から大改修を行ない、8年掛けて広大な城郭を築いた。普請奉行は池田家家老伊木長門守忠繁、大工棟梁は桜井源兵衛である。作業には在地の領民が駆り出され、築城に携わった人員は延べ4千万人 - 5千万人であろうと推定されている。
現在の城郭は、関ヶ原の戦いの後、家康が(豊臣恩顧の大名が多い)西国を牽制する目的で築かせた城である。城主が幼少・病弱・無能では牽制任務を果たせないので、担当する大名が頻繁に交替している。
姫路藩の歴史も参照。
Шаблон:和暦、池田氏は跡を継いだ光政が幼少であり、重要地を任せるには不安である事を理由に因幡鳥取へ転封させられ、伊勢桑名から本多忠政が15万石で入城した。
Шаблон:和暦には千姫が本多忠刻に嫁いだのを機に西の丸が整備され、全容がほぼ完成した。
要衝姫路の藩主は親藩および譜代大名が務めたが、本多家の後は奥平松平家、越前松平家、榊原家、再度越前松平家、再度本多家、再度榊原家、再々度越前松平家とめまぐるしく入れ替わる。Шаблон:和暦上野前橋城より酒井氏が入城してようやく藩主家が安定する。しかし、豪壮な姫路城は石高15万石の姫路藩にとっては非常な重荷であり、譜代故の幕府要職も相まって藩の経済を圧迫していた。
姫路城は江戸時代にもたびたび修理が行なわれてきたが、当時の技術では天守の重量に礎石が耐えられず沈み込んでいくのを食い止める事は難しかった。加えて柱や梁などの変形も激しく、俗謡に『東に傾く姫路の城は、花のお江戸が恋しいか』などと歌われるありさまであった。
幕末期、鳥羽・伏見の戦いにおいて姫路城主酒井忠惇は老中として幕府方に属し将軍徳川慶喜と共にあったため、姫路藩も朝敵とされ姫路城は岡山藩と龍野藩を主体とする新政府軍の兵1,500人に包囲された。この時、輝政の子孫・池田茂政の率いる岡山藩の部隊が姫路城に向けて数発空砲で威嚇砲撃を行なっている。その中に実弾も混じっており、このうち一発が城南西の福中門に命中している。両者の緊張は高まり、新政府軍の姫路城総攻撃は不可避と思われたが、摂津国兵庫津の勤王豪商・北風荘右衛門貞忠が、15万両に及ぶ私財を新政府軍に献上してこれを食い止めた。この間に藩主の留守を預かる家老達は最終的に開城を決定、城明け渡しで新政府に恭順する。こうして姫路城を舞台とした攻防戦は回避され、後年の世界遺産は戦火を逃れた。
Шаблон:和暦に廃藩置県が実施され、さらにШаблон:和暦の廃城令によって日本の城の多くがもはや不要であるとして破却された。姫路城は競売に付され、城下の米田町に住む個人、神戸某が23円50銭で落札した。城の瓦を売るのが目的であったという。しかし、解体費用がかかりすぎるとの理由で結局そのままにされ、権利も消滅した。その後Шаблон:和暦、その個人の息子が、姫路城の所有権を主張して訴訟を起こそうとしたと報じた新聞があったが、別の新聞が後日取材したところでは事実無根だという話であったという。
城跡は陣地として好適な場所であった事から、陸軍の部隊は城跡に配置される例が多かった。Шаблон:和暦には姫路城内に歩兵第十連隊が設置された。この際、本城などの三の丸の建物や武蔵野御殿、向屋敷などの数多くの建物が取り壊された。さらにШаблон:和暦には失火で備前丸を焼失している。
一方で、明治時代初頭の大変革が一段落付いたШаблон:和暦頃には、日本の城郭を保存しようという動きが見られるようになった。陸軍において建築・修繕を担当していた中村重遠(しげとお)工兵大佐は、Шаблон:和暦に陸軍卿山縣有朋に名古屋城および姫路城の保存を太政官に上申するよう願い出て、ようやく姫路城の修復は第一歩を踏み出した。姫路城の菱の門内側には中村大佐の顕彰碑が残る。だが、肝心の予算はなかなか下りず、陸軍の予算からどうにか捻出された保存費は要求額の半分にも満たないものであった。これによってどうにか応急的な修理を施したもののなおも腐朽は進む一方であり、城下各地の有志達の衆議院への陳情によってようやくШаблон:和暦、国費9万3千円が支給されて「明治の大修理」が行われた。これも天守の傾きを修正するには費用が足りず、傾きが進行するのを食い止めるに留まった。その後、Шаблон:和暦にも陸軍省が西の丸を修理している。後に第十連隊は岡山へ移転した。
太平洋戦争にあって姫路城の白壁は非常に目立ち、また、陸軍の部隊が置かれていた姫路はアメリカ軍の爆撃対象とされることは明らかであったため、黒く染めた網で城の主要な部分を覆い隠す事とした。しかし、Шаблон:和暦7月3日の姫路大空襲で姫路城下は灰燼と帰する。城内にも着弾するが本城跡に有った中学校校舎のみが焼失しただけで、西の丸に着弾した2発は不発あるいはすぐに消火された。また大天守にも焼夷弾が直撃したものの、不発だったなど、城本体は奇跡的に炎上を免れた。翌朝、焦土の中に無事に建つ姫路城を見て、城下の人々は涙したという。
姫路城は貴重な文化財なので爆撃対象とはされなかったという俗説があるが、日本の他の都市やドイツにおける無差別爆撃では歴史的建造物も容赦なく破壊されたことから、そのような考えはなかったとするのが一般的である(ラングドン・ウォーナーの項も参照)。また、当時のB-29搭乗員は「レーダーから見れば城も輝く点の一つであり、それを歴史的建造物と認識するのは難しい」と回顧している。
Шаблон:和暦に姫路城は史跡に指定され、文部省の管理となる(実際の管理は姫路市)。次いでШаблон:和暦1月、大小天守など8棟が国宝に指定され、同年12月には渡櫓、門、塀等74棟も国宝に指定される。ただしこの時点での「国宝」は「旧国宝」と呼ばれるもので、Шаблон:和暦施行の文化財保護法における重要文化財に相当するものである。
昭和の大修理はШаблон:和暦6月20日、西の丸の渡櫓が豪雨のため石垣もろとも崩壊したのを契機に開始された。第一期工事は1935年から1950年3月まで行なわれることとなった。全ての建物を一度解体してから部材を修復し、再度組み立て直すという方法がとられることとなった。先に天守以外の建物を手がけることとしたが、Шаблон:和暦太平洋戦争の戦局悪化により中断を余儀なくされる。幸い先述したように空襲の危機を免れ、Шаблон:和暦に大修理(第二期)は再開される。この工事は1956年3月末まで行なわれ、Шаблон:和暦までに天守以外の修理を完了した。
Шаблон:和暦より天守大修理に着手することとなる。特に天守においては、その全体に巨大な素屋根を掛けて解体・修復工事が行われた。これによって構造物に書き込まれていた様々な文書が発見され、姫路城の研究に大きく役立てられた。一方で基礎は礎石を撤去し、新たに十弁式定盤基礎という鉄筋コンクリート製の強固な基礎構造物が姫山の岩盤上に直接構築された。礎石のままでは天守の重量を支えきれないためである。このとき、羽柴秀吉が城主だったころ築かれた天守の礎石や石垣が地下から発見された。
天守を解体した時、これを支えていた東西の「心柱」のうち、西の心柱が芯から腐って再利用不能であると判断された。ただちにこれに替わる巨木探しが始まった。兵庫県神崎郡市川町の笠形神社境内の檜が検討されたが、上部に曲がりと根本に腐っている疑いとがあって保留された。Шаблон:和暦になってようやく、岐阜県恵那郡付知町(現中津川市)の山中に最適な檜が発見された。ところが、これは切り出す途中に折れてしまい、その近くで発見されたもう一本は森林鉄道を用いて運搬する途中で、そのあまりの長さ故に折れてしまう。窮余の策として二本目の根本側と笠形神社の檜とを継ぎ合わせて使用される事となった。実は本来の西心柱も二本継ぎで作られており、西心柱は構造上中央部で分割しないと立ち上げ時に先に組み上げられた東心柱に干渉し、狭い作業空間内で正しく組み上げられないのであった。これらの檜は姫路市民総出で大手前通りを祝い引きされ、姫路城内へと運び込まれた。
天守の修理に当たっては、他に重量低減のため特に工夫を加えて焼成された軽量瓦や、耐震補強のための金具類が新たに使用されている。一方で石垣などそのままで差し支えないと判断されたものはほとんど手を加えられていない。天守の修理はШаблон:和暦竣工(完了)した。
天守の工事費は約5億3,000万円であった。戦前修理分の費用を物価換算して、戦後の費用と合計すれば約10億円(1964年当時の価格)に相当すると考えられている。
Шаблон:和暦、世界遺産(文化遺産)に登録された。
Шаблон:和暦4月6日、日本100名城(59番)に選定され、Шаблон:和暦6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された。
Шаблон:和暦3月、ミシュランガイド(観光地)日本編において最高評価の3つ星に選定された。
上記の「昭和の大修理」により「50年は保つ」といわれていたが、大修理から45年が経過し漆喰や木材の劣化が進んだため、大天守の白漆喰の塗り替え・瓦の葺き替え・耐震補強を重点とした補修工事が予定されている。Шаблон:和暦度着工、Шаблон:和暦度竣工予定。事業費は28億円(素屋根工事費12億6千万円・補修工事費15億4千万円)と見積もられている。。
工期中も工事や安全に支障がない範囲で大天守内部の公開は続ける。大天守を覆うように素屋根を設置するため天守からの展望や外観の展望は望めないが、修復作業を見学出来る「見せる修復」も検討されている。
典型的な平山城。天守のある姫山を中心として、その周囲の平地まで含めた縄張となっている。全体としては、姫山の北方を起点に左回りに3重の螺旋を描くような構造であり、梯郭式縄張を成す。1周目を「内曲輪(くるわ)」、2周目を「中曲輪」、3周目を「外曲輪」という。曲輪とは区画の事である。現在では内曲輪の範囲が姫路城の範囲として認識されている。中曲輪・外曲輪は周囲の地形を利用し城下町を内包した「総構え」である(詳しくは後に述べる)。内曲輪以内の面積は23ヘクタール(230,000m2)、外曲輪以内の面積は233ヘクタール(2,330,000m2)となっている。
内曲輪の内部においても、さらに本丸・二の丸・三の丸・西の丸・出丸(御作事所)の5重構造になっている。内曲輪には他に水曲輪・腰曲輪・帯曲輪などがある。これらはいの門・ろの門などいろは順に名付けられた門によって細かく区切られている。現在は三の丸は広場に、出丸は姫路動物園の一部になっている。内曲輪における櫓や門の位置関係については右の画像の説明文を参照のこと。
輝政による築城はちょうど関ヶ原の戦いと大坂の役の間であり、ゆえに極めて実戦本位の縄張となっている。同時に優美さと豪壮さとを兼ね備えた威容は、「西国将軍」輝政の威を示すものでもある。姫路城以降は元和元年(1615年)の徳川幕府による一国一城令によって幕府の許可なく新たな築城や城の改修・補修が出来なくなったこともあり、江戸城や名古屋城といった徳川氏による築城を除いては姫路城に続くほどの規模の城は現れていない。
姫山北部には、築城以前の姿のままで残されている「姫山原生林」がある。この原生林の中には、本丸からの隠し通路の出口があるという噂があるが、今のところその存在は確認されていない。三の丸からは西の丸の石垣下にある鷺山口門が内堀に通じていた。
姫山の西を流れる船場川は、内堀に寄り添う形で流れており、堀同様の役割を果たしている。かつてはその名の通り水運のために利用されていた。
通路は迷路のように曲がりくねり、広くなったり狭くなったり、さらには天守へまっすぐ進めないようになっている。本来の地形や秀吉時代の縄張を生かしたものと考えられている。門もいくつかは一人ずつ通るのがやっとの狭さであったり、また、分かりにくい場所・構造をしていたりと、ともかく進みづらい構造をしている。当然これは防御のためのものであり、敵を迷わせ分散させ、袋小路で挟み撃ちにするための工夫がなされている。
例えば、現在の登城口(三の丸北側)から入ってすぐの「菱の門」からは、真っ直ぐ「いの門」・「ろの門」・「はの門」の順に進めば天守への近道のように見えるが、実際は菱の門から右手に進んで石垣の中に隠された穴門である「るの門」から進むのが近い。るの門は土砂で封鎖してしまえる埋門(うずみもん)でもあった。「はの門」からにの門へ至る通路は守り手側に背を向けなければ進めない。「ほの門」は極端に狭い鉄扉である。その後は天守群の周りを一周しなければ大天守へはたどり着けないようになっている。
画像の「菱の門」は伏見城から移されたという伝承があり、長押形の壁に華灯窓を配した古式な姿を残している。また、「との一門」は置塩城から移築したという伝承があり、壁が板張りで、門の下側にいる敵を弓矢や槍などで攻撃できる「石落し」がないなど古風な様式で、城内に現存する門の中でも異色の存在である。
姫路城の天守は江戸時代のままの姿で現在まで残っている天守の一つであり、まさしく姫路の象徴である。
姫路城の天守は姫山の頂上に設けられた天守台の上に、Шаблон:和暦の春、羽柴秀吉が(現在の大天守の位置に)三重天守を構えたのが始まりである。その後池田輝政によって解体、用材は乾小天守に組み直されて現在に姿を残している。
天守の構造は、天守台上に5重6階、天守台中に1階(計7階)(5重6階地下1階・5層6階地下1階)の大天守、3重の小天守3基(東小天守・西小天守・乾小天守)で構成され、天守の間を2重の渡櫓で結んでいる。この構成を「連立式天守」という。入母屋造りの建物を基部とする望楼型天守で、建設時期や構成からさらに後期望楼型に分類することがある。全体が白漆喰総塗籠(しろしっくい そうぬりごめ)の大壁造で、防火・耐火・鉄砲への防御のための構造に加え、美観を兼ね備えるためのものであると考えられている。天守を支えるために、各階の屋根を少しつづずらし、重さを分散させている。地下から6階床下まで大天守を貫く心柱は東西に2本あり、太さは根元で直径95センチメートル高さ24.6メートルの木材が使用されているが、うち、西大柱は従来の材が継がれたものであったため一本材に取り替える際に折れたため3階床下付近で継いでいる。
その外観は、ほかの城の天守と比較しても多様性に富む。屋根の外見も大きく、緩やかな曲線を描く唐破風(からはふ)、山なりの千鳥破風(ちどりはふ)、複数層にまたがる大入母屋破風といった具合である。ほとんどの窓は、最上階を除いて格子がはめ込まれているが、大天守2重目南面では唐破風下に出格子(でごうし)を設けている。また、釣鐘のような形の華灯窓(かとうまど)を西小天守、乾小天守の最上階に多用している。華灯窓は同様の後期望楼型天守である彦根城天守や松江城天守などにも見られる。乾小天守の華灯窓には、「物事は満つれば後は欠けて行く」という考え方に基づき未完成状態(発展途上状態)を保つため格子を入れていないという。
大天守の内部は、地下にはトイレや流しを設け台所を付属させ、地上1階・2階は同様の構造で、身舎の周りに武者走りを廻し、鉄砲や槍などが掛けられる武具掛が付けられている。3階も武者走りがあるが、それに加えて破風部屋と武者隠(むしゃがくし)と呼ばれる小部屋が数箇所設けられている。また、石打棚(いしうちだな)という中段を窓際に設けて、屋根で高い位置に開けられた窓が使えるように高さを補っている。4階にも同様に石打棚がある。5階を経て、最上階は部屋の中央に柱を立てず、書院造の要素を取り入れ長押や棹縁天井など住居風の意匠を用いている。
姫路城の天守は姫山(標高45.6m)の上に建っており、姫路城自体の高さは、石垣が14.85m、建物が31.5mなので合計すると海抜92mになる。天守の総重量は、現在はおよそ5,700tである。かつては6,200tほどであったとされるが、「昭和の大修理」に際して過去の補修で充てられた補強材の撤去や瓦などの軽量化が図られた。今日では天守内には姫路城にまつわる様々な物品が展示されている。
西の丸には現在は渡櫓とこれを結ぶ長局(ながつぼね)、そして、その北端に位置する化粧櫓のみが残っている。長局には侍女達の部屋がある。化粧櫓は本多忠政が伊勢桑名から移ってきた時に、千姫の化粧料10万石でШаблон:和暦に建てられたものである。千姫は西の丸内に設けられた中書丸(天樹院丸)と三の丸脇の武蔵野御殿に住んでいたが、いずれも現在は失われている。戦前の修理までは、化粧櫓にはその名の通り当時の化粧品の跡が残っていたという。
天守の北側にある腰曲輪(こしくるわ)には、籠城のための井戸や米蔵・塩蔵が設けられている。なお平時に用いる蔵は姫山の周囲に設けられていた。
天守の下は岩盤で井戸が掘れず、そのため天守と腰曲輪の間の補給の便のため水曲輪を設け、「水一門」から「水五門」までの門を設けている。
腰曲輪の中、ほの門内側、水一門脇に5.2メートル分だけ、油塀(あぶらべい)と呼ばれる塀がある。白漆喰で塗られた土塀ではなく、真壁造りの築地塀である。製法については油若しくはもち米の煮汁を壁材に練ったことからと考えられている。理由については、秀吉時代の遺構という説があるが、防備の上で特に高い塀を必要としたという説がある。
天守の南東にある帯曲輪(おびくるわ)は城の防御において射撃などを行なう場所として築かれた。1重1階地下1階の帯郭櫓と1つの井戸が設けられている。櫓は外側の見た目では平櫓であるが、内側からは2重の多門櫓に見える。
帯曲輪が俗に「腹切丸」と呼ばれる由来としては、建物の形状やその場の雰囲気などから切腹の場を連想させることにより呼ばれるようになったと見られており、実際に切腹が行なわれたことは考え難いという見解がある。
城壁には数多くの丸・三角・長方形の穴が開いている。これは狭間(さま)という射撃用の穴で、長方形のものが「矢狭間」、他が「鉄砲狭間」である。長方形の狭間は他の城にもよく見られるが、様々な形の狭間をアクセントとして配置してあるのは独特である。狭間は姫路市内においても公共施設のデザインに組み込まれている。さらに天守の壁に隠した隠狭間、門や壁の中に仕込まれた石落しなど、数多くの防御機構がその優美な姿の中に秘められている。大天守と小天守を繋ぐ渡櫓、小天守同士を繋ぐ渡櫓の各廊下には頑丈な扉が設けられ、大天守、小天守それぞれ独自に敵を防ぎ、籠城できるようになっている。
建物や塀の屋根に用いられている軒瓦などには、その瓦を作った時の城主の紋が彫り込まれている。池田氏の揚羽蝶紋、羽柴(豊臣)氏の桐紋、本多氏の立ち葵紋などがよく見られる。中には(十字架のように見える)十字が彫り込まれた軒瓦が1箇所だけある。
城主の居館は当初、天守台の下にある本丸にあって「備前丸」といった。これは池田輝政の所領備前国にちなむ名である。しかし、備前丸も山上で使いづらいため、本多忠政は三の丸に本城と称する館を建てて住んだ。以降の城主は本城、あるいは中曲輪の市の橋門内の西屋敷に居住している。徳川吉宗の時代の城主・榊原政岑が吉原から高尾太夫を落籍し住まわせたのもこの西屋敷である。西屋敷跡およびその一帯は現在では姫路城西御屋敷跡庭園「好古園」として整備されている。
なお、現在の三の丸跡のうち本城跡には千姫ぼたん園、向屋敷跡には三の丸広場が開かれている。三の丸広場は市民の憩いの場となっており、各種のイベントスペースとしても使用される。
中曲輪には侍屋敷、外曲輪には下級武士や町人の居住区などが置かれた。姫路市中心部に現在も残る町名として、鍛冶町・白銀町・金屋町・材木町・紺屋町などの職人の町、呉服町・綿町・米屋町・塩町・魚町・博労町などの商人の町、小姓町・鷹匠町・同心町・坊主町など身分に因む町名、上寺町・下寺町などの寺社の町がある。これらの多くが城郭の内にあり、江戸時代には日本では珍しい城郭都市を構成していた。このような「総構え」は他に江戸城や小田原城などにおける例がある。今日では中曲輪・外曲輪は堀と石垣の一部が残っているほか、国道372号に竹の門交差点、野里街道沿いに野里門郵便局といった形で門の名前が残っている。外曲輪の南側は山陽本線姫路駅付近にまで達している。Шаблон:和暦に外曲輪の外堀南側に姫路駅が作られ、そこを通る形で山陽鉄道(山陽本線の前身)が敷設された。
姫路城所在地の姫路市本町68番地は、周囲の警察署・高校・病院・美術館さらには県営住宅や民家をも含む総面積107.73ヘクタールの面積を持ち、単独の番地としては(皇居のある)千代田区千代田1番地の約150ヘクタールに次ぐ広さといわれる。本町68番地は内曲輪および中曲輪の範囲に相当し、明治・大正時代には陸軍歩兵第十連隊が配置されていた。姫路大空襲でこの一体は焼け野原になり、中心市街地として開発された戦後になっても、番地は分割されずにそのまま残った。分割されなかったのは戦後の混乱に起因するという。1980年代以降この一帯の整備および再開発事業が行なわれ、様々な文化施設・観光名所が立ち並ぶ一帯となっている。
国際記念物遺跡会議 (ICOMOS) により、Шаблон:和暦9月とШаблон:和暦4月、登録後のШаблон:和暦8月に調査が行なわれた。登録にあたり、以下の点が優れていると判断された。
登録地域は、中曲輪より内側となっている。さらにその周囲がバッファゾーンとしての登録を受けている。
Шаблон:世界遺産基準 Шаблон:世界遺産文化1 Шаблон:世界遺産文化4
以下の5件8棟がШаблон:和暦6月9日に文化財保護法に基づき国宝に指定されている。
上記の天守と渡櫓計8棟は、Шаблон:和暦1月19日、国宝保存法に基づき、当時の国宝(旧国宝、文化財保護法における「重要文化財」に相当)に指定され、同12月14日には渡櫓、門、塀等74棟も国宝(旧国宝)に指定された。その後、Шаблон:和暦8月29日の文化財保護法施行に伴い「旧国宝」は「重要文化財」とみなされることとなった(文化財保護法附則第3条)。Шаблон:和暦6月9日付けで、文化財保護法および国宝及び重要文化財指定基準(昭和26年5月10日文化財保護委員会告示第2号)に基づき、上記8棟が改めて国宝(新国宝)に指定された。
フランス・パリ近郊シャンティイ市(fr:Chantilly)にあるシャンティイ城と姫路城は、1989年に姉妹城提携を結んでいる。シャンティイ城はルネサンス期の壮麗な建築様式を代表する建築物として知られる。
地元のフィルム・コミッションの活動によって、映画やドラマなどのロケが多く行なわれている。ここでは特によく知られたものを挙げる。
数多くの時代劇 東映京都撮影所や京都映画撮影所から場所が近い事から、彦根城とともに、時代劇のロケが頻繁に行われている。特に実際の「江戸城」の代わりとして用いられる事が多い。例えば、『暴れん坊将軍』『水戸黄門』『大奥』など。Шаблон:和暦には時代劇映画の撮影において城内で爆破シーンの撮影を行なったところ、ろの門が破損し飛散した石で死傷者を出す事故が起こっている。 映画『007は二度死ぬ』 ジェームズ・ボンドがヘリコプターより降り立ったのは三の丸広場である。なおこの撮影では、撮影中に城壁に手裏剣を投げつけて一部を破損させてしまう事故もあった。このことが原因で、今でも姫路城は海外からのロケはお断りであると言われる。 『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』 Шаблон:和暦9月11日放送分において「昭和の大修理」のエピソードが取り上げられた。 『日本沈没』(1974年 TBS系ドラマ) ♯1「飛び散る海」、♯4「海の崩れる時」の劇中、播磨灘地震に伴い大倒壊(この場合はミニチュア)。また主題歌・タイトルバック映像でも流用された(これは実物)。以上は全て姫路市本町68番地の内である。本町68番地には他に姫路医療センター・姫路警察署・姫路東高校・淳心学院・賢明女子学院・姫路聴覚特別支援学校など多数の施設が存在している。