三笠(みかさ)は、大日本帝国海軍の戦艦で、敷島型戦艦の四番艦。奈良県にある三笠山にちなんで命名された。同型艦に敷島、初瀬、朝日。1904年(明治37年)からの日露戦争では連合艦隊の旗艦を務め、連合艦隊司令長官の東郷平八郎大将らが座乗した。現在は、横須賀市の三笠公園に記念艦として保存されている。
日清戦争後、ロシア帝国に対抗するために日本海軍は軍拡をすすめる。その中で『六六艦隊計画』(戦艦を6隻、装甲巡洋艦を6隻配備する計画)の一環として三笠は建造された。
計画実現には莫大な資金を要するため、日清戦争以前から続けていた海軍のリストラ、必死のやりくりにも関わらず海軍予算は尽き、完成させるには憲法違反である予算の不法流用しか道は残されていなかった。そこで、六・六艦隊計画の発案者山本権兵衛が協力者の西郷従道に相談すると、西郷はこう言った。
「山本さん、それは是非とも(軍艦を)買わねばなりません。予算を流用するのです。勿論違憲です。議会で違憲を追及されたら二重橋で腹を切りましょう。2人が死んでも軍艦が出来れば本望じゃないですか」こうして、予算を不法流用して三笠は完成することとなった。もちろん議会制度としては敗北であり、この2人の偽りない覚悟があればこそ美談ではあるが、簡単に行われるべき事ではない。
三笠は六六艦隊計画の最終艦であり、イギリスのヴィッカース社に発注された。1899年1月24日バロー・イン・ファーネス造船所で起工。1900年11月8日進水。1902年1月15日から20日まで公試が行われ、3月1日サウサンプトンで日本海軍への引渡し式が行われた。建造費用は船体が88万ポンド、兵器が32万ポンドであった。
3月13日、イギリス、プリマスを出港しスエズ運河を経由して5月18日横須賀に到着した。初代艦長は早崎源吾大佐。横須賀で整備後6月23日に出港し、7月17日本籍港である舞鶴に到着した。
1903年12月28日、三笠は連合艦隊旗艦となった。1904年2月6日から日露戦争に加わり、8月10日には黄海海戦に参加した。12月28日、呉に入港、修理の後、1905年2月14日呉を出港、江田島・佐世保経由で21日朝鮮半島の鎮海湾に進出した。以後同地を拠点に対馬海峡で訓練を行い、5月27日・28日には日本海海戦でロシア海軍バルチック艦隊と交戦した。この海戦で三笠は113名の死傷者を出した。
日露戦争終結直後の1905年9月11日に、佐世保港内で後部弾薬庫の爆発事故のため沈没した。この事故では339名の死者を出した。弾薬庫前で、当時水兵間で流行っていた「信号用アルコールに火をつけた後、吹き消して臭いを飛ばして飲む」悪戯の最中に、誤って火のついた洗面器を引っくり返したのが原因とする説や下瀬火薬の変質が原因という説もある。事故当時、東郷は上陸していて無事。また、艦隊付属軍楽隊に着任していた瀬戸口藤吉も、これまた事故当時は上陸中で難を逃れたが、軍楽兵の多くが事故で殉職した。なお、この爆発沈没事故は秋山真之が宗教研究に没頭する一因ともなったとされる。10月23日の海軍凱旋式は戦艦敷島が三笠に代わって旗艦となった。
三笠は予備艦とされ、1906年8月8日浮揚、佐世保工廠で修理され1908年4月24日第1艦隊旗艦として現役に戻った。
における要目]] 1914年8月23日、日本が第一次世界大戦に参加すると、戦争初期に三笠は日本海などで警備活動に従事した。その後、1918年から1921年の間、大戦中に誕生した社会主義国ソ連を東から牽制するシベリア出兵支援に参加する(参加前に防寒工事が実施され、飛行機の臨時搭載も行った)。
1921年9月1日一等海防艦となるが、9月16日ウラジオストク港外のアスコルド海峡で濃霧の中を航行中座礁。離礁後ウラジオストクで入渠修理を行い、11月3日舞鶴に帰投した。
に保存されている戦艦三笠]] ワシントン軍縮条約によって三笠は廃艦が決定した。1923年9月1日には関東大震災により岸壁に衝突、浸水し、9月20日に帝国海軍を除籍させられた。軍縮条約により廃艦後は解体される予定だったところ、国民から愛された三笠に対する保存運動が勃興し、現役に復帰できない状態にすることを条件に保存されることが特別に認められ、1925年1月に記念艦として横須賀に保存することが閣議決定された。同年6月18日に保存のための工事が開始され、舳先を皇居に向け固定されることになる。11月10日に工事は完了し、12日に保存式が行われた。
太平洋戦争の敗戦後、日本が連合国軍に占領されていた時期にはソ連からの要求で撤去されそうになったり、アメリカ軍人のための娯楽施設が設置され、「キャバレー・トーゴー」が艦上に開かれるという状態にあった。さらに兵装や上部構造物は全て撤去され、取り外せそうな金属類はほとんどがガス切断により持ち去られ、チーク材の甲板までも薪や建材にするために剥がされているという荒廃ぶりであった。
この惨状を見たイギリス人のジョン・S・ルービンがジャパンタイムズに投書、大きな反響を呼ぶ。さらにアメリカ海軍のチェスター・ニミッツ提督が三笠の状況を憂いて本を著し、その売り上げを三笠の保存に寄付するなどして復元保存運動が徐々に盛り上がりを見せていった。復元運動の成果により、三笠は現在見られるように「記念艦三笠」として整備されるに至った。復元にあたり、米軍が撤去した記録が残っているものは、ほぼすべてが完全な形で返還されたШаблон:要出典が、誰が持ち去ったか不明なものは、(戦後の混乱期で致し方ないことがあったとしても)今日に至るまでほとんど返還されていない。なお、1958年にチリ海軍の戦艦・アルミランテ・ラトーレが除籍され、翌年日本において解体される事となったが、同じイギリスで建造された艦であったため、格好の部品供給源となるという幸運があった。
三笠は日露戦争関連映画作品などに登場している。