皇居(こうきょ)は、天皇の平常時における住居である。
現在は、第二次世界大戦後に宮城(きゅうじょう)の名称が廃止された東京の江戸城跡一帯を指して皇居と呼んでいる。英名は「The Imperial Palace」。天皇の住居である「御所」、各種公的行事や政務の場である「宮殿」、宮内庁庁舎などがある。→#東京の皇居を参照。
京都の皇居は京都御所、禁裏、内裏などと呼ばれていたが、明治維新の東京行幸のあと留守となり、天皇の指示で保存されて以降は京都皇宮とも呼ばれるようになった。英名は「Kyoto Imperial Palace」。平安時代の様式を伝える最高格式の紫宸殿(正殿)や日常生活の場である常御殿などが保存されている。→京都御所を参照。
皇居の呼び名は、内裏(だいり)、御所、大内(おおうち)、大内山、九重(ここのえ)、宮中(きゅうちゅう)、禁中(きんちゅう)、禁裏(きんり)、百敷(ももしき)、紫の庭(むらさきのにわ)、皇宮(こうぐう)、皇城(こうじょう)、宮城(きゅうじょう)、蓬が洞(よもぎがほら)、大宮、雲の上、雲居など非常に多い。
宮(みや)は家(や「屋」)に尊称(み「御」)がついた言葉である。身分の高い人の住居という意味から出発し、やがて天皇や皇族の宮殿を意味するようになった。古代には、天皇の住居は一世ごとに移転され、皇居は宮(みや)と呼ばれる宮殿を指した。『古事記』や『日本書紀』には、四世紀から六世紀にかけての宮殿の多くが奈良盆地の東南の地に営まれたと記されている。
592年に推古天皇が即位した豊浦宮から694年持統天皇が藤原京へ遷都するまでの約100年間は、奈良の南の地飛鳥周辺に宮殿が集中したので飛鳥京と呼ぶことがある。このような宮には、小墾田宮(603~630年)、飛鳥岡本宮(630~636年)、飛鳥板蓋宮(643~655年)、後飛鳥岡本宮(656~672年)、飛鳥浄御原宮(672~694年)などがある。その頃の大規模な居館がいくつか発見されている。それらは地面に穴を掘って柱の根本を固定する掘立柱建物である。これらの建物の内七世紀以降では、中心建物は南を正面としているのが特徴である。
後には、中国王朝の影響で京(みやこ)が造営されるようになり、天皇は京の中の内裏(だいり)に定着し、これを皇居とした。国政の中枢である朝堂院をはじめとする中央官衙は内裏に併設され、合わせて宮城と呼ばれる。
京には、難波京(大阪)、藤原京(奈良)、平城京(奈良)、平安京(京都)などがある。
平安京は、794年(延暦13年)に桓武天皇によって定められた。960年(天徳4年)に内裏が焼失し、再建されるまで冷泉院を仮の皇居とした。976年(貞元元年)にも内裏が被災し、藤原兼通の邸宅である堀河殿を仮皇居としている。平安京の内裏はしばしば焼亡したため、摂関や外戚など臣下の邸宅を仮皇居(里内裏)とすることも多かった。平安時代末期からは、内裏があっても里内裏を皇居とすることが一般化した。1227年(安貞元年)に宮城(大内裏)が焼失してからは内裏は再建されず、里内裏を転々とした。南北朝時代の1331年(元弘元年)、北朝の光厳天皇が土御門東洞院殿で即位してからは、この御殿が内裏に定められた。これが土御門内裏と呼ばれ、現在の京都御所の前身となる。
1868年(明治元年)に江戸が東京と改められ明治天皇が東京に行幸し江戸城西の丸(現在は宮殿のみが建っている・現在の吹上御所とは別の場所)に入った際、江戸城も東京城と改称され、天皇の東幸中の仮皇居と定められ天皇は一旦京都に戻った。
翌1869年(明治2年)再び東京に行幸し、1877年(明治10年)には京都御所が保存され今に至る。→東京奠都の項目を参照。
東京の皇居は、江戸時代末期まで徳川将軍が居城としていた江戸城跡にある。江戸城の内郭(内堀内)には、本丸、二の丸、三の丸、西の丸のほか、西寄りの部分には「吹上」と呼ばれる庭園があった。「吹上」はかつては屋敷地であったが、明暦の大火(1657年)以降、火除け地として、建物が建てられないようになっていた。
皇室関連施設のうち、宮殿、宮内庁庁舎などは旧西の丸に位置するが、天皇の住まいである御所は江戸城の「吹上」、現在の「吹上御苑」に建てられている。旧西の丸と吹上御苑は道灌堀という堀で隔てられている。城郭としての江戸城は本丸、二の丸、三の丸および西の丸部分のみをいい、道灌堀の西側にある庭園部分は厳密には江戸城には含まれないので、御所は城郭としての江戸城跡に建っているわけではない。
現在、皇居一帯は東京の中央部にありながら、緑豊かな地区で、濠の周りはジョギング道として人気が高い。皇居の住所表示は東京都千代田区千代田1番1号で、本籍として人気が高い住所になっている。(郵便番号は100-0001)また、国有財産としての皇居の価値は、2146億4487万円である(財務省資料に基づく、2009年5月現在)。
衛星パノラマ画像プログラムのグーグルアースにおいては世界のランドマークの一つとして登録されている。
「#皇居の歴史」も参照
明治宮殿は、御車寄、正殿、東溜、西溜、豊明殿、千種の間、鳳凰の間など、儀式・応接・政務が行われる公の場である表宮殿と、天皇の住居にあたる奥宮殿とが接続していた。表宮殿は木造で、外観は和風建築だが、内部は和風の格天井からシャンデリアを下げるなど和洋折衷とし、椅子とテーブルを用いていた。この明治宮殿は太平洋戦争(大東亜戦争)中の1945年(昭和20年)5月、空襲による飛び火で焼失した。明治宮殿の焼失後、昭和天皇・香淳皇后は、吹上御苑内の御文庫(おぶんこ)を仮の住まいとし、1952年(昭和27年)からは宮内庁庁舎の最上階(3階)を仮の宮殿とした。
戦後、1948年(昭和23年)に宮城の名称は廃止され、皇居と呼ばれるようになった。
戦後暫くの間、焼失した宮殿の再建は行われなかった。この理由について、昭和天皇の侍従長を務めた入江相政は、自らの著書で「お上(昭和天皇)は戦争終了後、『国民が戦災の為に住む家も無く、暮らしもままならぬ時に、新しい宮殿を造ることは出来ぬ』と、国民の生活向上を最優先とすべしという考えから、戦災で消失した宮殿などの再建に待ったをかけていた」旨のことを記している。
昭和30年代に入って、日本の復興が一段落した頃に宮殿再建の動きが活発となり、1959年(昭和34年)、皇居造営審議会の答申に基づき、翌1960年(昭和35年)から新しい宮殿の造営が始められた。宮殿(いわゆる新宮殿)は、明治宮殿のように天皇の御所とは接続させず、御所と宮殿を別々に造ることとなった。まず1961年(昭和36年)、昭和天皇及び香淳皇后の住居として皇居内吹上地区の御文庫に隣接して建設された吹上御所が完成した。新宮殿は明治宮殿跡地に1964年(昭和39年)着工し、1968年(昭和43年)10月竣工。同年11月14日に落成式が挙行され、翌1969年(昭和44年)4月から使用された。なお吹上御所は、昭和天皇の崩御後に、皇太后(香淳皇后)の住まいとして吹上大宮御所と改称された。
今上天皇、皇后は、即位後も暫くは引き続き赤坂御所(現東宮御所)に居住しながら皇居宮殿に通っていたが、皇居内吹上地区の一角に新たな御所が建設され、1993年(平成5年)12月から使用している。
飛鳥時代以前の皇居は『日本書紀』(一部『古事記』)を典拠とする。また、南北朝時代の南朝の皇居は除外する。
名称 | 置かれた期間(年代) | 天皇 | 所在地(推定地含む) |
---|---|---|---|
畝傍橿原宮 | 神武天皇 | 奈良県橿原市畝傍町 | |
葛城高丘宮 | 綏靖天皇 | 奈良県御所市森脇 | |
片塩浮孔宮 | 安寧天皇 | 奈良県大和高田市三倉堂 もしくは同県橿原市四条町 |
|
軽曲峡宮(軽境岡宮) | 懿徳天皇 | 奈良県橿原市見瀬町・白橿町 | |
掖上池心宮(葛城掖上宮) | 孝昭天皇 | 奈良県御所市池之内 | |
室秋津島宮 | 孝安天皇 | 奈良県御所市室 | |
庵戸宮(黒田廬戸宮) | 孝霊天皇 | 奈良県磯城郡田原本町黒田 | |
軽境原宮 | 孝元天皇 | 奈良県橿原市見瀬町 | |
春日率川宮 | 開化天皇 | 奈良県奈良市本子守町 | |
磯城瑞籬宮 | 崇神天皇 | 奈良県桜井市金屋 | |
纒向珠城宮(師木玉垣宮) | 垂仁天皇 | 奈良県桜井市穴師 | |
纒向日代宮 | 景行天皇 | 奈良県桜井市穴師 | |
志賀高穴穂宮 | 景行天皇 - 成務天皇 | 滋賀県大津市穴太 | |
穴門豊浦宮 | 仲哀天皇 | 山口県下関市長府宮の内町 | |
橿日宮(筑紫訶志比宮) | 仲哀天皇 | 福岡県福岡市東区香椎 | |
磐余稚桜宮(若桜宮) | 神功皇后 |
奈良県桜井市池之内 もしくは桜井市谷 |
|
軽島豊明宮(軽島明宮) | 応神天皇 | 奈良県橿原市大軽町 | |
難波大隅宮 | 応神天皇 | 大阪府大阪市東淀川区大隅 もしくは大阪市中央区 |
|
難波高津宮 | 仁徳天皇 | 大阪府大阪市天王寺区餌差町 もしくは大阪市中央区 |
|
磐余稚桜宮 | 履中天皇 |
奈良県桜井市池之内 もしくは桜井市谷 |
|
丹比柴籬宮 | 反正天皇 | 大阪府松原市上田 | |
遠飛鳥宮 | 允恭天皇 | 奈良県高市郡明日香村飛鳥 | |
石上穴穂宮 | 安康天皇 | 奈良県天理市田町 | |
泊瀬朝倉宮 | 雄略天皇 | 奈良県桜井市黒崎 もしくは桜井市岩坂 |
|
磐余甕栗宮 | 清寧天皇 | 奈良県橿原市東池尻町 | |
忍海角刺宮 | (飯豊青皇女) | 奈良県葛城市忍海 | |
近飛鳥八釣宮(近飛鳥宮) | 顕宗天皇 | 奈良県高市郡明日香村八釣 もしくは大阪府羽曳野市飛鳥 |
|
石上広高宮 | 仁賢天皇 |
奈良県天理市石上町 もしくは天理市嘉幡町 |
|
泊瀬列城宮 | 武烈天皇 | 奈良県桜井市出雲 | |
樟葉宮 | 507年 - | 継体天皇 | 大阪府枚方市楠葉丘 |
筒城宮 | 511年 - | 継体天皇 | 京都府京田辺市多々羅都谷 |
弟国宮 | 518年 - | 継体天皇 | 京都府長岡京市今里付近 |
磐余玉穂宮 | 526年 - | 継体天皇 | 奈良県桜井市池之内 |
勾金橋宮 | 534年- | 安閑天皇 | 奈良県橿原市曲川町 |
檜隈廬入野宮 | 536年- | 宣化天皇 | 奈良県高市郡明日香村檜前 |
磯城島金刺宮 | 540年- | 欽明天皇 | 奈良県桜井市金屋 |
百済大井宮 | 572年 - 575年 | 敏達天皇 | 奈良県桜井市 もしくは同県北葛城郡広陵町百済 |
訳語田幸玉宮 (他田宮・磐余訳語田宮) |
575年- | 敏達天皇 | 奈良県桜井市戒重 |
磐余池辺雙槻宮 | 585年- | 用明天皇 | 奈良県桜井市阿倍 もしくは桜井市池之内 |
倉梯宮(倉椅柴垣宮) | 587年- | 崇峻天皇 | 奈良県桜井市倉橋 |
豊浦宮(桜井等由羅宮) | 592年- | 推古天皇 | 奈良県高市郡明日香村豊浦 |
小墾田宮 | 603年- | 推古天皇 | 奈良県高市郡明日香村雷 |
飛鳥岡本宮(高市岡本宮) | 630年 - 636年 | 舒明天皇 | 奈良県高市郡明日香村岡 |
田中宮 | 636年- | 舒明天皇 | 奈良県橿原市田中町 |
厩坂宮 | 640年 | 舒明天皇 | 奈良県橿原市大軽町・石川町 |
百済宮 | 640年- | 舒明天皇 | 奈良県桜井市吉備 もしくは同県北葛城郡広陵町百済 |
飛鳥板蓋宮 | 642年 - 655年 | 皇極天皇 - 斉明天皇 | 奈良県高市郡明日香村岡 |
難波長柄豊碕宮 | 652年 - 655年 | 孝徳天皇 | 大阪府大阪市中央区法円坂 |
飛鳥川原宮 | 655年 - 656年 | 斉明天皇 | 奈良県高市郡明日香村川原 |
後飛鳥岡本宮 | 656年- | 斉明天皇 | 奈良県高市郡明日香村岡 |
近江大津宮 | 667年- | 天智天皇 - 弘文天皇 | 滋賀県大津市錦織 |
飛鳥浄御原宮 | 673年頃- | 天武天皇 - 持統天皇 | 奈良県高市郡明日香村岡 |
藤原宮 | 694年 - 710年 | 持統天皇 - 元明天皇 | 奈良県橿原市高殿町など |
平城宮 | 710年 - 740年 745年 - 784年 |
元明天皇 - 桓武天皇 | 奈良県奈良市佐紀町 |
大養徳恭仁大宮(恭仁宮) | 740年 - 743年 | 聖武天皇 | 京都府木津川市加茂町例幣など |
難波宮 | 744年 - 745年 | 聖武天皇 | 大阪府大阪市中央区法円坂 |
紫香楽宮 (信楽宮・甲賀宮) |
745年 | 聖武天皇 | 滋賀県甲賀市信楽町宮町 |
保良宮 | 761年 - 764年 | 淳仁天皇 | 滋賀県大津市国分 |
由義宮 | 769年 - 770年 | 称徳天皇 | 大阪府八尾市八尾木 |
長岡宮 | 784年 - 794年 | 桓武天皇 | 京都府向日市鶏冠井町など |
平安宮 | 794年-(1877年保存) | 桓武天皇- | 京都府京都市上京区 |
福原宮 | 1180年 | 安徳天皇 | 兵庫県神戸市兵庫区荒田町など |
宮城・皇居 | 1869年- | 明治天皇- | 東京都千代田区千代田 |