伏見城(ふしみじょう)は、現在の京都市伏見区にあった城。「伏見桃山城」は史実にはない近代建築である(本文で詳述)。
伏見城は豊臣秀吉によって、自身の隠居後の居所として造られたものが初めである。歴代3度にわたって築城され、初めに指月山に造られたものを指月山伏見城、震災後に木幡山に移されたものを木幡山伏見城などと区別される。さらに、木幡山伏見城は創建時である豊臣期と、関ヶ原の戦災後に再建された徳川期のものに分けられる。
秀吉の死後、その遺言によって豊臣秀頼は大坂城に移り、五大老筆頭の徳川家康が代わってこの城に入り政務をとった。関ヶ原の戦いの際、家康の家臣鳥居元忠らが守っていたが、石田方に攻められ建物の大半を焼失している(伏見城の戦い)。なお、立てこもっていた徳川家の家臣達が自刀した建物の血痕の残る床板は、京都市の養源院など複数の寺に供養も兼ねて天井板に再利用されており、血天井として現在でも生々しい血痕を見る事が出来る。後に、家康によって再建され、廃城後はその建造物及び部材が各地に転用・移築されている。
徳川期木幡山伏見城の天守は二条城へ移築されたため史料が比較的残っているが、それ以前の天守については不明な部分が多い。
『洛中洛外図屏風』池田本では、徳川期木幡山伏見城のものと見られる天守が白壁の望楼型5重に描かれている。伏見城に移築される以前は、豊臣秀保期大和郡山城の7重天守であったが伏見城へ移築するにあたり5重に改められたといわれている。しかし、大和郡山城の天守については、伏見城へではなく徳川家康によって二条城へ移築されたという説があり、寛永6年(1624年)徳川家光の二条城改修によって二条城旧天守を淀城へ移築する代わりとして伏見城天守は二条城へ移築されたという。この二条城の寛永期天守は寛延3年(1750年)に落雷により焼失している。
現在見られる花畑跡の模擬天守は岡山池田氏に伝わる洛中洛外図屏風に描かれているものをモデルとしたものだがШаблон:要出典、史実には直接の関係はない。
記録によれば、室町幕府の家臣であった三淵藤英(細川藤孝(幽斎)の実兄)が伏見に居城を持っていたとされるがШаблон:要出典、詳細は不明である。
開墾されたため桃山と呼ばれた。伏見城を通称桃山城というのはこのためである。また、開墾にたずさわった一族の末裔は、吉村酒造蔵元の吉村家と伝えられている。
伏見城本丸跡などの主郭部分は、のちに明治天皇の陵墓(伏見桃山陵)とされたため、現在は無許可での立入を禁じられている。
伏見城花畑跡には第二次世界大戦後の1964年に遊園地「伏見桃山城キャッスルランド」が建設され、園内には5重6階の大天守と3重4階の小天守、櫓門等を伴った模擬天守がRC造で造られた。2003年1月、伏見桃山城キャッスルランドが、経営母体である近鉄のリストラの一環として閉園とされたが、伏見桃山城は京都市民の運動によって伏見のシンボルとして保存されることとなり取り壊しを免れた。現在は公園として整備されている。京都市が無償で譲り受けたが老朽化で内部非公開となっている。 2007年10月には時代劇映画『茶々 天涯の貴妃』撮影のため、望楼の下に虎の装飾や鯱を金色に塗り替えるなど大坂城に見立てて改装。約1億円の改修費は東映が負担し大坂城としての改修は年内継続された。
2009年2月20日に宮内庁の許可を得て、日本考古学協会によって本格的な調査が行われ、4~5mの盛り土が行われていることが判明。未発見の古墳ではないかと言われている。
廃城に際して天守を始め多くの建物が他の場所に移築された。有名なものでは二条城や常寂光寺などがあり、なかでも福山城には、櫓、城門、殿舎、湯殿、多聞櫓、土塀など特に多くの施設が移されている。 移築の伝承を持ち現存する主な施設を以下に挙げる。この内、移築が裏付けられているのは指月山伏見城の遺構である西教寺客殿と徳川期木幡山伏見城の遺構である福山城伏見櫓のみである。