青函トンネル(せいかんトンネル)は、本州の青森県東津軽郡今別町浜名と北海道上磯郡知内町湯の里を結ぶ北海道旅客鉄道(JR北海道)の鉄道トンネルである。
開業時から2009年現在まで、トンネルとして世界一の長さ。津軽海峡の海底下約100mの地中を穿ち、設けられた。全長は53.85 km。約53.9キロであることからゾーン539の愛称がある。なお、青函ずい道と表記されていたこともあるほか、トンネル出入口の扁額には青函隧道と表記されている。
青函トンネルの木古内方には、非常に短いシェルターで覆われたコモナイ川橋梁、さらに長さ約1.2kmの第1湯の里トンネルが続いており、合計約55kmの一体化したトンネルのようになっている。
青函トンネルを含む区間は海峡線となっており、北海道函館市 - 青森県青森市間を結ぶ津軽海峡線の一部だが、新幹線規格で建設されており、将来北海道新幹線も通る予定になっている。
長大なトンネル内の安全設備として、列車火災事故などに対処するため、青函トンネル途中(海岸直下から僅かに海底寄り)に消防用設備や脱出路を設けた定点という施設が2箇所設置された。これは1972年に国鉄北陸本線の北陸トンネル内で発生した列車火災事故を教訓にしたものである。尚、開業初日には3ヶ所の火災検知器が誤作動を起こし、快速海峡などが最大39分遅れるトラブルも発生している。また、開業後はこの定点をトンネル施設の見学ルートとしても利用する事になり、吉岡海底駅と竜飛海底駅と命名された。この2つの駅は、見学を行う一部の列車の乗客に限り乗降できる特殊な駅である。トンネルの最深地点には青色と緑色の蛍光灯による目印がある。
また、青函トンネルは通信の大動脈でもある。 青函トンネルの中には開通当時の日本テレコム(現ソフトバンクテレコム)が光ファイバーケーブルを敷設しており、北海道と本州を結ぶ電信・電話の重要な管路となっている。
青函トンネルは「世界最長の海底トンネル」という特殊条件であることから、万が一の事故・災害防止のために厳重な安全対策が施されており、トンネル内は終日禁煙・火気使用厳禁となっている(トンネル内には一般建物用より高感度の煙・熱感知器が多数設置されているので、微量なタバコの煙を感知しただけでも列車の運行が止まってしまう)。
かつて青森駅と函館駅を結ぶ鉄道連絡船として、日本国有鉄道(国鉄)により青函航路(青函連絡船)が運航されていた。しかし、1950年代には、朝鮮戦争によるものと見られる浮流機雷がしばしば津軽海峡に流入、また1954年9月26日、台風接近下に誤った気象判断によって出航し、暴風雨の中、函館港外で遭難した洞爺丸他4隻の事故(洞爺丸事故)など、航路の安定が脅かされる事態が相次いで発生した。
これらを受けて、太平洋戦争前からあった本州と北海道をトンネルで結ぶ構想が一気に具体化し、船舶輸送の代替手段として、長期間の工期と巨額の工費を費やして建設されることとなった。
青森県東津軽郡三厩村(現外ヶ浜町)と北海道松前郡福島町を結ぶ西ルート、青森県下北郡大間町と北海道亀田郡戸井町(現:函館市)を結ぶ東ルートが検討され、当初は距離が短い東ルートが有力視されたが、東ルートは西ルートよりも水深が深い上、海底の地質調査で掘削に適さない部分が多いと判定されたため、西ルートでの建設と決定した。なお、もし東ルートに決定していれば、かつて青函連絡船代替航路として建設され未完に終わった大間線と戸井線の建設が再開され、開通していたとも言われている。
当初は在来線規格での設計であったが、整備新幹線計画に合わせて新幹線規格に変更され建設された。整備新幹線計画が凍結された後、暫定的に在来線として開業することになったものの、軌間や架線電圧の違いを除けば、保安装置(ATC-L型)も含めて新幹線規格を踏襲しており、のちに考案されるスーパー特急方式の原型となった。
トンネルは在来工法(一部TBM工法・新オーストリアトンネル工法)により建設された。トンネル本体の建設費は計画段階で5384億円であったが、実際には7455億円を要している。取り付け線を含めた海峡線としての建設費は計画段階で6890億円、実際には9000億円に上る。しかし北海道新幹線の建設が凍結になり、更に関東から北海道への旅客輸送は既に航空機が9割を占めていた状況であったことから、トンネルの活用法が大きな問題となった。中には「トンネルを放棄してセメントで封鎖すべきだ」とか、「道路用に転用すべきだ」「キノコの栽培をすべきだ」「石油の貯蔵庫にすべきだ」等の主張もあったが、結局は多額な投資をしたものを放棄するのは問題だとして、在来線で暫定使用を行う事になった。なおこの時、カートレインの運行を行うことも定められていた(青函カートレイン構想)が、(この意味では)実現には至っていない。
開業前には要した巨額の費用と収益があまりにも釣り合わないとして「無用の長物」、「昭和三大馬鹿査定」、「泥沼トンネル」などと揶揄されたこともあった。
しかし、開通後は北海道 - 本州間の貨物輸送に重要な役割を果たしており、一日に上下50本もの貨物列車が設定されている。天候に影響されない安定した安全輸送が可能となったことの効果は大きい。特に北海道の基幹産業である農産物の輸送量が飛躍的に増加したとされる。対照的に、旅客は航空輸送の高度化・価格破壊などから減少が進んでいる。2007年9月1日には青森函館間を1時間45分で結ぶ高速船ナッチャンReraが、2008年5月2日にはナッチャンWorldが就航し、青函トンネル旅客輸送における新たな競合相手となっていたが、これらは2008年11月1日で運航休止となった。このような状況ではあるが、今後は北海道新幹線開業による輸送量増加が期待される。
海底にあるため施設の老朽化が早く、保守管理は、線区を管轄するJR北海道にとって大きな問題になっている。
また、開業当初は、乗車券のみで乗れた青函連絡船の代替という意味もあり、主たる輸送が快速「海峡」にて行われ、特急「はつかり」は一部速達性を要する時間帯のみであったが、2002年12月の東北新幹線八戸開業により列車体系が大幅に変更され、特急・急行列車のみとなった。
ちなみに、青函トンネルの中央部は、公海下の建造物ということで、開業前にその帰属および固定資産税の課税の可否が問題となったが、日本の領土の一部として各自治体に編入され、固定資産税もそれに応じて課税されることとなった。
当初はTBM(トンネルボーリングマシン)を使用して掘削していけば、ほぼ計画通りの工期で完成すると考えていたが、実際には軟弱な地層に進むにつれ多発した異常出水や、機械の自重で坑道の下へ沈み込み前進も後退もできずに、やむなくTBMの前方まで迂回して坑道を掘って前から押し出すなどあまり役に立たず、早々にTBMでの掘削を諦めた。本坑に先駆けて先進導坑を掘り進み、先の地質などを調査しながら本坑が後を追うという形式で掘り進むことになる。
海底にさしかかるに従い次第に地質が軟弱になり、出水も増えてきた。そのため青函トンネルで培われた技術が、セメントミルクを超高圧で岩盤へ注入し、セメントが固まった後そこを掘っていく方法である。つまり坑道の太さ以上にセメントで自ら硬い岩盤をあらかじめ作り、そこを掘り進む理屈である。 それでもなお大量の出水を防ぐ事ができず、坑道の途中で進む事を断念し坑口を塞いだうえでその坑道を避けて掘った箇所が先進導坑に数カ所存在する。
2005年に北海道新幹線の新青森 - 新函館間が着工され、青函トンネルについては貨物・夜行列車なども引き続き通れるように三線軌条とし、上下線の間に遮風壁を設ける事、トンネル両側の津軽今別駅と知内駅に待避施設を建設する事になっている。2007年には保安装置の動作確認などの試験目的で、上下線6kmの三線軌条化工事が行われた。また、これらの工事のために吉岡海底駅は休止された。
これとは別に、当初の予定通り青森側・北海道側にそれぞれターミナルを建設して「カートレイン」を運行させようという構想もあるが、実現の目処は立っていない。
青函トンネルは海底の長大トンネルであるため、走行する車両には下記の装備が要求されている。
本トンネルは海底を通ることから湿度が高い(常に100%)ため、明示された条件ではないがこれに耐えうる構造であることも重要である。
トンネルを通行する営業用列車は電車または電気機関車牽引の客車・貨車のみとなっており、内燃機関を用いる車両(気動車)は火災事故防止の為当線内は自走出来ない。さらに青函トンネルを通る冷凍コンテナは熱感知機の反応で列車が足止めされないよう、機関車の運転席からの遠隔操作によりコンプレッサーの動力となるディーゼルエンジンを切るための専用回路を搭載したタイプに限られる。
本州と北海道間で車両を輸送する際は、内燃機関を停止した上で基本的に電気機関車牽引で甲種輸送される。本州の工場で製造されたJR北海道用の気動車の大半は甲種輸送ではなく船便で運ばれている。
代表的な走行車両扁額の揮毫は、本州側が開通当時の内閣総理大臣中曽根康弘、北海道側が同じく運輸大臣橋本龍太郎である。扁額には「青函トンネル」ではなく「青函隧道」と書かれている。
揮毫した中曽根康弘は三公社民営化を悲願とし、橋本龍太郎は国鉄分割民営化時の運輸大臣であったことから、国鉄の介錯役と言える両政治家が揮毫した事となった。
開業当日は民放各局が開業式典から生放送した。その中継は函館駅、青森駅だけではなく吉岡海底駅、竜飛海底駅からも行われた。更には一番列車(正確には旅客の一番列車であり、営業運転最初の列車は貨物であった)の特急はつかり10号がトンネルに入った様子を車内からも生放送した。
列車内からの中継はNHKが代表取材し、その映像を運転席に設置したFPUから地上に送信し、地上ではその電波を受信し再度中継した。開業一番列車の写真を見ると運転席に「NHK」と書かれたパラボラアンテナが映っているのはそのためである。民放各局はこのNHKの映像を受信し再送信したため、なんの前振りもなく突然NHKのアナウンサーが民放の画面に現れた。
また、海底駅からの中継には当時やっと実用化され始めていた放送中継用の光ファイバー伝送装置が使用された。
本中継とは直接の関係はないが、NHKの『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』に「青函トンネル 友の死を越えて」という回がある。また、青森放送でも1988年に『竜飛の二人』という青函トンネルをテーマにしたドキュメンタリー番組も制作、放送した。