靖国神社(Шаблон:Lang、やすくにじんじゃ)は、東京都千代田区にある神社。旧称東京招魂社。幕末から明治維新にかけて功のあった志士達から、戊辰戦争以降の日本の国内外の事変・戦争等、国事に殉死した日本の軍人、軍属等を祭神とする。
戦前は内務省が人事を、陸軍・海軍が祭事を統括していた。戦後は、東京都知事認証の単立神社(単立宗教法人)となった。神社本庁との包括関係には属していない。平成21年(2017年)現在の宮司は南部利昭(平成21年1月7日逝去。現在は後任を選定中)桜の名所としても知られる。 最重要の祭儀は春秋例大祭。合祀祭は現在では秋季例大祭に併せて齋行される(合祀祭と招魂祭は別の祭儀である) 英語圏では「Yasukuni shrine」と並んで「war shrine」(戦争神社)とも表記される。
靖国神社本殿に祀られている「祭神」は「天皇・朝廷・政府側の立場で命を捧げた」戦没者、英霊である。神話に登場する神や天皇などではない。計246万6532柱(2004年10月17日現在)が祀られている。当初は祭神は「忠霊」・「忠魂」と称されていたが、日露戦争(1904-05年)後に新たに「英霊」と称されるようになった。この語は直接的には幕末の藤田東湖の漢詩「文天祥のに和す」の「英霊いまだかつて泯(ほろ)びず、とこしえに天地の間にあり」の句が志士に愛唱されていたことに由来する 。このことからもあきらかなように、復古神道の思想によって建立されている。
本殿での祭神の神座(しんざ、祭神・神体を安置する場所)は、当初は一座であった。戦後に、台湾神宮および台南神社に祀っていた北白川宮能久親王と、蒙彊神社(張家口)に祀っていた北白川宮永久王とを遷座合祀して一座を新たに設けた。従って現在の神座は、皇族以外の祭神の一座と北白川宮能久親王と北白川宮永久王を祀った一座の二座である。 対象となる人物の国籍については、日本国民及び死亡時に日本国民であった(日本領であった台湾・朝鮮半島などの出身者を含む)者に限られている。
現在の神社の名は『春秋左氏伝』第六巻僖公二十三年秋条の「吾以靖国也」(吾以つて国を靖んずるなり)を典拠として明治天皇が命名したものである。靖国神社自身は、靖國神社(「靖」の旁の「青」の下部が「円」、国は旧字体)と表記している。
1879年6月16日の「社号改称・社格制定ノ祭文」には「赤き直き真心を以て家を忘れ身を擲(なげう)ちて各(おのおの)も各も死亡(みまかり)にし其(その)高き勲功に依りて大皇国をば安国と知食(しろしめ)すが故に靖国神社と改称(あらためとなえ)」 とある。
旧社名の「招魂社」は「在天の神霊を一時招祭するのみなるや聞こえて万世不易神霊厳在の社号としては妥当を失する」可能性があるために廃されたという。ただし名称変更後も「招魂祭」(しょうこんのまつり)は続けられた。
招魂社と称された時期には神官・神職の定めは無かった。例大祭・臨時大祭には卿または将官、招魂式には将官または佐官、その他の祭祀には佐官尉官が奉仕した。1875年以降は例大祭・臨時合祀祭・招魂祭の祭主は大日本帝国陸軍・大日本帝国海軍が隔番で務めた。1879年の改称列格によって官員の祭主は廃され祭典は宮司が行うこととなった。同時に宮司1名、禰宜1名、主典4名が法令によって置かれ、神官の進退は内務省が、増員・増俸は内務省・大日本帝国陸軍・大日本帝国海軍の3者協議となった 。実際の管理は主として財政を負担した陸軍省総務局が行った 。社司・社掌は陸軍省第1局の所属であった 。1887年には閣令第4号により神官を廃して神職を置き、大日本帝国陸軍・大日本帝国海軍が補任することとなった。1946年の官国幣社制廃止以後は自主管理となった 。
靖国神社は、合祀について以下の規定がある。(2004年10月17日現在)
戦前は、靖国神社への合祀は陸軍・海軍の審査で内定し、天皇の勅許を経て決定された。合祀祭に天皇が祭主として出席しШаблон:要出典、合祀は死者・遺族にとって最大の名誉であると考えられることが多かった。
敗戦により、靖国神社は一宗教法人化、また陸海軍は廃止されたため、この合祀制度は変容した。
戦後になると合祀制度は形を改めたが、1952年当時には未合祀の戦没者が約200万人に上り、遺族や元軍人を中心に「合祀促進運動」が起こった。
これに対応するため、1956年に厚生省(当時)が定めた新しい合祀手順は次の通りである。
なお合祀に関しては、本人・遺族の意向は基本的に考慮されておらず、神社側の判断のみで行われている。このため、キリスト教・仏教信者や特に海外出身の合意対象者について、遺族が不満を抱く事例がまま見られ、中には裁判に至っているものもある。ただし、現在(1970年代以降?)の公務殉職者の遺族に対しては「合祀可否の問い合わせ」をしており、回答期限内に「拒否」の回答がない場合に限って合祀している。
靖国神社広報課では、戦前戦後を通して当神社の祭神合祀にあたって遺族への連絡はするが事前の合意は取らない、としている。
被祀者の遺骨・位牌などはない。まず真っ暗闇の夜に氏名、軍における所属・階級、位階、勲等などを筆書きし、「人霊」を「霊璽簿(れいじぼ)」(旧称「祭神簿」)と称される名簿に移す。次に靖国神社の御神体とされる鏡に「霊璽簿」を写し、合祀祭を行うことで「人霊」を「神霊」へと化す。このようにして「御霊(みたま)」を招来し、身分、職業、年齢、性別にかかわりなく、手厚く祀っているという(靖国神社『靖国神社の概要』)。
また、祭神であるという理由から「柱(はしら)」という単位で数え、祭神である被祀者の氏名の最後に「命(みこと)」を付し、例えば「山本五十六命(やまもといそろくのみこと)」の様に呼称する。
祭神は、以下のようになっている。(2004年10月17日現在)
毎月1, 11, 21日は月次祭。永代神楽祭は毎日(戦没者ゆかりの日)。
靖国神社は、神社本庁発足の時点より神社本庁との包括関係に属していない。これは、「靖国神社は日本国の護持の神社であり、いつかは国に返すべきなので、特定の宗教法人の包括下に入るべきではない」という靖国神社・神社本庁双方の判断により、神社本庁ほかの包括宗教法人に属さない単立神社となったものである。このような経緯のため、靖国神社と神社本庁とは包括・被包括の関係にないながらも密接な協調関係を保っている。例えば神社本庁は靖国神社崇敬奉賛会の法人会員となっている。神社本庁に属さない神社であるため、宮司ほかの神職は、必ずしも神社本庁の神職の資格を持った人物である必要はない。例えば六代目の松平宮司はもともと神職ではなかった。この場合、祭式などの研修をまず受ける事になる。
靖国神社では2005年1月現在、総勢108人が靖国神社で働いている。
(九段下駅方面から)
「靖國神社」社号標 大鳥居(第一鳥居) 1974年完成した、鋼管製の鳥居。柱の高さが約25メートル、笠木(上の横木)の長さは約34メートルあり、重量は100トン。震度7の地震や、風速80メートルの強風でも壊れないと言われている。 さざれ石 大鳥居近くにある 赤い石 大鳥居近くにある 戦跡の石 旧日本軍の激戦地域から収集された石。「グアム島」「レイテ島」等がある。 慰霊の泉 戦場で水がなくて苦しんだ御霊に対し、水を捧げるために作られた記念碑。東京キワニスクラブが、1967年に奉納した。 大村益次郎像 東京招魂社(現在の靖国神社)建立に奔走し場所決定後、暗殺された大村益次郎の像。1893年に造られた日本初の西洋式銅像。戊辰戦争の際、司令官として彰義隊が立て籠る上野寛永寺を見つめていた姿を模したもの。因みに像の下にある、顕彰文の揮毫は三条実美である。 大燈籠 日本一の大きさの燈籠。1935年に富國徴兵保険(現在の富国生命)が奉納した。九段下駅側から右側の燈籠には、日清戦争から満州事変までの大日本帝国海軍の戦闘場面が描かれ、左側の燈籠には、同じく日清戦争から満州事変までの大日本帝国陸軍の戦闘場面が描かれている。終戦後、GHQによって撤去させられそうになったが、免れた。 大手水舎 1940年、アメリカで暮らしていた日本人が奉納したもの。 白鳩鳩舎 平和の象徴である「白鳩」を育てている。神門脇にある。 第二鳥居 神門 1934年に完成。扉の両方には直径1.5メートルの菊花の紋章がある。高さ6メートル。檜作りの門である。 斎館社務所 能楽堂 岩倉具視らにより東京・芝公園に建てられた能舞台で、1903年に靖国神社に奉納された。 拝殿 1901年に建築された。尚、普通の日の拝殿には「白色」の幕が掛かっているが、靖国神社の定める恒例祭(春秋例大祭・みたま祭・新年祭等)の執行される日には「紫色」の幕が掛かる。 本殿 1872年に尾張の伊藤平左衛門設計の下に造られた。1989年に当時の姿に復元されたもの。 霊璽簿奉安殿 霊璽簿(御霊の名を記してある簿)を保管する場所。1972年に建てられた。 元宮 幕末期に京都で造られた小祠を、1931年に靖国神社に奉納したもの。下記の鎮霊社とともに、2006年10月12日に一般参拝可能となった。 鎮霊社 1965年建立。靖国神社本殿に祀られていない霊と、諸外国の戦死者や戦争で亡くなった人の霊が祀られている。一般には公開されておらず、参拝もできない状態が長く続いていた。2006年10月12日に拝殿脇から参道が設けられ、元宮と共に一般参拝が可能になった。靖国神社創建の本義から見て、筑波藤麿元宮司の創祀そのものに疑義があり、又、一般公開は、大野俊康元宮司の宮司通達にも反し、批判がある。 南門 軍犬慰霊像 戦場で死んだ軍犬の霊を慰撫するため、1992年3月に奉納された。 戦没馬慰霊像 戦場で死んだ軍馬の霊を慰撫するため、1958年に奉納された。 鳩魂塔 通信に使われた伝書鳩の霊を慰撫するため、1982年に奉納された。 母の像 戦争で父親が亡くなってから母親が子供を育ててくれたことに感謝し、1974年に建てられた。 パール判事顕彰碑 極東国際軍事裁判の判事として、A級戦犯全員の無罪を主張したインドの法学者ラダ・ビノード・パールを顕彰するため、2005年に建てられたが、一部から批判もある。 靖國会館(旧「国防館」) 1階は休憩所と図書館「靖國偕行文庫」がある。 遊就館(博物館) 館名の典拠は、『荀子』より「遊必就士(遊ぶに必ず士に就く)」(遊歴する時は必ず優れた人物に交わり学ぶの意)に基づく。合祀された英霊の遺品や資料、戦争で使用された武器などを展示。収蔵品は約10万点。約5000人の遺影もある。主な収蔵品に、零戦52型(海軍零式艦上戦闘機)や人間魚雷「回天」、C56形蒸気機関車31号機など。他に、真珠湾攻撃成功の電文「トラ・トラ・トラ」や、「戦勝」祈願の血染めの日章旗、終戦時の陸軍大臣阿南惟幾の「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル」と記した血染めの遺書などが反戦・平和を訴えるためのものとして飾られている。 神池庭園 明治初期に造られ、1999年10月に整備・復元作業が行われた。 相撲場 春の例大祭に、全力士が奉納相撲を行う場所。近年ではプロレスの試合も催される。 招魂斎庭(跡) 招魂斎庭は例大祭に合祀を行なう時に最初に神霊を招ぎ下ろす祭壇である。その重要性にもかかわらず、役目を終つたものとして、現在そのほとんどを駐車場にしてしまったが、一部からは批判されている。 その他 参道に使われている石や玉砂利は中国産である。1869年には明治天皇により1万石の社領を「永代祭粢料」として与えられたが、国の財政難のために漸次減らされた。しかし、賽銭収入だけでも1891年には136,753円であったものが、日露戦争後に急増して1910年には1,709,710円となっている。これは全国から戦死者の遺族が参詣した結果である 。1875年、天皇は二回目の親拝に際し100円を与えた。1876年、政府は減額して5000石にしていた社領を年7550円の現金に改め、「寄付金」と称した。1877年、西南戦争の戦没者合祀に際して天皇は親拝して1000円を与えた。1887年、青銅製の鳥居の工事にあたり、皇室は1万5千円を与えた。1901年の大改増築に際し、政府は5万2千円を「特別寄付金」として与えた(総工費は約16万円)。同年の招魂式では天皇・皇后は2千円、政府は1万5000円を与えた。 以後も天皇・政府からの定収入・臨時収入があった。 現在の年間予算は20億円を越えるが、全て戦没者遺族、戦友などからの奉納金などで維持・運営されている。 Шаблон:独自研究S これは戦前も同様であり、国家からは全ての官国幣社に与えられた名目的な補助金以外に金銭的支援はなかったШаблон:要出典。更に、大鳥居を金属徴用されるなど国家総動員体制に組み込まれており、一般に言われるような他の神社との特別な区別はなかったШаблон:要出典。
近年では遺族会に代表される戦争世代が亡くなり続けているのに伴って、主要な収入源である大口の寄付も減少の一途をたどり、財政難に陥っている。
靖国神社問題でマスコミから注目を浴びていることから、近年の一般参拝者は増加している。参拝者数は年間約600万人で、なかでも終戦記念日である8月15日の1日だけで20万人にのぼる。しかしながら参拝者の賽銭では限界があり、財政難を解消するほどの収益にはなっていないものとみられるШаблон:要出典。
このほか遊就館の入館料や売店や境内にある茶店の売り上げなども貴重な収入源である。
靖国神社を描いた紙幣として、大東亜戦争中の政府紙幣がある。これは1938年以降日本政府が50銭硬貨に使われていた銀を戦略物資として温存するために、富士山を描いた昭和13年銘のある政府紙幣に置き換えていた。この紙幣では凹版印刷が用いられていた。だが1942年になって通貨需要が増大したため民間の凸版印刷株式会社に製造させたが、この時点で靖国神社を描く政府紙幣にデザインが変更された。
なお、この靖国神社を描いた紙幣は、硬貨の発行年と同様に昭和17年から昭和20年まで4つの発行年号が記載されている。また最初の昭和17年銘は凸版5色刷りの高級な印刷方法を用いていたが、最後の昭和20年銘(実際には戦後になった翌年発行)は印刷に用いる資材の枯渇のためオフセット印刷に切り替えられている。靖国神社の紙幣についてGHQから大目にみられ発行と流通が戦後も続けられたが、デザインはその後板垣退助に変更され、靖国神社の紙幣は1948年8月31日に廃止された。
正式参拝は神道の作法で行われるのが正しい。参集所から参入し、手水を取り、修祓(しゅばつ)を受けて本殿に昇り、玉串を奉げる。その後、二礼二拍手一礼し、退出の時に、御神酒を受け取る。社頭参拝は、鳥居をくぐり、手水を取り、拝殿前で二礼二拍手一礼をする。
なお、首相が参拝する時には、日本国憲法第20条で規定された政教分離(特定の宗教の流儀を実行すると国家がその宗教に援助を与えているとみなされるおそれがある)に配慮して、本殿に昇殿はしてもお祓いも受けず、二礼二拍手一礼も行わない場合がある。
1870年開始の靖国神社競馬場(1898年廃止)の周囲に数十本の桜が植えられた 。現在では境内は東京都内でも有数の桜の名所となった。そのため毎年3月下旬から4月上旬にかけて多くの花見客で混雑し、屋台も多数出店されている。このように桜が境内に多く植えられるのは、散華した兵士を象徴であるとの指摘もある。
気象庁は境内にある3本のソメイヨシノを、東京都で桜の開花日を決定する標準木として指定している。そのため東京都の“桜の開花宣言”はこの標準木が咲いた時に行われている。
<>内は関連事項。
靖国神社を国家管理に戻そうとする、「国家護持運動」が過去にはあった。これは政教分離を定めた日本国憲法に反するために様々な案が検討された。日本遺族会会長は「国家護持」のためには法案は靖国神社の非宗教化を約束したものでなければならないと諦め、態度を変えて非宗教化案に応じた。1969年1月20日、これに憤慨した大東塾の者が会談中に日本遺族会会長に暴行を加えた(懲役3月・執行猶予2年)。当時の大東塾塾頭は会談を斡旋した吉橋公安調査庁長官に義理を立て、手の指を一本切った。
自由民主党は、1969年6月30日に国家管理化を目指す「靖国神社法案」を国会に提出したが、55年体制下の保革対立の中で廃案となった。以後、1973年まで5回同法案を提出したが、審議未了により廃案となった。1974年には自由民主党の強行採決によって衆議院を通過したが、参議院で廃案となった。次に自由民主党内で浮上したのが閣僚の参拝である。
靖国神社、遺族会らは民法34条の祭祀法人となれば靖国神社法案のような特別な立法は必要なく、宗教法人でもなくなり、公的資金の支出も可能であろうとの問題提起をしたが、免税率の低下などの諸問題によりこの提起は消滅した 。
日本終戦後も靖国神社が存続したことについて、以下のような逸話が語られている。
1945年に日本を占領したGHQは、靖国神社を焼き払いドッグレース場を建設する計画を立てていたが、賛否両論が巻き起こり収拾が付かなくなっていた。そこでローマ教皇庁代表であり上智大学学長でもあったブルーノ・ビッテル(Bruno Bitter、英語読みでビッターとなっている場合あり)神父に意見を求めることになった。
ビッテル神父は「いかなる国家も、その国家のために死んだ戦士に対して、敬意を払う権利と義務があると言える。それは、戦勝国か、敗戦国かを問わず、平等の真理でなければならない」とし、「靖国神社を焼却する事は、連合国軍の侵略政策と相容れない犯罪行為である」とまで言ったという。そして次の言葉で締め括った。
「靖国神社が国家神道の中枢で、誤った国家主義の根源であるというなら、排すべきは国家神道という制度であり、 靖国神社ではない。我々は、信仰の自由が完全に認められ、神道・仏教・キリスト教・ユダヤ教など、いかなる宗教を信仰するものであろうと、国家のために死んだものは、すべて靖国神社にその霊をまつられるようにすることを、進言するものである」Шаблон:要出典。この進言により靖国神社は焼き払いを免れたという。
大東亜戦争(太平洋戦争)戦後60年にあたる2005年8月15日、靖国神社境内では様々な催しが行われた。午前9時からは、「日本は謀略によって戦争に巻き込まれたものであり、自衛のための戦争であった」・「日本は侵略国ではありません!」と主張している英霊にこたえる会主催の「第30回全国戦没者慰霊大祭」が拝殿で行われた。その後、午前10時より能楽堂前で「日本の声 - 英霊に感謝する集い」が行われ、放鳩式が開催された。
また、神社外苑では午前10時30分より「戦後60年国民の集い」(主催みんなで靖国神社に参拝する国民の会・日本会議・英霊にこたえる会、2部構成)が行われた。第1部の「第19回戦没者追悼中央国民集会」は毎年開催されており、國學院大學教授・大原康男の司会による開会の辞の後、国歌斉唱・靖国神社拝礼が行われた。その後、1945年8月15日正午に放送された「終戦の詔書」いわゆる「玉音放送」を聴き、主催者の挨拶が行われた。そして、「各界からの提言」として当時は自由民主党(当時)衆議院議員の平沼赳夫、埼玉大学教授の長谷川三千子、ノンフィクション作家のクライン孝子、小野田自然塾理事長の小野田寛郎が提言を行った。正午の時報とともに戦没者への黙祷を行い、政府主催の全国戦没者追悼式の実況放送から天皇の言葉を聴いた。その後、同年6月27日~6月28日に行われた今上天皇と皇后美智子のサイパン行幸啓の報告等がなされ、最後に「大君(おおきみ)の辺(へ)にこそ死なめ」という歌詞のある「海ゆかば」を斉唱し、第1部は終了した。
第2部の「靖国のこころ~追悼と感謝の集い~」は、「終戦60年・日本への提言」として東京都知事の石原慎太郎、自由民主党の古屋圭司、衛藤晟一、山谷えり子、民主党の松原仁、西村眞悟(当時)、靖国神社に参拝する全国地方議員の会の野村有信、評論家の西尾幹二(当時は新しい歴史教科書をつくる会名誉会長)、日本青年会議所会頭、日本相撲協会の出来山双一、世界イスラム連盟のイドリスノ・マジッド、台湾総統府国策顧問の金美齢が提言を述べた。また、英霊に捧げる歌としてつのだ☆ひろ・今尾滋・あべまりあ・三枝万祐・長野安恒が歌を歌った。
なお、この日靖国神社には20万5千人以上の参拝者が訪れ、昇殿参拝者も5600人以上となった。
2006年8月15日の首相参拝では、朝日新聞の記者やカメラマンも取材しようとしたが、靖国神社側は「12日付の朝刊で神社所有の不動産・施設・職員寮の地図を掲載したことは、プライバシーを侵害するものであり、職員の身辺を保護するうえでも問題がある」として、神社敷地への立ち入りを禁止し取材拒否した。