高島城

高島城(たかしまじょう)は、長野県諏訪市高島にあった日本の城。諏訪の浮城島崎城とも呼ばれる。

概要

城郭の形式は連郭式平城である。かつては諏訪湖に突き出した水城で「諏訪の浮城(すわのうきしろ)」と呼ばれていたが、江戸時代初めに諏訪湖の干拓が行われ、水城の面影は失われた。しかし、浮城の異名を持っていたことから日本三大湖城の一つに数えられている。

日根野氏によって総石垣造で8棟の櫓、6棟の門、3重の天守などが建て並べられ近世城郭の体裁が整えられたが、軟弱な地盤であったため、木材を筏状に組み、その上に石を積むなどの当時の最先端技術が用いられた。それでも石垣が傷みやすく、度々補修工事を加える必要があったという。7年間の短期間で築城したため、かなり無理をしたらしく、地元では「過酷な労役に苦しんだ」「石材を確保するため、金子城の石材は全て持ち出したほか、墓石、石仏も用いられた(転用石)」などの伝承が残る。

歴史

高島城(茶臼山城)

中世、諏訪郡の領主であった諏訪氏は現在の諏訪高島城の北方に位置する茶臼山に高島城(茶臼山城)を築いて居城とした。諏訪氏の滅亡後、諏訪郡には武田家の譜代家老・板垣信方が現在の茅野市に所在する上原城に配置され、諏訪郡司となった。

天文17年(1548年)には上田原の戦いにおいて信方が戦死し、天文18年(1549年)正月には長坂虎房が諏訪城代となり、高島城へ入城した。『高白斎記』によれば、高島城は足軽大将の山本勘助により改修されたという。高島城の城代は虎房の後に吉田信生・市川昌房が務め、天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いで昌房が戦死すると、今福昌和が務める。高島城は武田氏による諏訪郡支配の拠点となった。

諏訪高島城

天正10年(1582年)3月の武田氏の滅亡後、甲斐国と信濃諏訪郡は織田氏の家臣・河尻秀隆が領し、諏訪郡には秀隆の家臣・弓削重蔵が配置された。同年6月の本能寺の変による「天正壬午の乱」の後、諏訪郡を領した諏訪頼忠は、平城の金子城(諏訪市中洲)を築き、新しい拠点としたが、1590年(天正18年)に諏訪頼忠が武蔵国奈良梨に転封となり、代わって日根野高吉が、茶臼山にあった旧高島城に入城する。

高吉は、1592年(文禄元年)から1598年(慶長3年)にかけて、現在の地である諏訪湖畔の高島村に新城を築く。その際村人には漁業権や賦役免除権などの特権を与える代わりに小和田へ移転させた。高吉は織田信長、豊臣秀吉の下で普請を経験していたことから、織豊系城郭として築城し、石垣を築いて天守も上げた。同時に上原城周辺にいた商工業者を移住させ、城下町の建設を開始した。

1601年(慶長6年)日根野氏は下野国壬生藩に転封となり、譜代大名の諏訪頼水が2万7千石で入封。再び諏訪氏がこの地の領主となり明治維新まで続くこととなった。江戸時代は諏訪藩の政庁であり藩主の居所であった。1786年(天明6年)に石垣などが補修されている。

寛永3年(1626年)には徳川家康六男の松平忠輝を預かる。南の丸を増設し、監禁場所とした。以降も南の丸は、幕府から預かった吉良義周などの流人の監禁場所となる。

1871年(明治4年)廃藩置県により高島県となり、県庁舎として利用された。1875年(明治8年)に天守以下建造物は破却もしくは移築され、一時は石垣と堀のみとなり、翌1876年(明治9年)高島公園として一般に開放され、1900年(明治33年)に諏訪護國神社が建てられる。

現在は二の丸、三の丸が宅地となり、1970年(昭和45年)には本丸に天守・櫓・門・塀が復元され、高島公園として整備された。

2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(130番)に選定された。

建物

天守

天守は独立式望楼型3重5階で、明治初頭に撮影された写真にその姿がうかがえる。初重を入母屋の大屋根とし2重の望楼がのせられた形状で、2重目の東西面に入母屋破風出窓、3重目には南北面に華頭窓をもつ切妻破風出窓と東西面に外高欄縁が設けられた。各所に華頭窓が用いられ、屋根は瓦葺ではなく檜の薄い板を葺く柿葺であった。

現在の復興天守は窓の大きさや位置などの細部が異なり、屋根には銅板が葺かれており、内部は資料館となっている。

遺構

二の丸三の丸は開発の手が入ったが、本丸は高島公園として整備され、本丸の石垣および北側と東側の堀が残る。

建造物としては、三の丸にあった城門が本丸に、どこの門か定かではないが温泉寺および浄光寺の山門として、それぞれ移築現存する。また、能舞台が温泉寺本堂の一部として移築されている。

脚注

[]

参考文献

  • 『定本 日本城郭事典』 西ヶ谷恭弘、秋田書店、2000年、103-104頁。ISBN 4-253-00375-3。

関連項目

  • 日本の城一覧

外部リンク

以下のカテゴリーにリストされています:
コメントを投稿
ヒントとヒント
Rue. SATOH
2023年8月27日
1592 年に日根野高吉が諏訪湖に突き出すようにして築いた連郭式の城で、高嶋藩の藩庁。江戸時代初期の干拓で諏訪湖の面積が縮小したため、現在は湖岸から離れた場所に位置している。高吉の子・吉明が 1601 年に壬生藩に移封された後は諏訪頼水が入り、以後は諏訪氏の支配となった。本丸は完全に公園化されているが、石垣及び北側・東側の水濠が残る。望楼型の天守は小さいが味のある造形。
ぽん酢 ※
2013年11月2日
こじんまりとしてますが立派なお城。城内は資料館になってます
Tomohito Takatsu
2013年10月27日
諏訪の浮城の異名を持つお城。面影は、、
knich tam
2019年6月30日
諏訪湖のほとりにあるお城です 現在公園となってますが雰囲気がありとても良いです
zen
2019年2月9日
こじんまりとした城跡公園だが、心落ち着く場所。
Kazuo Hayakawa
2013年4月21日
1970年築城、時代背景を物語る残念ながらコンクリート城である
6.2/10
Nadya Popova, psychicer そして、2,361より多くの人々がここにいました
Wed 11:00 AM–4:00 PM
Thu 9:00 AM–10:00 AM
Fri 10:00 AM–5:00 PM
Sat 9:00 AM–7:00 PM
Sun 9:00 AM–6:00 PM
Mon 9:00 AM–5:00 PM

上Takashima Castle Foursquare

上高島城 Facebook

Shimosuwa Onsen Ryori Jiman no Yado Baigetsu

開始$0

Shinshu Shimosuwa Onsen Gingetsu

開始$176

Chousenkaku Kameya

開始$306

Shimosuwa Onsen Chosenkaku Kameya

開始$0

Green Sun Hotel

開始$121

Onyado Maruya

開始$310

近くのお勧めスポット

すべてを見る すべてを見る
ウィッシュリストに追加
私はここにいた
訪問
松本城

ウィッシュリストに追加
私はここにいた
訪問
旧開智学校

旧開智学校(きゅうかいちがっこう)は、長野県松本市にあった旧制小学校で、日本で最も古い小学校のひとつ。

ウィッシュリストに追加
私はここにいた
訪問
日本浮世絵博物館

日本浮世絵博物館(にほんうきよえはくぶつかん)は、長野県松本市島立にある浮世絵の博物館(財団法人)。

ウィッシュリストに追加
私はここにいた
訪問
浅間温泉

浅間温泉(あさまおんせん)は、長野県松本市北東部にある温泉。同市の奥座敷といわれる。

ウィッシュリストに追加
私はここにいた
訪問
貞享義民記念館

ウィッシュリストに追加
私はここにいた
訪問
大王わさび農場

ウィッシュリストに追加
私はここにいた
訪問
小諸城

小諸城(こもろじょう)は、長野県小諸市にある城跡。別名、酔月城、穴城、白鶴城。

ウィッシュリストに追加
私はここにいた
訪問
東京大学大学院理学系研究科附属天文学教育研究センター

東京大学大学院理学系研究科附属 天文学教育研究センター(とうきょうだいがくだいがくいんりが

同じような観光スポット

すべてを見る すべてを見る
ウィッシュリストに追加
私はここにいた
訪問
ノイシュヴァンシュタイン城

ノイシュヴァンシュタイン城(独:Schloss Neuschwanstein)はドイツ、バイエルン州のフュッセ

ウィッシュリストに追加
私はここにいた
訪問
ロンドン塔

ロンドン塔(Tower of London)はイギリ

ウィッシュリストに追加
私はここにいた
訪問
Château de Gruyères

The Castle of Gruyères (in french: château de Gruyères), located in th

ウィッシュリストに追加
私はここにいた
訪問
サンタンジェロ城

サンタンジェロ城(サンタンジェロじょう、伊:Castel Sant'Angelo)は、ローマのテヴェレ川右岸にある城塞である。日本語訳によっ

ウィッシュリストに追加
私はここにいた
訪問
Castello Scaligero (Sirmione)

Замок Скалігерів (італ. Castello Scaligero) —

すべての同様の場所を参照してください。